買い手としてのM&A検討から一転、売却を決意 心境変化のきっかけとは

昨今、大きな問題となっている「後継者不足」に端を発し、日本では事業承継の多様化が進んでいる。その中でとりわけ注目を集めているのが第三者への承継、いわゆるM&Aだ。

これまでは親族への承継や親族以外(役員、従業員)への承継、それが難しい時の選択肢としてM&Aを検討する経営者が多かった。しかし今は、事業成長や事業存続のためのファーストチョイスとしてM&Aをセレクトする経営者も少なくない。

実際にM&Aで会社を売却した経営者はなぜ、その方法を採用したのか。

連載「The WAY|私が会社を売却した理由」第3回目は、“人生の師匠”である父親から会社を受け継ぎ、中小企業の強みを活かして経営危機を乗り越え事業拡大を続けた株式会社宝栄建設の相原和行氏に話を聞いた。
(2022年11月取材)

34歳で父親の会社を受け継ぐ

宮城県石巻市出身で工業高校へと進学した相原氏は、卒業後、宮城職業訓練短期大学校金属科へと進みました。在学中から父親が社長を務める株式会社宝栄建設で仕事を手伝い、学業を修めた後は父の誘いを受けて宝栄建設に正式に入社、22歳の時に常務取締役に任命されました。

宝栄建設は、金属加工などの陸の部門と、海洋施設の建設やウォー ターフロント開発などの海の部門と大きく分けて2つの事業を営んでおり、先に入社していた兄が主に陸を、自身は主に海の部門を担当しました。そしてこの2部門は、父親によって兄の株式会社宝栄鉄工と、相原氏が代表を務めることになる株式会社宝栄建設に分社化されることとなります。

相原氏は、父親が社長になった34歳で、自身も宝栄建設の社長になりたいと直談判し、それが認められて社長に就任。それから10年後の2010年に父親が急逝し、経営者としての業務を全て担うこととなりました。

翌年2011年3月11日に東日本大震災が起こり、これを機に建設業界の需要が高まりました。そして多くの奇跡が重なって、それまで資金を切り崩しながら経営を続けていた会社の業 績が回復しました。相原氏が中小企業の強みと語る「決裁スピードの速さ」を活かし、柔軟に体制を整え、作業環境を整備して軌道に乗ることができました。

会社の急浮上を受け今度は、事業の継続と拡大のために人材の補強が必要になり、買い手としてM&Aを検討し始めることになるのですがーー、ここからは自身の言葉で振り返っていただきます。

経営を続ける体力と気力があったものの……

相原氏は語ります。

「会社は人で成り立っていますが、それは宝栄建設も例外ではなく、事業の継続と拡大のためには人材の補強が必要でした。そこで検討した手段がM&Aです。しかし、当初は譲受側として、つまり買い手として他社との連携を図ろうと動き出したものの、なかなか理想とする相手を見つけられずにいました。

私自身はまだまだ経営を続けていける体力と気力がありましたが、人員不足が原因で受注できない仕事があったり、後継者が不在であったりする状況には何かしらの策を講じる必要がありました。

そして税理士事務所を変更した際に紹介されたのが日本M&Aセンターでした。ここまで育ててきた会社を残し、さらに会社のためになることをしたいと考えた私は、今度は譲渡側としてのM&Aの検討を始めました。廃業させるにも、時間がかかるだけでなく利益も削がれます。そのような意味でも、M&Aは私にとっても会社にとっても最適な手段でした。

2021年10月1日、ノンネーム(※譲渡対象となる会社名等を明かさない匿名ベースで、その概要を簡単に要約したもの)で公開したはずの情報を見た北海道の株式会社菅原組の社長が、それだけで宝栄建設であることを察したらしく、即決で買い手として名乗りを上げてくださいました。

その翌月には宮城まで訪れて食事に行くこととなり、私は腹を割って本音で意見を交わしたのですが、ここでも相手の意思が揺らぐことはありませんでした。後日談ですが、日本M&Aセンターの担当者いわく、菅原組の社長はこの会食について「楽しかった」と仰っていたそうです。

その後も菅原組の社長とは何度か会食の機会が設けられ、私自身も相手の事務所がある北海道の函館まで伺い、お互いの理解が深まったところで正式に契約を締結しました。実は菅原組のほかにも譲渡先の候補はいくつかありましたが、規模感や経営基盤の安定性などを総合的に判断した末の決断でした。

成約式は2022年3月25日に執り行われ、その晩も会食の場が設けられました。成約式ではマリッジブルーのような気分になる経営者も少なくないようですが、私自身は気持ちの整理がついており、譲渡先企業との関係性も構築できていたために、晴々とした気持ちで捺印ができました。

その翌朝、ホテルで一人で目が覚めると、憑き物が落ちたような開放感がありました。その時、会社が倒産する不安を抱える心配がなくなったことを実感し、初めて自分が無意識に倒産を恐れていたことを自覚しました。M&A後に受けた健康診断では、もともと110だった血圧の下値が80まで下がっていました。

私は一度決めたことには真っ直ぐに進む性格で、アドバイザリー会社については、事業承継について相談していた税理士事務所から紹介された日本M&Aセンターにすぐに決めました。担当の中川さんは情熱的で人としての魅力が感じられ、とても信頼のおける方でした。

私の場合は円滑にM&Aを終えることができたほうだと思いますが、「譲渡先が見つからなかったらどうしようか」という不安だけは抱えたことがありました。M&Aにおける最悪のケースとは、譲渡先が見つからないことです。

しかし、中川さんからは「財務が良いので、すぐに買い手は現れますよ」と言っていただき、それが現実となった形となりました。菅原組は北海道の企業ですが、宮城の隣県である岩手の大船渡にも事務所があります。

実は宝栄建設も大船渡で仕事をしており、東日本大震災の時には宝栄建設の下請けと
して仕事をお願いしていたことがありました。今回のM&Aは、そのような御縁も重なったものでした。

成約式から3日後の3月28日に、従業員にM&Aの報告をしました。極秘事項だったために事後報告という形式を取らざるを得ませんでしたが、動揺を与えないよう、M&Aによって会社がさらに強くなることや従業員の処遇も良くなること、そしてオーナー社長ではなくなるから一緒に仲良く仕事をしていきたいことなどを伝えました。

すると、徐々に会社の雰囲気が変わっていき、従業員の間で「社長、最近怒らないよね」といった声も聞こえるようになりました。自分では気づかないうちに、私の性格が丸くなったようです。

ただ、それと引き換えに私自身への求心力が弱くなっていく感覚は否めず、どこか寂しさのようなものもありました。しかし、それを受け入れられる価値のあるM&Aであったと自分の決断を信じています。

あくまで一般論ではありますが、中小企業は三代目社長で事業承継が失敗に終わる確率が非常に高い世界です。私ももともとは息子に会社を継がせるつもりではありましたが、さまざまな可能性を考え、総合的に分析してM&Aが最適なのではないかと結論を出しました。

譲渡先企業については慎重に検討を重ねた上での判断だったので、M&A後は経営基盤が強固なものとなるでしょう。特に菅原組は福利厚生を重視しているだけでなく、建設業界では珍しく女性社員を戦力として鍛えてくれる企業でもあります。これらも安心材料になりました。私自身は取締役社長として4年間は会社に残ることになり、代表権はありませんが、引き続き宝栄建設の発展に貢献できるよう努めます」

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