現在のガーナの土台となったその歴史とは?

私たちは、アフリカと一纏めで語りがちだが、アフリカは、広大な大陸だ。中国、アメリカ、ヨーロッパ、インド、日本がすっぽり入ってしまうほどの土地に、54カ国、約10億人が暮らしている。アフリカに、「国」という概念を持込んだのは、ヨーロッパ人だ。民族構成や地形を考慮せず、ヨーロッパ列強国間の力関係だけで国境線を引いた。そのため、アフリカの国境線は、直線的なものが多い。

ガーナに、ヨーロッパ人が到来したのは、15世紀。金が産出されることがわかると、 港には城壁が築かれ、 貿易の拠点となった。ポルトガル人に始まり、 オランダ人、イギリス人と時代と共に城塞の持ち主は変わっていった。金が産出されることから、ゴールド・コースト(黄金海岸)とも呼ばれた。金に加え、貿易品となったのが、奴隷だ。

西アフリカからアメリカ大陸へ連行され、米国南部の綿花プランテーションの労働力となったことは日本でも広く知られている。実際には、欧州から持ち込まれた疫病の流行と酷使により亡くなった先住民に代わる鉱山での労働力として、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、ブラジルなどの南米に、より多くの黒人が渡っているのだ。ブラジルの サンバのステップにも、ジャマイカのジャークチキンのスパイスにも、 激しい弾圧を経てもなお、脈々と受け継がれる逞しくも豊かな西アフリカの文化と血が見て取れる。

ただし、当時は、あくまでも貿易であり、 ヨーロッパ人には、決して金のありかを教えることはなかった。敵対する部族などを売り払い、武器を購入し力を蓄えていったのが、現在のガーナ内陸部の大都市クマシに栄えたアシャンテ王国だ。しかし、19世紀に入り、欧州列強各国によるアフリカの植民地化が進み、奴隷貿易衰退と共に、アシャンテ王国の財政基盤も揺るぎ始め、度重なる戦いの末、1902年に英国に併合される。かの野口英世博士が、黄熱病の研究中に、アクラで死去したのも、この植民地時代だ。

1957年、アフリカで初めて、現地人が中心となってヨーロッパ宗主国から 平和的な方法で独立を達成、ガーナ共和国が建国されると、独立運動のリーダーであった初代大統領クワメ・エンクルマは、すぐに差別廃止法を制定し、人種、出身、宗教を基盤とする政党は結成を禁止した。これには、正式な王位や権威こそないものの、現在も存続し、絶大な影響力を誇るアシャンテ王国の王やイスラム教徒を基盤とするムスリム協会党を牽制し、中央集権的な政権樹立を目指すエンクルマの思惑があった。10を超えるローカル言語と民族を抱えるが、公用語を英語と定めた。この中立的な礎が、宗教、民族争いがほとんどない、平和なガーナを形づくることになる。