多くの技術者のアイデアと努力の結晶である自動車をこよなく愛した創業者たちの、熱い想いがこもった名言を紹介する。
国産にこだわり続けた 豊田喜一郎(トヨタ)
発明王として知られた豊田佐吉氏の長男として生まれた喜一郎(1894-1952)は、後にトヨタ自動車工業となる豊田自動織機製作所自動車部を新設した。その軌跡はドラマ化もされている。
「一旦トヨタから出した車は、何処が悪くても全責任を負わなければなりません。それを他の部分に罪を着せず、自家製品の悪いところを言い逃れの出来ぬ様にさせると云う事は、自分自身の製品に自信をつける最も大事な事であります」
「作ってやる、売ってやるではいけない。買ってもらう、作らしてもらっている、という気持ちでなくてはいけない」
「オヤジ」と慕われた生粋の技術者 本田宗一郎(ホンダ)
本田宗一郎(1906-1991)は自動車修理工として成功では飽きたらず、1946年に本田技術研究所、2年後に本田技研工業を設立した。1989年には日本人として初めてのアメリカの自動車殿堂入りを果たしている。
「新しいことをやれば、必ず、しくじる。腹が立つ。だから、寝る時間、食う時間を削って、何度も何度もやる。来年も最高のエンジンを作ってやる」
「日本人は、失敗ということを、恐れすぎるようである。どだい、失敗を恐れて何もしないなんて人間は、最低なのである」
自動車の産みの親 カール・ベンツ(メルセデス・ベンツ)
言わずと知れた高級車メーカー創業者であるベンツ(1844-1929)は、世界初の実用的なガソリン動力の自動車を発明した人物である。彼が世界で初めて作った原動機付きの三輪車にドイツ政府から、特許がおりた日が自動車の誕生日とされることから自動車の産みの親と言われている。
「発明することのほうが、発明したことよりもずっと面白いことだ」
「私は蒸気機関車を鉄道の束縛から解き放ちたいと思ったのだ」
20世紀最高の自動車設計者 フェルディナンド・ポルシェ(ポルシェ)
現在スポーツカーを指す単語のようになっている「ポルシェ」だが、元々は高級車専門というわけではなかった。ポルシェ(1875-1951)は、史上最も成功した大衆車と言われるフォルクスワーゲン・ビートルの開発者でもある。
「私の夢を実現してくれる車はどこを探しても見つからなかった。だから自分でつくることにした」
「ユーザーの立場で考えた場合、多少でも不利となりうる要素は決して採用すべきではない」
相場師の顔を持つ経営者 ウィリアム・C・デュラント(GM)
米国自動車産業界の先駆者であるデュラント(1861-1947)は、過去2度も同社の経営権を失いながら、決してあきらめない不屈の精神を持っていた。1908年持ち株会社として設立したGMはビュイック、オールズモビルなどの自動車会社を買収し、トラック会社や部品会社も傘下に収めた。
「多少の間違いなんか忘れろ。失敗も忘れろ。自分がいま、これからしようとしていること以外は全部忘れてやろうじゃないか」
中流階級に自動車を ヘンリー・フォード(フォード)
フォード(1863-1947)自動車を発明した技術者ではないが、ライン生産方式による大量生産技術で、中流の人々が購入できる初の自動車を開発・生産した功績は大きい。自動車の育ての親とも言われている。
「汽車のように早く、そして馬のようにどこへでも走れる乗り物が欲しい」
電気、水素、自動運転など新たな領域へと自動車産業はやってきたが、その根幹には物を作り出すことへのこだわりと誇りを持った創業者たちがいた。今後もその信念の上に開発競争は進んでいくだろう。(ZUU online編集部)