経団連と連合は13日、働き方改革の一環として残業時間の上限を最大で月60時間、年720時間までに制限するという、残業時間の上限規制について労使で合意し、安倍首相に合意文書を手渡した。これが実行されると、事実上無制限に残業時間を増やすことができる「36協定」が制限されることになる。
現在実施されている日本の労働基準法第36条、いわゆるサブロク協定では「労使協定をし、行政官庁に届け出た場合においては、その協定に定めるところによって労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる。」と労働基準監督署長に届け出た場合は、その協定内の範囲内で残業や休日労働を許可している(*1)。
さらに、労働基準法は、残業時間の上限を「月45時間」に制限しているものの、「臨時的で、特別な事情がある場合には、残業時間の上限を超えて働くことができる」という「特別条項」を付けて協定を締結することも可能であり、この場合は残業時間の上限なしで、無制限に労働者に残業をさせることができるようになっている。
その結果、日本では労働者の過重労働や過労死の問題がまだ解消されておれず、実際、業務における強い心理的負荷による精神障害を発病したとする労災請求件数が毎年増加している。
安倍首相は、このような問題を念頭に置きながら、首相官邸を訪れた経団連の榊原定征会長と連合の神津里季生会長に繁忙期の上限特例について「100時間未満とする方向で検討して頂きたい」と要請した。
今回、経団連と連合が残業時間の上限規制について労使で合意したことは、ある程度評価されるべきであるだろう。せっかくの労使合意が良い結果に繋がるためには次のような点も考慮されるべきではないかと思い、少し愚見を述べてみた。
長時間労働は過労死の問題だけではなく、労働者の疲労度を高めて、モチベーションの低下による生産性の低下に繋がる恐れがある。そこで、一般的には長時間労働を是正して働く時間を短くすれば効率的に働くことができると認識されている。しかしながら、これを実施するためには労働者の所得をどのように保障するかを同時に考える必要がある。
例えば、工場等の現場で働く労働者のことを考えてみよう。大手企業以外には、現場で働く労働者の基本給は低く、彼らの多くは残業手当が生活費の一部になっている。つまり、彼らは一定水準以上の生活費を確保するためには、ある程度の残業をしなければならず、それが長時間労働に繋がっている可能性が高い。特に、連合や個別労働組合に保護されていない、中小企業や零細企業で働いている労働者の場合は状況がより深刻である可能性が高い。
そこで、残業時間の上限規制とともに、労働時間が減少しても生活が安定できるように最低賃金の引上げなどを含めて企業の処遇水準改善や国のセーフティーネット強化を同時に進める必要がある。
また、決まった労働時間や労働時間の削減を一律的に適用することだけを考えるよりは、労働者一人一人の状況に合わせてより柔軟な働き方ができるような環境を整備することも必要だ。特に、育児を担当しながら働いている女性の場合は、一律的な労働時間の設定より在宅勤務や短時間労働、そして勤務時間選択などの柔軟な働き方をより選好している。
日本における女性の働く環境は過去に比べると大きく改善されているものの、欧米に比べるとまだ労働市場における差別も多く、sticky floor(くっつく床、職場にはいった女性が最初の地位から昇進できない状況)やglass ceiling(ガラスの天井、成果にかかわらずマイノリティ及び女性の組織内での昇進を妨げる見えないが打ち破れない障壁)が未だに大きな問題として残されている。女性がより活躍できる社会を作るためにも労働時間の短縮のみならず柔軟な働き方が実現できる社会を構築することが重要である。
短縮された時間の間に今までと同じ付加価値を算出するためには労働の強度を増大させなければならない。それは生産性の向上を意味するだろう。しかしながら、人はそれぞれキャパシティが異なり、働き方も多様である。仕事が速い人もいる反面、仕事が遅い人もいる。また、時間をかけながらゆっくり仕事をしなければならない仕事もあるだろう。労働の強度を増やすことだけが必ずいい結果には繋がらない。
成果主義が拡大されている中で、一律的に労働時間の削減を適用し、その結果だけで労働者を評価すると、結果的にはキャパシティが低い労働者はうつ病になったり、職場から退出させられてしまう。結果としての労働市場の柔軟化が進み、企業の業績や生産性は向上するかも知れないが、一方で格差や貧困の問題はさらに深刻になる恐れがある。
企業の競争力を高めるために労働市場の柔軟化を目指すことは欠かせないことかも知れないが、そのためにはまず、仕事を失った労働者がより早い段階で転職できるように、新たな産業の育成や離職者に対する訓練や教育等の対策を強化する必要がある。
また、安倍首相が残業時間の上限特例について「100時間未満とする方向で検討して頂きたい」と要請したことも議論の余地があろう。一般的に働き過ぎにより健康障害が生じて、労働災害と認定の因果関係を判断できるかどうかのために設けてある、時間外労働時間の目安となる時間である「過労死ライン」は80時間とされている。しかしながら、今回要請した上限特例100時間は、「過労死ライン」である80時間(*2)をはるかに超えている。
企業は公的社会保険の保険料支出など人件費に対する負担を最小化するために、新しい労働者を採用するより既存の労働者の労働時間を増やす傾向がある(*3)。従って、今回の政府の提案は労働者よりも企業を配慮した政策であると言えるだろう。政府は、少なくとも将来的な課題として今回の要請を見直し、残業時間の上限特例として80時間未満を目指すことが望ましい。
今回の経団連と連合の合意が、長時間労働の削減のみならず、企業の処遇水準改善や国のセーフティーネット強化、柔軟な働き方の実現、新たな産業の育成や離職者に対する訓練や教育等の対策の強化、残業時間の上限特例の再検討などより労働者保護の立場に立った政策として推進されることを強く望むところである。
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(*1)日本の労働基準法35条1項では、「使用者は、労働者に対して、毎週少なくとも1回の休日を与えなければならない」と規定している。また、労働基準法では1日8時間、1週間に40時間を法定労働時間として定めている。違反時には6か月以下の懲役、あるいは30万円以下の罰金が課される。
(*2)発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働。
(*3)詳細は、金明中(2015)「非正規雇用増加の要因としての社会保険料事業主負担の可能性」『日本労働研究雑誌』No.659を参照。
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金 明中(きむ みょんじゅん)
ニッセイ基礎研究所 生活研究部
准主任研究員
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