クールビズが一般的になった昨今、通勤電車でもカジュアルなファッションを見かけることが珍しくなくなった。しかし、それでも私には同業者である銀行員を見分けることができる。一言でいえばダサいのだ。言葉で表現するのは難しいが、一種独特の野暮ったいオーラを発している。

商社やメーカーなど他の業種は、ノーネクタイでも爽やかな印象だが、銀行員はただネクタイを外しただけ、どこか冴えない間の抜けた感じがする。しかも、優秀な銀行員であればあるほどその傾向が強い。ダサい、野暮ったいとは、換言すれば個性がない、主張がない、存在感がないということだ。

ダサい服装はバブル期の名残りか?

白いワイシャツに地味なスーツ。銀行員の服装は社内規定で決められているわけではない。せいぜい銀行員らしい清潔で華美でない服装という程度だ。

実際、私が銀行に就職してから、先輩や上司に服装を指導されたことは一度もない。「こういうスーツを着ろ」とか、「こういうネクタイはダメだ」と命じられたことなどない。

つまり、「なんとなくこんな感じかな」という感覚で自発的にワイシャツを選び、スーツを選んでいるのだ。にもかかわらず、私の周りの銀行員は皆同じように地味だ。接客業だから地味な服装の方が良いのか。決してそんなことはない。百貨店の外商部員、自動車ディーラー、不動産業者などは、銀行員の私から見ても比較にならないほど服装の自由度は大きく、洗練されているように感じられる。

私は金融商品の販売の現場で、実に様々な職業の人と出会い、数多くのコミュニケーションを経験している。その経験で言わせていただくと、どんな職業でも優秀な人ほどファッションセンスが良い。キラリと光るものを持っている。

ところが、不思議なことに銀行員は、むしろ優秀な人間ほどイマイチなのだ。バブルの余韻が冷めない頃までは、現在とは比較にならないほど銀行員の給与水準は高かった。あの頃は暗黙の了解として、お客様から変なやっかみを受けることがないような身なりをしなければならないという「空気」があったことは確かだ。しかし、いまやそんな銀行員の経済的な優位性などほとんどない。

にもかかわらず、銀行員の服装は未だにダサい。ワイシャツは白いままである。

白いワイシャツとは「踏み絵」である

先日、自民党の村上誠一郎元行政改革担当相がテレビ番組で、安倍晋三首相の内閣改造について「お友達か、同じ思想を持っているか、イエスマンの3つの人しかいない」と語っていたが、銀行も同じである。

銀行員も出世するためには「お友達」「同じ思想」「イエスマン」でなければならない。それを分かりやすく表現する意味において、ダサくて地味なファッションは好都合だ。

地味な素材の白いワイシャツほど分かりやすいものはない。もし、白地に青いストライプが混じっていれば、それは「お友達」でも「同じ思想」でも「イエスマン」でもないと、すぐに分かってしまうのだから。銀行員にとって白いワイシャツは出世の3つの条件を即座に見分けることができる「踏み絵」のようなものなのだ。

しかしながら、「お友達」「同じ思想」「イエスマン」は政治の世界に何をもたらしただろうか。権力者にとって都合の悪い文書は廃棄され、なかったことにされてしまう。動かぬ証拠を突きつけられれば「怪文書」と切り捨てられる。勇気を持って自分の意見を言えば、恥ずかしいプライベートを晒される。こんなことがまかり通って良いはずがない。

銀行員が「ファッションリーダー」になるとき

最近になってフィデューシャリー・デューティーだとか、顧客利益の優先という言葉が頻繁に使われるようになった。銀行の都合で顧客ニーズを無視して高い手数料の金融商品を売りつけることなどあってはならないと金融庁は息巻いている。

そんな状況で「お友達」「同じ思想」「イエスマン」という出世のための三要素に凝り固まった銀行員は本当に時代のニーズに応えることができるのだろうか。それが本当に「仕事」と呼べるのだろうか。

社会の役に立っている、誰かの役に立っている、自分が世の中で何らかの役割を果たしていると実感できる。それこそが本来の「仕事」であり、働く喜びではないのか。我々銀行員は、お友達、同じ思想、イエスマンであることを重視するあまり、最も大切なモノをどこかに置き去りにしてしまったのではないのか。そろそろ、白いワイシャツを捨てるときではないのか。

むしろ、銀行員の「新しいファッション」が時代をリードするくらいの変革が必要ではないのか。変化を恐れてはならない。個性を恐れてはならない。摩擦を恐れてはならない。そんな思いを胸に、次は少しだけお洒落なワイシャツを買ってみよう。(或る銀行員)