準備を徹底的に行うことで起業に成功した人や、起業直後はうまく行かなかったものの途中で軌道修正を図り、成功を手にした人など、成功者には様々な例がある。起業に成功した人の事例から、人生PDCAの効能を読み解いていこう。

(本記事は、江上治氏の著書『残酷な世界で勝ち残る5%の人の考え方』KADOKAWA、2018年2月1日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

残酷な世界で勝ち残る5%の人の考え方
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起業後の生活費まで準備した

残酷な世界で勝ち残る5%の人の考え方
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起業で成功した人たちは共通点を持っている。まず、「何年後に起業する」という計画を立てている。

さらに、起業の目的もしっかり定めている人が多い。加えて、それぞれが自分の課題や特性に応じて、準備を進めている。

つまり、人生計画やPDCAに基づいて、起業に備えている、ということである。この章では、私の周囲の起業経験者にご登場いただくことにする。

どうすれば起業がうまく行くのか、どういう準備が必要なのか、実例を基にその方法をくみ取ってもらいたい。

不動産の世界で、サラリーマンから独立して大成功を収めたのが、パーフェクトパートナー株式会社を立ち上げた末岡由紀さんだ。

末岡さんは高校を卒業してすぐに、自衛隊に入隊するものの辞めてしまう。その後、大学に入るが、卒業後も明確な夢を持てず、パチンコ店に就職して、ふらふらと無味乾燥な日々を送っていたという。

そんな末岡さんが転機を迎えたのは23歳のときだった。「このままじゃ、ダメだ。自分の人生を変えたい、母子家庭で育ててくれたお母さんに恩返しをしたい」と、北海道で最大手の不動産会社に就職した。

不動産業なら、努力次第でお金を稼げると思ったからだ。このサラリーマン時代は末岡さんにとって修行期間といっていい。修行は8年にも及んだが、がむしゃらに頑張った。

最初にあてがわれた仕事が賃貸仲介だった。末岡さんはそのころは既に結婚していたが、奥さんと2人で深夜まで入居者募集のチラシを電信柱に貼りまくった。

顔写真入りの手作りチラシで、「家賃のお支払いの相談にも乗りますよ」「入居してくれたら図書カードをプレゼント!」といった内容を書き込んだという。

一風変わったチラシだが、これが当たった。賃貸仲介は、不動産の仕事の中で最も扱うお金の額が小さい分野である。

いちばんのボリュームゾーンであるから、当然、収入の少ない人たちも対象に入ってくる。母子家庭として育った末岡さんはそうした人たちの気持ちがよく理解できた。

その自分の強みを生かして、収入が少ない人たちに向けて、心に響くチラシを丁寧に作り込んだという。

結果、すぐに大きな反響があったという。ちなみに、チラシに書いた図書カードのプレゼントは末岡さんの自腹だったようだ。

この賃貸仲介の仕事は約3年続いたが、最終的には営業でトップ成績を上げるまでになった。自分なりの工夫と、他の人の2倍、3倍と懸命に働いたことが結果につながった。

末岡さんはここから、賃貸仲介、賃貸管理、リフォーム、アパートの建売、アパート・マンションの建築営業、アセットマネジメント、プロパティマネジメントなど、多岐にわたる不動産業務を経験することになる。

独立を見越して、不動産に関するさまざまな知識を得たかったからだ。31歳で独立したころには、不動産に関する知識、ノウハウはひと通り身につけていた。

末岡さんの起業に向けた準備は、それだけではない。サラリーマン時代から銀行との人脈づくりに力をいれていた。

不動産投資を業務として扱うに当たって、最も大事なのは銀行との密接な関係づくりである。融資をしてくれる銀行がなければ、不動産物件をお客さまに販売することはできないからだ。

この点も、独立後を見据えて、土日はゴルフ、夜はお酒を交えての接待攻勢と、銀行の支店長クラスとの交流を重ねていた。

末岡さんが行っていた事前準備のうちで、私が最も驚いたものは、起業に備えて、生活費の準備までしていたことだった。

世の中には起業したらお金が自由になると勘違いしている人がいる。起業したらお金持ちになると、短絡的に考えてしまうのだろう。

しかし、それはまったくの勘違いである。むしろ、起業するとしばらくお金は不自由になるのが当たり前だ。

起業すると、まず仕入れのために、お金を出さなければいけない。さらに、サラリーマン時代のように、誰かが自分の銀行口座に給料を振り込んでくれるはずもない。

起業した途端、手元にお金はなくなってしまうのだ。末岡さんはそこまで理解した上で、事前に投資物件としてアパートを2棟購入。

不労所得が入るようにしたことで、生活費のことを心配せずに、事業に専念できる環境を整えた。

うまく行く人は起業に向けてこれだけの事前準備を用意周到にする。末岡さんの起業までの軌跡はそのことを教えてくれる好事例だ。

自分の強みを生かした営業スタイルを確立

私の講座の生徒でもある北川英之さんは、外資の生命保険会社から、2017年1月に独立した。起業前から準備を進めていたのは、末岡さん同様である。

北川さんはサラリーマン時代から、抜群の営業成績を残していた。社内4000人のうち、成績は常にトップ10で、年収は約3000万円。10年連続で社内のMVPを取ってきた。

北川さんの武器は独自の営業スタイルにある。ポイントは、相手に先に利益を与えるということだ。江上流の言葉を使うと、「相手に貸しをつくる」である。

例えば、相手がトラックの中古車販売会社の社長だったら、自分のお客さまのところを回って、その販売会社の商品であるトラックを自ら売り歩く。

そこまでしてもらったら、相手もお返しをしたくなる。自然と、北川さんが勧める高額の保険に入るようになるのだ。

北川さんは一見遠回りに見えるようなことをしながら、相手を巧妙に自分の思い描いた方向に誘導していく。

こうしたことができるのも、相手の気持ちを推し量る能力が高いからだ。相手が何をしてもらいたいか、事前に察知する力が秀でている。

私が主催するセミナーで講師をお願いすることもあるが、彼はあれこれ打ち合わせをせずとも、私が言ってもらいたいことを、分かりやすく参加者に話してくれる。

なぜ、このように相手のニーズをよく把握できるかというと、子ども時代の経験が大きいという。

父親の仕事の関係で、子ども時代に転校を繰り返した北川さんは、どこへ行ってもすぐに順応するバランス感覚、そして、相手が何を望んでいるのか察知する力を身につけたようだ。

これを自分の強み、価値と明確に自覚したことで、北川さんの営業力は格段に上がったという。これも起業に向けた準備の一環である。

人をうまく使う心得

株式会社フューチャーイノベーション創業者の新倉健太郎さんは2016年8月に独立。40歳での船出だった。

不動産売買、個人向け不動産投資コンサルティングを中心に、物件取得アドバイス、プロパティマネジメント、ビルメンテナンスなど不動産に関するサポートサービス全般を取り扱っている。

新倉さんのキャリアは、高校時代のアルバイトから始まる。ピザチェーン店でのアルバイトだった。学校が終わる夕方から毎日深夜まで仕事をした。

新倉さんが、どうしてこれほどモーレツに働いたかというと、後に述べるように中学時代に両親が離婚し、学費を自分で稼ぐ必要があったからである。

やがてアルバイト先での働きが評価されて、店長に抜擢される。が、店内でいちばんの年下だ。もちろん、高校生だからマネジメントの経験もない。

「自分の方が、役職が上なのだから、下の人が従うのは当たり前」という感覚で接していたら、バイトの半分ほどが辞めていった。

新倉さんの態度に納得できないところがあったのだろう。これは新倉さんにとって、得難い経験となった。

端的に言うと、人をうまく使う心得を身につける契機となったようだ。人をうまく使うとはどういうことか。

新倉さんは、「例えば、自分がサラリーマンとして、営業成績で先輩をもう少しで抜くという状況があったとする。そのときはどういう気持ちでのぞむべきか」という例を出して説明する。

最もダメなのは、「一番になること」に目的を置くことだと、新倉さんは言う。一番を目的にすると、相手を抜くことしか考えなくなる。これでは抜いた後に足をすくわれるというのだ。

成績を上げれば、当然、役職が上がっていく。すると、自分に抜かれた人たちを上司として使っていかなければならない立場に置かれる。

そのときに、「自分が一番」という意識で接していると、部下たちの反感を買ってしまう。彼らにもプライドがある。

「年下の上司が調子に乗っている」と見るだろう。結果として、部下たちから足を引っ張られ、パフォーマンスが落ちてしまい、自分の評価も低下してしまう、ということになりかねない。

新倉さんは高校生のころと同じ轍を踏まないように、常に相手の気持ちを推し量り、プライドを傷つけないように心がける。

それが人をうまく使う際の大前提だということを、アルバイト時代の経験で学んだからだ。

当然、その意識は現在の経営者(リーダー)としての振る舞い方にも生きていることだろう。

大学に入学後も、新倉さんは同じピザチェーン店で働き、エリアマネージャーに昇格した。大学生でありながら、年収は800万円から1000万円は得ていたという。

大学卒業後は大手デベロッパーに就職した。氷河期だったが、就職活動では苦労をしなかった。

アルバイトの実績が評価されたのか、7社受けて6社に受かった。落ちたのは電通だけだった。

もともと建築は好きだったが、建築士は目指さなかった。建築士といえども、結局は発注者側の意見を聞かなければいけない。自分が作りたいものを作れる人はごく一部だ。だったら自分が発注者側に回った方がいいと考えた。

日本を代表する大型商業地の開発にも携わった。そして36歳で転職。デベロッパーから不動産投資のベンチャー企業に移籍した。

デベロッパーと投資用不動産の世界にはさまざまな違いがあるが、最も大きいのは社員の能力・意識のレベルだと新倉さんは言う。

新倉さんはサラリーマン時代に、投資物件を個人として購入したことがあった。その際に、不動産販売会社と客として接したが、社員たちのあまりのレベルの低さに驚いた、という。

何しろ自分の質問にまともに答えられる営業マンはいなかったからだ。

やがて、ベンチャー企業で不動産投資の業務経験を積んだ新倉さんは、「自分が起業しても、この分野なら負けるはずがない」と確信するに至り、独立を志すようになる。

あらかじめ勝てる土俵を設定して、そこで勝負をするのが、うまく行く人の特徴である。

緻密な分析力がビジネスの方向性を決めた

ここまではいかに起業に備えるか、準備を進めるかという観点で、成功者の事例を紹介してきた。

中には、起業直後はうまく行かなかったものの、途中で軌道修正を図り、成功を手にした人もいる。

PDCAの「C」→「A」でうまく状況を改善させた人たちだ。その典型ともいえるのが、税理士の柳澤賢仁さんである。

柳澤さんは大学院を修了後、アーサー・アンダーセンに入所している。アンダーセンは当時、世界で5本の指に入る会計事務所だった。

大変な狭き門だったが、柳澤さんはここに長居するつもりはなかった。当初から会計事務所での勤務期間は2年と決めていた。

柳澤さんには、目標があった。自分の事務所を立ち上げるという目標である。ただ、税理士として独立開業するには、2年間会計事務所で勤務しなければならないという決まりがあった。

だから勤務期間は2年だったのだが、柳澤さんは自分の成長に貪欲な人間である。どうせ、2年間、会計事務所で働かなければならないのだったら、世界で最も大きな事務所に入って、普通の税理士ができない経験をしたい。

そして、税理士としての最高峰のスキルを身につけたい、との思いで、アンダーセンの門を叩いたのだという。

入社面接でも、人事部の社員に、「自分は2年で辞める」と宣言したというから、常識を超えている。自己肯定感が高く、目的意識が明確な柳澤さんだからこその発言だろう。

当初の予定通り、アンダーセンでの2年間、柳澤さんはハードワークに明け暮れたらしい。

当時、どれくらい働いたのか、と私が問うと、「1日18時間ぐらい働いたこともざらでした」と教えてくれた。

2年であらゆる税理士業務に精通するには、それくらいのハードワークが必要だったようだ。要は、限られた時間を1秒たりとも無駄にしたくなかったのだろう。

ところでなぜ柳澤さんが税理士の個人事務所を構えて、独立開業したかったかというと、そこには明確な理由があった。

「自由に生きたい」が柳澤さんの生きる目的だったのだ。だから、サラリーマンになるつもりはなかった。

税理士事務所は、柳澤さんにとって自由の象徴だった。これには、彼の生きてきた環境も大いに影響している。

柳澤さんは祖父、父、叔父、そして自分と3代続けて税理士という家系である。祖父や父は、自分で独立系の事務所を立ち上げていたし、特に祖父は業界の中で政治力もあった。

身近にロールモデルがいたことが大きかった。ところが、独立してみると、やや想定外のことが起こった。

思っていたほどに稼げないという現実に直面したのだ。しかし、ここからが柳澤さんらしい。

なぜ稼げないのか、徹底して調査分析を始めた。すると、2つの事実が見えてきた。1つは、税理士も時代によって、置かれた環境や状況は大きく異なる、ということだった。

例えば祖父の時代は、会計士や税理士の数が圧倒的に少なく、税理士の希少価値が高かった。

しかし、その数は年々増え続ける一方で、国内の事業所数は1991年をピークに減少し続ける。

完全に供給過多の斜陽産業になってしまった。柳澤さんが独立した時期は、まさしく税理士受難の時期だったのだ。

もう1つの事実も明らかになった。税理士業務をする上で東京は最も不利な地域であるという事実だ。

都道府県別の税理士の人口比率を調べると、東京は全国の中で最も税理士が偏在する地域だということが分かった。つまり、ライバルが多かったのである。

ちなみに、最も税理士の人口比率が低い、税理士過疎の地域は岩手県、次いで長崎県だった。

税理士に限らず、士業は地方の方が儲けられるというが、そこにははっきりとした理由があるのだ。

ベンチャー企業のサポートへ

この2つの事実から、もう一つの事実が浮かび上がってきた。それは、東京で通常の税理士業務をしているだけでは、食べていけないということだ。

資格に安住せず、自ら希少性を高める努力をしなければいけなかった。ここで柳澤さんは発想を転換する。

そして決断した。

「通常の税理士業務以外のことに注力する」スパッと見切りをつけたのだ。見切りをつけた代わり、自分は専門性の高い「国際税務」や、難易度の高い業務に特化することを決めた。

それが「ベンチャーファイナンス」「新規事業構築コンサルティング」「M&A仲介業務」という、普通の税理士が手を付けない分野への参入だった。

ひと言で言うと、社外CFO的なコンサルタントに転身したのだ。この決断は正しかった。

税務は基本的に法律に縛られる仕事だ。法律上の縛りが多く、決められた通りの事務しかできない。

稼げるスキームをつくっても、それを報酬として税理士が受け取ることも難しかった。柳澤さんにとって、まったくクリエイティブな仕事ではなかった。

そこに正直、物足りなさを感じていたという。

ところが、コンサルタントは、基本的に何かに縛られることがない。稼ぐスキームをつくることができれば、個人としても大いに儲けることができる。

そうした立場に立つことで、柳澤さんが本来的に持っている、クリエイティブな強みを普段の仕事の中でも存分に生かすことができるようになった。それが柳澤さんの人生浮上に大きくつながっていったことは間違いない。

柳澤さんが携わるベンチャーファイナンスの仕事の一端を、簡単にご紹介しよう。ベンチャー企業の中には、いくら有力で、成長の見込みが高くても、資金が足りない、というハンディキャップを抱えているケースがよくある。

資金調達で行き詰まってしまう企業が少なくないのだ。そうした苦境を救うのが、柳澤さんの役割である。

彼は、経営者と一緒にビジネスモデルを考え、自分の人脈を生かして、投資家に掛け合うのだ。

経営計画も含めたビジネスモデルの絵を描き、綿密な返済計画もつくりあげる。特に、投資家はビジネスモデルを重視する。

柳澤さんが特にこだわっているのは、継続課金の仕組みができているビジネスであるかどうかを投資判断にしている投資家も少なくないという点だ。

結局は安定収入が入ってくるビジネスがいちばん強いからだ。ソフトバンクグループを率いる孫正義氏も、基本的には継続課金のビジネスしか手を付けない。

携帯電話を無料で配布した時期があったが、孫氏にとっては、携帯電話の販売で儲けるよりも、電話の通話料が毎月入ってくることの方が重要だったのである。

そうした継続課金の仕組みを構築し、投資家に納得させることができるか。これが柳澤さんに与えられた使命だったが、多くの成果を上げてきた。

実際、創業支援を行ったベンチャー企業の中から複数の上場企業が生まれたし、上場予備軍として投資家からの資金調達を実現し、成長中のベンチャー企業も少なくない。

また、M&A仲介業務でも的確なアドバイスのもと数々の成約事例を生み出している。

特筆すべきは、柳澤さんが貢献してきた株式公開や資金調達、M&Aは、創業者が柳澤さんの母校の慶應出身者であるケースが多いことである。

卒業生同士の仲が良い慶應出身者の特性を十分に生かしているわけだが、柳澤さんがすごいのはその仕組みも自ら構築しているところである。

慶應出身の経営者同士のネットワークを構築しようと、柳澤さんは2005年に「ベン チャー三田会」の立ち上げにも尽力したのだ。

さらに、柳澤さんは行動力にも秀でている。アジア・パシフィック20か国の会計事務所を自腹で訪れ、事業提携を結んだ。

これを足掛かりに国際税務はもとより、日本企業の海外進出支援、国際相続の分野でも成功している。

あなたの人生をより輝かせるために

起業に挑戦し、試行錯誤がありながらも、最終的に成功した経営者の事例を紹介した。

それぞれ特性や置かれた状況は異なるが、いくつかの共通点がある。それは起業前の準備の周到さである。

起業に耐えられるだけの高度なスキルを身につけていた点が一つ。これはすべての人に当てはまるだろう。

サラリーマンの立場を利用して、起業後のビジネスモデルの調査分析を行った人もいた。

人脈やお金の準備を行っていた人もいた。

起業という大勝負をかける前に、トラウマの克服を行った人もいた。それぞれの課題に応じて、適切に準備を行うことができたのは、起業・独立という明確な目的・目標があったからこそだろう。

そして、目的・目標から逆算して、「今、何が足りないか」「何をするべきか」を明確に把握し、実行に移すことができたのだ。

これこそ人生PDCAの効能である。中には起業直後には思い描いた結果が得られなかったものの、うまく軌道修正を図れた人たちもいた。

これも大切なことである。100年時代を生きる中で、ずっと順調で成功しっぱなし、という状態は考えられない。

どこかで、つまずくときもあるだろう。そのときにどう立ち上がり、乗り越えることができるか。

柳澤さん、鈴木さんがそれを実現できたのは、自分の人生の目的、そして課題がよく見えていたからにほかならない。

目的、課題が見えていたからこそ、それをどう乗り越えるべきか、そのためにどう行動すべきかを把握できた。

これも、人生PDCAが機能した証左である。人にはその人なりの人生がある。

その人生をより輝かしいものにするためにも、漠然と生きていてはいけない。それなりの戦略と手段を持って、今、この瞬間を生きていかなければいけない。

成功者の実践から、そのことがよくくみ取れるはずだ。

江上 治(えがみ・おさむ)
1967年、熊本県生まれ。有名スポーツ選手から経営者まで年収1億円を超えるクライアントを抱える富裕層専門のファイナンシャル・プランナー。起業後は、保険営業を中心としたFP事務所を設立。これまで新規に獲得した保険料売上は600億円超に達する。