(本記事は、島崎晋氏の著書『「お金」で読み解く日本史』SBクリエイティブ、2018年5月15日刊の中から一部を抜粋・編集しています)
【『「お金」で読み解く日本史』シリーズ】
(1)秀吉が作らせた「天正大判」の現在の驚くべき価値
(2)江戸幕府を崩壊させたのは「両替屋」だった
(3)三井、住友、三菱、安田--明治の巨大組織「四大財閥」はどのように生まれたか
(4)「格差社会の到来」を決定づけた金融ビッグバン・IT革命を振り返る
一億円超の評価がついた秀吉の大判
長らく渡唐銭に頼ってきた日本だったが、弱肉強食の戦国時代に入ると、全国各地で金山・銀山の採掘に力を入れ、ようやく人びとの信用に適う国産通貨が製造され、流通するようになった。
鋳造技術の面で欠かすことのできないのが後藤徳乗という彫金工である。
後藤家は代々装剣金具の製作を家業としており、足利将軍家に仕えてきた。室町幕府の終焉後、徳乗は織田信長、ついで豊臣秀吉に仕え、家業に携わるかたわら、貨幣の鋳造にも関与し、金貨の大判や金銀を計量する分銅なども製作していた。
豊臣秀吉は万事に派手好みで、通常の大判では飽き足りず、実用に適さない貨幣を天正16年(1588)に徳乗に造らせている。この天正大判は量目が44・1匁(約165グラム)、金の含有率が73.84パーセントという特大で輝きも鮮やかなものである。
天正大判は現在の相場では、どれくらいの価値があるのか。
通常の縦15.4センチの天正大判金が、大まかに1500万から2500万円、縦17センチ以上ある天正長大判金が2500万から5000万円、もっとも価値のある天正菱大判金は7000万から1億円以上とされていた。
ところが、2015年にスイスのチューリヒで行われたオークションでは、天正菱大判金1枚が、日本の古銭として最高の1億2500万円で落札されたのだ。
”金”が大好きだった秀吉
秀吉は「黄金の茶室」も作らせている。
壁や天井、柱、障子の腰ばかりか、畳表や障子紙にまで金を用いるなど、千利休の「わび」「さび」の対極をいくもので、人によっては悪趣味にしか見えない代物だった。
「黄金の茶室」は、持ち運びに便利な組み立て式になっており、天正14年(1586)の正月には御所に運ばれ、正親町天皇に披露されたほか、同15年10月に催された北野の大茶会で、広く一般にも公開された。
北野の大茶会は北野大茶湯とも称され、現在の京都市上京区にある北野天満宮で開催された。興味がある者なら誰でも参加してよいとの触れが出されたことから、当日は800余名もの人が集まり、千利休をはじめ、津田宗及、今井宗久など当代一流の茶人から親しく茶でもてなされた。
単なる派手好きでなく、剛腹でもあった秀吉ならではのエピソードといえよう。
秀吉の派手好みは、聚楽第という短命に終わった公邸にもよく表れていた。
『聚楽第図屛風』をはじめ、往時の盛観を描いた作品などから、東の大手門から北西の天守まで、櫓や塀まで金箔瓦で飾られていたことがわかっており、天気の良い日には眩いばかりの輝きを放っていたに違いない。
それだけ立派な建築物であれば、跡形もなく消し去るのは惜しいというので、部分的に他に移築されたものも多い。
殿舎の多くが伏見城に移築され、大徳寺の唐門、西本願寺の飛雲閣と浴室などがそれと伝えられる。
島崎晋(しまざき・すすむ)
立教大学文学部史学科卒業(東洋史学専攻)。著書に『目からウロコの世界史』『目からウロコの東洋史』『世界の「美女と悪女」がよくわかる本』(以上、PHP研究所)、『さかのぼるとよくわかる世界の宗教紛争』(廣済堂出版)、『人の流れでわかる世界の歴史』(実業之日本社)、『日本人が知らない世界の宗教タブーと習慣』『世界史暴君大事典』(以上、徳間書店)、『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『一気に同時読み!世界史までわかる日本史』(SB新書)など多数。