カンブリア宮殿,相澤病院
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金メダリストを支えた、知られざる感動物語

今年3月、長野県・茅野市役所の前に大勢の人が集まっていた。待っていたのは、平昌オリンピックで日本女子スピードスケート界初となる金メダルを獲得した小平奈緒選手だ。生まれ故郷の茅野市に戻っての凱旋パレード。1万5000人が集まり、郷土の英雄を祝福した。

小平選手にはもう一つ、感謝の気持ちを伝えたい場所があった。所属する長野県松本市の相澤病院。ずっと小平選手を支え続け、マスコミにもたびたび登場した病院だ。

2009年、地元の大学を卒業したものの所属先がなかった彼女を職員に採用。しかも練習に専念してもらおうと仕事は免除し、月々の給料に加え、海外への渡航費用、2年間のオランダ修業の経費など、合計1億2000万円以上を支援してきた。その英断を下したのが理事長の相澤孝夫(70)だ。

「成績ではなくて、夢を追いかける姿勢を応援して下さるのが理事長先生なので、それが私にとっては一番うれしかったことです」(小平選手)

「1人の若い人が、長野県でやりたいことがあって『ここしかない』と言っているのに、なぜ実現してあげられないのか。僕にとっては当たり前のことだと思う」(相澤)

カンブリア宮殿,相澤病院
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こんな病院が近くにほしい~断らない診療の舞台裏

一躍その名を知られた相澤病院だが、実は地元では「すばらしい病院」「頼りになる病院」と市民から信頼を集めている。その理由は同病院の救命救急センターにあった。

センターに詰めるのは救急医2人、看護師7人、研修医2人。この人数で1日100人の患者に対応している。

午後9時、救急のホットラインが鳴った。10分後には救急車が到着。運び込まれたのは60代の男性。酒に酔い、飲食店の階段で転倒したと言う。酔ってはいるが意識ははっきりしている。

しかし救急医の水野雄太には気になる点があった。左手の脈がほとんど触れていない。体の中で何かが起きているのだ。救急医が指示したのはレントゲン撮影。その映像で原因が判明した。肩の関節が脱臼し、外れた骨が血管を圧迫していた。骨も砕けている。

一刻を争う状況だが、救急医は原因を特定すると、治療はせず、患者の元を離れる。これがこのセンターの一番の特徴だ。水野が見始めたのは全ての診療科の担当医の連絡先が書かれた一覧表。相澤病院では整形外科から眼科まで、20人もの専門医が急患に備え、待機しているのだ。

この時連絡した先は整形外科医。5分後に小林伸輔医師がやってきた。血流が止まっていて、すぐに処置しないと最悪の場合、手が壊死してしまう。まずは外れた関節を入れ、血流を戻さなければならない。小林の処置により脈は正常に戻り、患者は危機を脱した。

救急医は診断に徹し、治療は専門医が受け持つ。このチーム医療こそ相澤病院の最大の武器なのだ。

この救命救急センターには昼夜を問わず急患が運び込まれ、患者が重なってしまうこともよくある。その時に大切になるのが、どの患者の治療を優先するかの見極めだ。救急医は重症度を判断し、結果はトリアージボードに記される。重症度は赤から緑まで3段階。スタッフはこの情報を共有しながら対応していく。

午後5時、また急患が。患者は40代の女性。話すことはできる状態だが、自宅で2回、血を吐いたと言う。この患者はもっとも早い治療が必要な赤に分類された。今も体の中のどこかで出血している可能性がある。放っておけば失血死の恐れもあり予断を許さない。

今回対応したのは消化器内科の専門医、西条勇哉。まずは内視鏡を使って出血個所を探す。すると胃の中に大きな潰瘍が見つかり、今も出血していた。西条は内視鏡の先端からクリップを出し止血。この女性は1週間入院し、無事退院していった。

いつやって来るか分からない急患に対応するため、相澤病院では検査技師も24時間スタンバイ。検査待ちが出ないようCTやMRIもそれぞれ3台ずつある。地方の民間病院としては異例の規模だ。

理事長の相澤には、この救命救急センターを立ち上げる際、まず決めたことがある。一言でいうと「軽症から重症まで、どんな患者でも24時間365日受け入れる」。

一般的に救命救急センターは重症度の高い3次救急の患者に対応する施設だが、相澤病院ではポリシーに基づき、1次や2次の軽症患者も24時間受け入れている。

だから自分で歩いてやってくる患者も多い。しかし一見軽そうに見えても、危険な状態の患者がまぎれている場合もある。そこで軽症患者もまず治療の優先順位を見極める。トリアージルームで問診して判断するのは専門の看護師。こうしたやり方で危険な患者を優先的に治療しながら、多くの患者に対応する。

この仕組みを導入する病院は全国的に増えているが、相澤病院はその先駆けとなった。

カンブリア宮殿,相澤病院
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入院期間が短縮できる~回復リハビリ最前線

救急の新たな形を生み出す相澤病院には「ここで働きたい」という人が殺到。毎年100人以上のスタッフが仲間入りしている。人材確保に苦労する地方病院が多い中で、注目を集めている。

患者ファーストで物事を考える相澤は、リハビリでも他の病院と違うやり方を実践している。

リハビリをサポートする理学療法士の久保村竜輔が向かったのは「脳卒中ケアユニット」。地方の民間病院では少ない脳疾患の患者のための集中治療室だ。脳出血で昨日搬送されてきた患者のリハビリだ。

脳疾患の場合、リハビリは手術後1週間ほどで始めることも多いが、ここでは「おおむね24時間を経ていれば早い時期からリハビリをすると、障害が残る度合いも予後も変わるので」(久保村)。

脳疾患の患者は、リハビリを早く始めた方が回復のレベルが上がり、後遺症も残りにくい。しかも回復にかかる時間も短くて済む。実際、相澤病院の脳卒中患者の入院期間は他の病院の3分の1程度だという。

赤字17億円から大逆転~信頼を取り戻した救急病院

カンブリア宮殿,相澤病院
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日本の病院を束ねる「日本病院会」の会長を務める相澤は、普段は全国を飛び回っており、松本に戻ってくるのは週末だけ。70歳になった今もほとんど休みなしで働いている。

相澤の部屋の一角には、還暦を期に肝に銘じた人生訓が貼られている。

「失敗を恐れず失敗に懲りず、理想を求めて常に前向きでいること」

相澤はまさにこの言葉通りの道を歩んできた。

相澤病院は、相澤の祖父が1908年に開いた小さな診療所から始まった。大きくしたのは父親。敷地や診療部門を一気に拡大し、松本で民間を代表する総合病院となった。

しかし1981年に、父親が65歳で急逝。信州大学の勤務医だった相澤は実家に呼び戻され副院長に就任する。そこで目の当たりにしたのは、今の相澤病院とはまったく違う残念な光景だったと言う。

「一番感じたのは、スタッフがバラバラに仕事をしていて、患者さんのためではなく、自分たちの思う通りの仕事をしたいから、それに合わせてすべてが組まれていることでした」(相澤)

例えば、ある急患が運び込まれ、医師は患者の体の中の状態を探るためCTの検査室へ急行する。だが、そこにはすでに予約していた患者と担当の医師がいて、予約のほうが優先されていた。こうした体質により、地域住民の信頼を失っていたのだ。

さらに事態は悪化する。過重労働から看護師が大量に辞め、やむなく病棟を閉鎖し、創業以来、初めて赤字に転落。その後、6年の間に赤字は累計17億円にまで膨らんだ。

1994年、相澤は理事長に就任すると、地域からの信頼を取り戻すべく、病院経営者として大きく舵を切る。出した答えが「救急医療への特化」だった。

「救急というのは病院全体で関らないと絶対にやれない。例えば医師が『何とかしよう』と思っても、放射線の技師が『夜間はやりたくない』と言ったら絶対できないんです」(相澤)

狙いは救急という柱を作って病院を一枚岩にすること。スタッフ全員で患者に向き合う意識改革を図り、地域の信頼を取り戻そうと考えたのだ。そして2001年には24時間365日、患者を受け入れる体制をスタートさせた。

しかし救急病院は、常に医師や看護師が待機していなければならず、患者も定期的にはやってこない。一般的に経営は厳しいと言われている分野だ。

そこで相澤は、常に新しい患者を獲得するための仕組み、地域の開業医とのネットワークを考え出す。地域の開業医は急患の搬送先を自分で探していたが、相澤は24時間どんな患者も受け入れる条件でネットワークを構築。この網を広げ、患者を絶えず送り込んでもらえるようにしたのだ。

この仕組みは開業医にとってもメリットが大きい。山間部の麻績村で開業する鳥羽医院の鳥羽憲二院長。かつては深夜などに患者が急変すると対処に困ったと言う。

「重症な患者さんとか、ここでは対応できないことが多くあるので、それを全てやって頂ける」(鳥羽院長)

さらにドクターネットという画期的なシステムも作った。相澤病院での検査データやカルテなどを、開業医も見ることができるようにしたのだ。こうすれば、相澤病院を退院した患者が開業医の元に戻った時、スムーズに診療を再開できる。

「こっちの診療もうまく進む。ありがたいと思います」(鳥羽院長)

開業医とのネットワークはうまく広がり、今や相澤病院にやってくる患者の8割は開業医からの紹介だ。こうした取り組みで地域の信頼を回復。赤字も解消した。

カンブリア宮殿,相澤病院
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治療だけが医療じゃない~生活に寄り添う感動病院

カンブリア宮殿,相澤病院
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そんな相澤病院も、最近の業績は伸び悩み状態にある。その原因ははっきりしている。

「時代が変わって需要が変わっている。これまでのやり方では、少子高齢化の社会はもたないと思います」(相澤)

そんな高齢化社会を睨み、相澤が2年前に作ったのが相澤東病院だ。狙いは救急病院と自宅の橋渡し。日本初の「家に帰るのを手伝う」病院だ。

地元で一人暮らしをしている小野あい子さん(77)。腰の骨がずれて、立ったり歩いたりするのが辛くなり、ひと月前から入院している。

小野さんがリハビリのために向かったのはキッチン。何を始めるのかと思ったら、小松菜や豆腐を取り出した。実は料理のリハビリ。一人暮らしの小野さんは退院したら自分でやらなければならない。家に帰った時、不自由なく暮らせるように料理や掃除などを練習しておく。これが「在宅復帰支援病院」だ。

「普通は良くなったら家に帰されるじゃないですか。本人は何をどうやっていいのか分からない。ここまでやってくれるとは思っていなかったです」(小野さん)

ここまでケアし退院していく患者。それでもまだ終わりではない。

大見喜子は訪問リハビリのスタッフ。相澤にはこうした在宅医療の支援スタッフが170人もいる。これは日本でも屈指の規模だ。

この日、大見は関﨑寛さん(85)、一江さん(83)のお宅へ。子供達は家を出て、夫婦二人で暮らしている。奥さんの一江さんはひと月前に相澤病院で膝を手術した。それから週に一度、大見がサポートに通っている。

そのやり方は、相手の暮らしに寄り添うリハビリ。例えば一江さんの場合は畑仕事が大好き。だからそれでリハビリをする。ライフスタイルは人それぞれ。スタッフは現場で、その人に最も適したリハビリ法を見つける。

「何を楽しみにされているか、好きなことは何か、家に来て話をすると分かるかなと思います」(大見)

グループ施設の一つ、サービス付き高齢者向け住宅「結」にも、他とは違う特徴がある。

相澤が「結」を建てる際に決めたのは、経済的な余裕がない高齢者も住めるようにすること。だから家賃にはこだわった。入居時の初期費用はなく、家賃は月額7万円台から。これなら年金生活者でも入居できる。東京と比べれば半額ほどだ。

時代の需要を掴み、病院を進化させてきた相澤。経営者として手腕を発揮している相澤だが、最優先しているのは決して利益の追求ではない。

「我々は何のために医療を行っているのかを考えないといけないと思うんです。医療を受ける人は何を考え、何を悩み、何に苦しんでいるのか。僕らはいつもその気持ちにアプローチして何をするかを決めていく。それを絶対忘れてはいけないと思っています」(相澤)

変化していく時代の中で、相澤は地域の人たちに寄り添い続ける。

カンブリア宮殿,相澤病院
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~村上龍の編集後記~

「地域に必要とされる存在に」という目的意識の重要性は、一般企業も医療機関も同じだ。

だが相澤先生には、その前提として、まず長野・松本という地域への無償の愛情がある。

小平奈緒選手への支援も、地域への愛情がベースになっている。利益だけを考えていたら、地域はそれを見抜く。

経営改革を見事に成功させた先生だが、収録が終わる直前、「実は臨床の現場が懐かしい」とおっしゃったときの笑顔が忘れられない。

あの笑顔は経営者のものとは違う気がした。どんなときも患者に尽くすという臨床医の笑顔だった。

<出演者略歴>
相澤孝夫(あいざわ・たかお)1947年、長野県生まれ。1973年、東京慈恵会医科大学卒業後、信州大学医学部第二内科に入局。1981年、相澤病院副院長就任。1994年、理事長・院長就任。

放送はテレビ東京ビジネスオンデマンドで視聴できます。

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