不可能と言われた黒字化に3年で成功。その原動力になったものとは?
伊藤麻美氏が代表取締役を務める日本電鍍工業は、伊藤氏の父親が創業した会社だ。その父親は伊藤氏が23歳のときに他界。伊藤氏は、会社を継ぐことなく、音楽や宝飾の道を歩んだが、経営が傾いたため、米国から呼び戻されて、会社の舵取りを担うこととなった。そして、3年で黒字化に成功。その原動力になったものとは?
想いが強ければ、行動がついてきて、結果が出せる。身をもって、そう教えてくれたのは、母でした。
私は20歳のときに、国立がんセンターで母を看取りました。
一卵性母娘と呼ばれるほど仲が良かったのですが、母からきつく言われていたので、泣いて取り乱すことはありませんでした。
当時は、がんは不治の病だと思われていましたから、国立がんセンターにいる患者さんたちは、ただでさえ死が近づいているのをひしひしと感じていたはずです。その方たちに、泣きわめいている声を聞かせて、死を意識させてはいけない。母は、最期まで他の人への配慮を怠らない人でした。
母ががんになったのは、私が13歳のときでした。あとから聞いたところでは、医者から残り1年~1年半だと余命宣告を受けていたそうです。
それでも母は、私が20歳になるまでは絶対に生きると決めて、実際に、それから7年も生きたのです。
私が会社を継いだとき、周囲からは、再建は99%難しいだろうと言われました。それでも諦めなかったのは、母の姿を見たことで、強い想いを持てば奇跡のようなことも起こるのだと思えたからです。
母は元女優で、自分のプロダクションを経営していたこともあります。
がんが進行してくると仕事ができなくなりましたが、グチを言うこともなく、いつも明るく前向きで、笑顔を絶やしませんでした。
国立がんセンターには地方から通っている患者さんもいて、宿泊費が負担になっていました。母は、そんな方を自宅に泊めたりもしていました。
一方で、躾はとても厳しかった。お客様が帰られるときは、見えなくなるまで、お見送りをする。茶碗は糸尻(底の裏の輪状に突き出した部分)まで洗う。そうしたことを、しっかりと教え込まれました。
よく言われたのは、「空手で立ってはいけない」ということ。立ち上がるときには、次に何をするべきかを考えていなければならない、ということです。
経営者になるためのトレーニングを何も受けてこなかった私にとって、こうした母からの教えや生き方が、経営に役立っています。会社でやっていることや、社員に言っていることは、ほとんどが家庭教育で学んだことです。
誰に対しても感謝の気持ちは持つべきものですが、やはり、一番感謝しているのは親です。23歳のときに父も亡くしましたが、親の顔に泥を塗るようなことはしないという意識は、常に持っています。
そして、多くの人たちに喜んでもらうことが、最大の親孝行だと思っています。喜んでもらうためには、会社を次世代へと引き継いで、地域の雇用を守ることも大切。引き継いでくれる人材を育てるためにも、地域の方々に魅力的な会社だと思っていただくためにも、社員教育を重視して、経営をしています。
伊藤麻美(いとう・まみ)
日本電鍍工業代表取締役
1967年、東京都生まれ。90年に上智大学外国語学部を卒業後、FMラジオのパーソナリティーに。98年、米国カリフォルニアに留学し、世界的に有名な宝石の学校GIA(Gemological Institute of America)で宝石の鑑定士・鑑別士の資格を取得。2000年より現職。(『THE21オンライン』2019年3月号より)
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