(本記事は、佐藤優氏の著書『調べる技術 書く技術』=SBクリエイティブ、2019年4月15日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

非合理性こそ人間の領分

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AIと競争しない、真に人間的な価値を発揮できる人材になるには、どんな仕事にも付加価値をつけていくことを考える必要がある。 人間は100%合理的な生き物ではない。もし100%合理的な生き物であれば、すでにAIの働きにも十分満足しているはずだが、現実問題としてそうはなっていないだろう。

たとえばAIがマッチングをしてくれる婚活サービスがあったとしよう。年齢や年収といった条件を入力すれば、たしかに条件に見合った相手を探してくれる。しかし何より肝心ともいえる人間的な相性までは、AIには判別できない。

だからAIが自動的にマッチングしてくれる婚活サービスなどより、生身の人間が人を見て相性を考え、これと見込んだ相手同士をマッチングする婚活サービスのほうが成功率は高くなって当然というわけだ。

このように、人間の非合理的な一面は、人間にしか対処できない。 もう一つ挙げるとしたら、「スマホケース」なども付加価値の典型例だ。

スマホは可能な限り軽量化、薄型化してきた。しかしその結果、本体が折れやすい、液晶が割れやすいといった難点が生じてしまった。かといって、スマホ自体が進化を逆行して重量化、厚型化するというのは考えづらい。

そこで、以前にも増してスマホカバーの需要が高まった。この流れを読んで、いち早くスマホカバーのデザインを多様化あるいは洗練させたり、カード入れや鏡などのプラスアルファをつけたりすることを考えた人たちは、かなり大きな知的生産をしたことになる。

これら2つの例からわかることは、知的生産とはハイテクや特殊技能とイコールではないということだ。 先ほどもいったように、知的生産の根幹をなすのはアイデアであり、それは世の中の流行を見抜く眼力や柔軟な発想力、あるいはもっと根源的な人間力があれば発揮できるものなのである。

人間の仕事を、知的生産と知的生産でないものに分けることはできない。違いがあるとすれば、序章でも触れたように知的生産の「濃度」の違いだ。 たとえば、上司や顧客から言われたことを正確に理解し、ミスなく実行する、そこにちょっとした気遣い、プラスアルファを加えるというのも、知的生産の濃度を高めるということだ。 そういうことができる人は間違いなく評価され、評価は確実に金銭的な豊かさにもつながっていく。

一事が万事で、何かしら人間的な文脈を読んで付加価値をつけるということは、A Iには到底できない芸当だ。付加価値をつける能力を上げれば上げるほど、知的生産の濃度は高まっていく。そこにこそ、AI時代に、人間が本当に人間らしい能力を発揮し、より豊かに幸せに生きる糸口があるといっていいだろう。

「勤勉さ」は、知的活動の必須要件

知的生産とは、人間固有の知的な活動であり、ゼロから1を生み出したり、1を100にしたりすることである。 また、それは「付加価値」をつけることともいえ、付加価値をつける能力を上げること=知的生産の濃度を高め、より豊かに幸せに生きる糸口になる。 では、知的生産能力は、どうやったら上げることができるのか。

第一段階として重要なのはインプットだ。中学〜高校の教科書レベルの基礎学力をつけることと、自分の仕事に関する知識をアップデートすることである。 しかし単なる物知りで終わらないためには、インプットで得た知識・教養をアウトプットにつなげなくてはならない。このアウトプットが、要するに知的生産にあたる。

人間の生産活動には、すべからくアイデアが介在する。ただし、自分のアイデアが付加価値となるかどうかはアイデアを実行してみないとわからない。したがって、まず必要なのはアイデアの実行力、つまり「やってみる」ことだ。 実行したら、それが付加価値となりうるかを判断する力、そこで付加価値になりうると判断したら続ける力も必要だ。 また、うまくいかなかった場合には、また考え直してやってみるという粘り強さも求められる。

ただし、もとから「いい筋」ではないアイデアに固執しつづければ、時間の無駄となりかねない。一方、少し改善すれば光明が開ける「いい筋」のアイデアなのに、ちょっとやってみてうまくいかないからといって、すぐに諦めてしまうのはもったいない。 したがって、1つのアイデアを改善してやり直してみるべきか、あるいはゼロから考え直して新たに挑戦するべきか、その見極め力もあったほうがいいだろう。

人間は100%合理的な生き物ではない。その非合理性が、「何が価値となるかは、やってみなくてはわからない」という現実を作っている。当然、最初からうまくいく場合もあれば、いかない場合もある。 だからこそ、やってみては改善し、改善してはまたやってみる、ということが求められるというわけだ。

自分が「これはいける」と思ったものでも、社会に受け入れられなくては、知的生産をしたことにならない。作家として活動している私も、何をもってよいアウトプットか、いい知的生産であるかは、つねにマーケットに判断されると考えている。

社会をつねに意識しながら、自分がどんな付加価値を提供できるかを考えつづける。いわば社会との「接地面」を探り、インプットも磨きながら、トライアンドエラーを続けられる勤勉さが、知的生産に必要な素質といえる。

45歳までは「知的生産」、45歳以降は「知的再編」

知的生産とは、言い換えれば付加価値をつけるということだが、そうはいっても今の生活を激変させるようなことではない。

今の仕事の連続性で考えるならば、毎年2%でも付加価値をつけられれば立派なものだ。国すら2%の成長率を達成できないのだから、個人で毎年2%の付加価値をつけるとなれば相当なものだろう。

インプットを磨き、毎年2%ずつの付加価値を目指す。そして45歳になったら人生の折り返し地点だ。ここからは今までに積み上げてきた財産を生かすことへとシフトしていくといい。

45歳までが「カードを増やす『知的生産』の段階」だとしたら、45歳以降は「今までに増やしたカードを組み替えて生かす『知的再編』の段階」といえる。

年齢を重ねると、次第に気力、体力ともに落ちてくるものだ。当然、どれほど気をつけていようと頭脳も衰えてくる。今はバリバリがんばれていても徐々に息切れしてきて、かつてのようには素早くインプットができなくなってくるのだ。

そうなったときに慌てずに済むよう、45歳まではめいっぱいインプットに勤しみ、45歳になってからは、それまで積み上げてきたインプットを生かしてアウトプットをしていくことだ。

それまで積み上げてきたものを活かすということには、人間関係も含まれる。

歳を重ねるごとに健康不安も増す。そんななかでは、よきパートナーや仲間の存在のありがたみが身にしみるものだ。また、社会人として経験もスキルも積み切る時期でもある45歳以降に、起業を考える人もいるだろう。そんなときにも、金銭面や人材面で、それまでに構築してきた人脈がものをいう。

今はまだわからないかもしれないが、良好な人間関係を構築するコミュニケーション能力というのも、知的生産力の重要な一要素なのである。

いつまでも知的生産力を落とさず、豊かに幸せに生きていくためには、こうした年齢に応じた戦略も考えておいたほうがいい。

人間が労働から解放されることはない

世間でAIと呼ばれているのは、あくまでも「AI技術」だ。いわば技術力の発展によって活躍の場を広げつつある、人間の最新の補助ツールの1つに過ぎない。 AI技術が発展するにつれて、人間は労働から解放されるといった議論も見られるが、今までに説明してきた理由(公理的限界)から、そんな時代は訪れない。 労働とは、人間が自然界に働きかけて、何かしらの成果物を得ることである。その原理原則がある限り、労働のすべてをAIが担うようになることはない。

ただし前にも指摘したように、AIを競争相手としてしまうと、価値を生み出す現場に居場所がなくなってしまう。補助ツールに過ぎないといえども、人間社会におけるAIのプレゼンスが大きくなっていることは、決して見逃せない。 かくなるうえは、これからの時代の「知的生産=人間固有の知的な活動」のあり方を、私たちは改めて考えなくてはならない。

AIが担う「分析力」、人間が担う「総合力」

そこで触れておきたいのが、「分析力」と「総合力」という考え方だ。これは哲学の概念なのだが、AIと人間の違いや、人間がAIに淘汰されずに生き残る方法を考える上でも非常に参考になる。

この2つの違いを端的に言い表すと、次のようになる。

「黒い犬は黒い」というのは分析力による判断だが、「黒い犬は優しい」というのは総合力による判断だ。

両者の違いがわかるだろうか。分析力には「黒い犬=黒い」というように、述語に主語の要素が含まれている。一方、総合力には「黒い犬=優しい」というように、述語に主語の要素以外の価値判断が含まれている。

これは、そのままAIと人間の能力の違いといえる。

たとえば、CTスキャンの画像から病気の有無や進行具合を診断するのは分析力であり、AIでもできる。「この画像は2センチ大のガンがあることを示している」というのは、判断能力としては「黒い犬=黒い」と変わらないのだ。

しかし、患者の問診を通じて、生活習慣や体質、患者自身や患者の家族の病歴、さらには患者の性格的なところも含めて治療方針を決めるのは総合力であり、これは人間の医師にしかできない。

したがって、今後、医療現場にもAI技術が普及したら、そのなかで生き残れるのは、後者のような総合的な判断ができる医師ということになる。

医師のように高等かつ専門的な知識や技術をもつ職業であっても、分析力の領域に安住していては、ゆくゆくAIに取って代わられる危険があるというわけだ。

AI技術が発展も普及もしていない時代は、分析力も総合力も関係なく、たいていの仕事は人間が担っていた。

しかし今後は、分析力の部分はどんどんAIが担うようになっていき、人間は、人間的な価値判断や感覚、発想力、創造力、想像力を動員し、付加価値をつける総合力がなくては、豊かに幸せに生きていけない。そういう時代が到来しつつあるのだ。

では総合力は、いかにして鍛えることができるか。

それはすでに説明したとおり、中学~高校の教科書レベルの基礎学力と自分の仕事に関する知識のアップデート、それらをもとに付加価値をつけるための思考力、そして人間関係構築力の三拍子である。言い換えれば、インプット力、アウトプット力、コミュニケーション能力だ。

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佐藤優(さとう まさる)
1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。1985年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、2009年6月執行猶予付有罪確定。2013年6月、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。

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