(本記事は、山田英夫氏、手嶋友希氏の著書『本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか』KADOKAWAの中から一部を抜粋・編集しています)

化粧品
(画像=PIXTA)

カネボウ 【歴史に残る栄枯盛衰】

(1)天然繊維から合成繊維へ

日清紡が設立される20年前の1887年、カネボウの前身、東京綿商社が創立された。翌1888年に、隅田川のほとりの鐘ヶ淵に工場を構え、綿花業から紡績専業の会社に転ずるとともに、東京綿商社を有限責任鐘淵紡績会社(1893年に鐘淵紡績株式会社に、1971年に鐘紡株式会社に、2001年にカネボウ株式会社に商号変更。以下、カネボウ)に商号変更した。

1889年に綿糸の販売を開始し、東証への上場を果たした。1890年に、綿糸を上海、香港に輸出した。1894年には、「鐘」を商標登録し、「鐘」のマークを製品につけるブランド展開を始めた。

1910年代以降、日本各地の紡績会社を合併することで、工場を順調に増やし、絹紡糸、瓦斯糸、織布、紡績などの生産や、綿布加工、製糸業へ進出した。1924年には、「更生絹糸」の製造法を確立した。

1933年にはアンゴラ事業に進出し、1936年には、当時半官半民であった日本製鉄を除いて、日本一の売上高の企業となった。1938年には、合成繊維並びに合成ゴムの研究を開始し、造機、鉱山などへも事業拡大した。1939年には化粧品の生産を開始した。同年、日本初の合成繊維である「カネビヤン」の製造法を確立した。

1940年代前半は、太平洋戦争下で、繊維等の国内生産は減少し、全国に広がるカネボウの生産拠点の多くは、兵器生産拠点に転換された。カネボウは、繊維以外の事業(化粧品、資源開発、木材工業、製鉄、化学、金属、機械、航空機工業等)を広範囲に拡大しており、鐘紡コンツェルンと言われるまでになっていたが、戦争による被害は甚大であった。

終戦後の1949年、カネボウは繊維一本に戻り、鐘淵化学工業株式会社(現在の株式会社カネカ)を設立し、繊維以外の全事業を同社に譲渡した。

1958年から1959年は、神武景気の反動によるデフレ不況となり、カネボウの業績は悪化したが、工場の閉鎖や賃金カットで、危機を乗り切った。

1961年に「グレーター・カネボウ計画」を発表し、「繊維製品から化粧品まで、世界でただひとつ総合の美をつくるカネボウ」として再始動した。1963年にナイロンの生産を開始し、天然繊維から合成繊維へ進出した。合成繊維に関しては、1970年にアクリルに参入したが、2003年に撤退を発表、ナイロンも縮小した。

繊維事業に関しては、オイルショック後も繊維不況となり、業界に先駆けて繊維事業を分社化した。

1970年代に入り、絹、毛、綿、ナイロン、ポリエステルの各種繊維を手がけ、アクリルにも進出したカネボウは、ファッション部門を新設した。また、積極的に海外の生産拠点を増やした。3大天然繊維(綿・羊毛・絹)と3大合成繊維(アクリル・ナイロン・ポリエステル)をすべて持っていたのは、日本ではカネボウだけであった。1974年には、接着剤・樹脂製品の製造販売を開始した。

1980年に入り、合成繊維が業績の足を引っ張っていたため、1981年に収益源であった子会社のカネボウ化粧品株式会社を、本体に吸収合併した。

(2)化粧品への多角化

カネボウの化粧品の始まりは、1987年に、化粧水、髪油、ヘアトニックの製造を開始したことにある。

そして1961年に、鐘淵化学工業の化粧品事業を譲り受け、カネボウ化粧品を設立し、化粧品に本格参入した。

しかし1967年には化粧品の過剰在庫を多く抱え、大赤字が発生してしまった。その直後1968年に伊藤淳二氏が社長に就任し、67年に設立したカネボウ化粧品販売による販売体制の強化により、この危機を乗り越えた。

カネボウは化粧品では資生堂の後を追う後発であったが、資生堂が手薄であった薬局ルートを中心として、販路を開拓していった。その結果、業界第2位の地位を不動にした。

(3)食品への多角化

1964年にはガムメーカーのハリスを買収し、カネボウハリスを設立して、菓子業界に参入した。カネボウハリスは子供番組へのテレビ広告などで、知名度を上げていった。

その後1965年に立花製菓を買収し、冷菓事業に参入、1971年には和泉製菓と合併し、冷菓事業を強化し、チョコレートにも進出した。さらに1972年には渡辺製菓と提携し、翌73年に吸収合併した。渡辺製菓は、業界初のカップしるこを発売した企業として、有名である。

こうして食品事業として、菓子、食品、飲料、冷菓の4事業を持つに至った。

(4)薬品への多角化

1966年に山城製薬の経営権を譲り受け、薬品事業に進出した。そして1973年に漢方薬を始め、本格的に薬品事業に参入した。漢方薬は、医家向け(処方箋で購入する薬)とOTC(店頭で購入する薬)に分けられるが、医家向けではツムラが、OTCではカネボウがトップになった。医家向けのほうが市場は大きいので、トータルではツムラが首位であった(カネボウ薬品は、現在のクラシエ薬品に引き継がれている)。

(5)ペンタゴン経営

1968年に伊藤淳二社長は、「ペンタゴン(五角形)経営」を提唱した。繊維、化粧品、薬品、食品、住宅・不動産を均等に拡大するというペンタゴン経営は、日本企業の多角化の範とされたこともあった。

本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか
(画像=本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか)

全盛期の1976年度では、繊維:9970億円、化粧品:544億円、食品:255億円、住宅・不動産:86億円、薬品:65億円という売上であったが、利益面では、化粧品の黒字が繊維や食品の赤字を補っていた。

(6)業績の悪化

1990年代に入ると円高の影響で、繊維の収益が悪化し、1990年に祖業である綿紡績業からの撤退を決定した。

一方1991年からは、合成短繊維(ポリエステル、アクリル)に力を入れた。しかし、1992年3月期、かろうじて黒字は計上したものの、売上が6813億円、有利子負債が4784億円であり、営業利益の95%が利払いに充てられていた。1960年代の化粧品、食品、薬品への進出のための買収費用に加え、ナイロン、ポリエステル、アクリル等の合成繊維は、装置産業で設備投資に莫大な資金が必要であったため、借入金が増加していたのである。

そして1993年3月期には、繊維と食品の収益が悪化し、連結ベースで赤字を計上し、人員削減に着手した。1996年には、繊維3社を分社化した。

(7)二転三転から倒産へ

伊藤淳二氏は2003年に名誉会長を退任するまで、実に24年間、カネボウの社長、会長に君臨した。

伊藤氏はペンタゴン経営を進めたが、カネボウ社内では、既に赤字に転落していたにもかかわらず、繊維が本流として力を持ち、黒字の化粧品やホームプロダクツ事業は〝傍流〞とみなされていた。そのため、赤字の繊維事業のリストラに踏み切れないでいた。その結果96年3月期には、連結債務超過に陥った。

1998年、初めて〝傍流〞の化粧品出身で松山商科大卒の帆足隆氏が社長に就任し、繊維事業の別会社化や、繊維や薬品などの一部の事業売却や撤退など、事業の集中と選択を進め、2001年3月期には連結債務超過を解消した。2001年1月には、親会社の社名も「鐘紡」から「カネボウ」に変更した。

再建策として、化粧品事業を切り出し、花王に売却する交渉を続けていたが、2004年2月に突然交渉を打ち切り、カネボウは産業再生機構の支援を仰ぐことになった。これは事実上、自主再建を断念したことになる。

2005年には染色大手のセーレンと共同出資会社を設立し、綿と合繊事業を譲渡することを決定した。この合弁会社は、2006年にセーレン全額出資となり、文字通りカネボウは120年の歴史を持つ繊維事業から撤退することになった。

一方で2005年に、これまでの経営陣による粉飾決算が判明し、カネボウは上場廃止になった。産業再生機構による再建のシナリオは崩れ、2005年12月に支援の終了が決定された。そして、カネボウ化粧品は競売により、一度は破談になった花王に4100億円で売却されることが決まった。

繊維は既に別会社になっていたが、残りの日用品、薬品、食品事業は、ファンドが買収することになり、カネボウというブランドは使えなくなった(2007年に「クラシエ」という社名に決まり、ブランドはカネボウからクラシエになった)。食品では、カップ麵は加ト吉水産に売却、缶コーヒーなどは清算した。

カネボウの解体により、1900億円の売上を挙げていた化粧品は花王に売却、繊維は撤退・譲渡、薬品と食品の一部と日用品は、2009年にファンドからヘアカラー大手のホーユーに売却され、ホーユー傘下のクラシエホールディングスに引き継がれることになった。こうしてカネボウの歴史は、幕を閉じることになった。

本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか
(画像=本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか)

(8)事業構造の数値的変化

カネボウは戦後、積極的に多角化を進めてきたが、セグメント別売上高を見ると

1970年には繊維事業が売上の約74%を占めており、本業は繊維事業であったことがわかる。

1980年では、繊維:約69%、化粧品:約24%、薬品:約3%と、本業は未だ繊維事業である(図表)。

本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか
(画像=本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか)

1990年でも、繊維事業が約53%、化粧品:約27%、食品:約10%、薬品:約4%であり、多角化した事業の割合は増えているものの、変わらず繊維が本業であったことがわかる。

2000年では、繊維:約30%、化粧品:約36%、食品:約8%、薬品:約4%、日用品:約10%となり、本業であった繊維の割合が縮小し、化粧品が逆転した。

2006年3月期では、繊維:約18%、食品:約21%、薬品:約13%、日用品:約27%となった(化粧品は花王に売却され、ゼロになった)。

セグメント別売上高に変化が出始めた1990年代からの売上高推移を見ると、1993年をピークに、バブル崩壊後は売上は減少傾向にあった(図表)。

本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか
(画像=本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか)
本業転換――既存事業に縛られた会社に未来はあるか
山田 英夫
1955年東京都生まれ。早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学大学院経営管理研究科修了(MBA)。三菱総合研究所にて大企業の新事業開発のコンサルティングに従事。1989年早稲田大学に転じ、現職。専門は競争戦略論、ビジネスモデル。博士(学術、早稲田大学)。ふくおかフィナンシャルグループ、サントリーホールディングスの社外監査役。
手嶋 友希
1980年東京都生まれ。大学卒業後、大手金融会社に勤務。企業派遣生として、2019年3月早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)修了(MBA)。現在、企業営業向けの企画立案等を行う業務に従事。

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