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後継者不足で黒字廃業する中小企業が激増中
中小企業の廃業が増えているといいます。
玉子屋も中小企業ですから、中小企業を取り巻く経営環境が厳しくなっている実感はあります。しかし中小企業の経営環境が厳しくない時代などなかったわけで、それぞれの時代の荒波を乗り越えて、中小企業は日本の経済を下支えしてきました。
経営環境の変化についていけなくて業績が振るわずに会社を畳むことはいつの時代もあることですが、昨今廃業した会社の約半分は経営的には黒字だそうです。黒字でまだまだ存続できそうな会社がなぜ廃業するのか。最大の理由は後継者が見つからないからです。
経済産業省の分析によれば、現状、日本の中小企業の3分の1に当たる127万社で後継者がまだ見つかっていないといいます。この問題を放置して127万社が廃業すれば、実に650万人の雇用と22兆円のGDPが失われることになるそうです。
オーナー社長が圧倒的に多い中小企業にとって、会社の経営を後継者に引き継ぐ「事業承継」は大きな課題です。
近頃は従業員をトップに昇格させるケースや外部から後継者を引っ張ってくるケース、M&Aによる事業承継などが増えてきていますが、いまだ主流は親族による承継です。
かくいう私も玉子屋を、父親で現会長の菅原勇継から引き継ぎました。
「親子なんだから親の事業を子どもが受け継ぐのは当然」と思われるかもしれませんが、中小企業の事業承継というのはそんなに簡単なものではありません。
私は玉子屋に入社する以前、銀行に勤めていたことがあります。中小企業の経営者とのお付き合いがありましたから、経営のバトンを引き渡す苦労も目の当たりにしてきました。なおかつ自分自身、家業を引き継いだ経験から言えば、親子の間柄が逆に作用することが少なくないのです。
まず親の立場からすれば、創業社長あるいはオーナー社長として、幾度も危機を乗り越えて会社を守り続けてきた。休日もお構いなしに仕事に明け暮れて、時には下げたくもない頭を下げて仕事を取ったり、支払いを先延ばしにしてもらったり。資金繰りに窮したときには個人資産を抵当に入れてでも金を借りて、家族と従業員の生活を守るために、世のため人のために、大変な思いをして会社を引っ張ってきたわけです。
それゆえに会社を受け継いで欲しい気持ちと同じくらい、自分と同じような苦労を子どもにはさせたくないという思いが強い。
そうは言っても中小企業のオーナーですから、そこそこのお金はあります。子どもの教育にはお金をかけられるし、絶対に私立の学校に入れたいという人も多い。玉子屋がある東京大田区は日本有数の中小企業の集積地ですが、町工場の子どもは案外、私立のいい学校に通っています。
一方、子どもは子どもで苦労している親の背中を見て育ちます。「継いでもらいたいけど、自分と同じ苦労はさせたくない」という親の複雑な思いもそれとなく伝わってくる。だから「家業を継ぐ」という前向きな気持ちにはなかなかなれない。私は子どもの頃は大企業のサラリーマンに憧れていました。
仕事が忙しくて子どもに接する時間が少なくなれば、二代目教育だって十分には施せません。塾に通って、いい学校に入って、子どもは親とまったく違った育ち方をする。小さな組織であれ、リーダーとして引っ張っていくにはそれなりの資質や素養が必要です。そういう育て方をしなければ、なかなか身につくものではないだろうと思います。
結局、会社を託せるタイプには育たなかったから、あるいは育てられなかったから事業承継できない。中小企業の後継者不足の背景には、このような親子の問題もあるのではないでしょうか。
思い切って「廃業」することも一つの選択肢
銀行員の目線で言えば、事業承継するよりも廃業したほうがいい場合もあります。事業承継の方向性が定まらないまま、業績の上がらない事業をずるずると続けていたら、廃業すら困難になりかねません。
ここで言う「廃業」というのは経営者が自主的に会社を畳むことです。借入金や買掛金といった負債を完済して会社としての責任を全うし、法務局で法人登記を抹消すれば廃業はできます。一方、資金繰りがつかなくなって、取引先への支払いができなくなったり、従業員の給料が払えなくなって、会社経営が成り立たなくなるのが「倒産」です。
自分の意志で廃業するのならイチから再出発できます。しかし、倒産となると取引先や従業員などに多大な迷惑をかけることになりますし、負債の返済という足枷がついて回ります。マイナスからの再出発だから再起の道も険しい。
会社に将来性はあるのか。事業の将来性はどうか。後継者はいるのか。いるならその資質や素養はどうか。まずはそれらをしっかり見極める。その上で、今の事業に将来性を見出せず、後継者のあてもない、もしくは後継者候補に期待が持てないのなら、資金や資産に余裕があるうちに「廃業」を選択する。
最近では、中小企業の事業承継は国家的な問題として認識されており、自治体が後継者育成事業に力を入れています。自治体が「事業引継ぎ支援センター」を設置し、地域の商工会議所が運営したり、民間の中小企業M&A支援業者も増えてきました。
同業他社に丸ごと会社を買収してもらう、不採算事業を整理して収益部門を子会社化するなど、事業の存続にも社員の生活にも支障の少ない形での継続が見込めることもあります。その場合、オーナー社長なら会社を売却した収益を老後資金に当てることもできるでしょう。自力で後継者が見つけられない場合、こうしたサポートやサービスを利用するのも手だと思います。
体力があるうちに会社を清算するのも大事な経営判断です。
後継者を決めているなら、なるべく早く全権委任する
廃業も含めて、事業承継というものはあらゆる可能性を排除しないで手当てしていくことが大切だと思います。
すべての選択肢の中で何がベストなのか、一概には言えません。
会社経営というのは本当に奥が深いものです。たとえば、商売で使われている技術をトップが深く理解していることが決定的に重要な場合もあれば、技術的なことはわからなくても技術に精通した職人から「この人の下で働きたい」と信頼される器の大きさや人間性が大事な場合もあります。
外部から後継者を見つけてくるのもいい。お金はかかりますが、「プロ経営者」と呼ばれる経験豊富な専門家を招く手もあるでしょう。
身内から選ぶにしても、長子、長男にこだわることはない。資質があるなら娘に継がせてもいいし、娘婿なら世界には35億人の候補がいるわけです。息子より優秀な後継者が見つかる確率は高い。
そして「こいつに継がせたい」と心に決めた後継者がいるのなら、1日でも早く引き継がせたほうがいいというのが私の持論です。
後継者と目した相手に経験を積ませて、自分が納得できるレベルまで育ててから、タイミングを見て会社を継がせる。それがセーフティな事業承継だと思っている経営者は少なくないでしょう。しかし5年経っても、10年経っても納得できるレベルに育たないことだってあり得ます。その間にトップの経営感覚やエネルギー、人脈などがすっかり衰えてしまって、やむなく引き継ぎをしているようでは失敗しかねない。
「継がせる」と決めたら、経験が浅くても、企業家として未熟でも、社長なり役員なり、それなりの立場に就かせる。未熟だから失敗もするでしょう。しかし、先代が元気なうちは十分にフォローができます。
まだまだ人脈はあるし、お客様だって持っている。何よりパワーがあります。新しいトップに対する社内の不平不満を抑えることができるし、二代目を鍛える余力もある。
事業承継の失敗事例でよく見聞きするのは、息子などの後継者になかなか会社を継がせないパターンです。長らく“お預け”を食っているうちに後継者のモチベーションは下がり、「社長交代があるかもしれない」という社内の緊張感も薄れてしまう。
そうこうしているうちに社長が病気になったり、元気がなくなって事業承継せざるを得ない時期がやってきますが、そのときには社長の人脈もすっかり古びてほとんど役に立たなくなっている。
社長が元気なうちにバトンタッチして後継者と一緒に得意先や取引先を回って「まだ出来が悪いけれどよろしくお願いします」と顔をつないでおけば、生きた人脈がしっかり引き継げる。
最初は従業員から文句が出るかもしれません。しかし、「俺が決めたことだから。新しい社長を盛り上げてやってくれ」と言い聞かせれば、従業員も早めに気持ちの切り替えができる。トップが元気なうちに事業承継したほうが、新しい体制への移行はスムーズに運ぶと思います。
入社したときから経営を任された
我が身を振り返れば、玉子屋の事業承継は比較的スムーズにいったと思います。
玉子屋を興した私の父親であり現会長の菅原勇継は1日50食の「弁当屋」から始めて、1日1万食を超える弁当を製造販売する「中小企業」に玉子屋を育て上げました。450円の日替わり弁当に特化して食数を伸ばしていく玉子屋のビジネスモデルの原型は、すべて会長が考え出したものです。
その会長から玉子屋の経営を引き継いで私が社長になったのは2004年のこと。
詳しいいきさつは後章に譲りますが、私は大学を出てから銀行やマーケティング会社で仕事をしていました。玉子屋に入社したのは1997年。27歳のときです。
社長として会社を引き継ぐまでに7年を要したことになりますが、常務で入社したときから会長に「すべて任せる」と言われていました。
しかし、当時、会長は「華麗なる中小企業の社長」としてメディアに登場するようになって、ちょっとした有名人になっていました。玉子屋のブランドを確立していく上で、会社の顔である会長の存在は欠かせなかったし、自分自身まだ力不足だと思っていました。だから私のほうから、「社長交代はもうちょっと待とうよ」と進言したのです。
入社5年目の2002年に副社長になり、その頃には私もテレビや雑誌の取材を受けるようになっていました。「もういつ社長になってもいいだろう」と会長からも言われていて、それならばいい節目ということで、2004年に催した玉子屋の30周年記念パーティを新社長のお披露目の席にさせていただきました。
だから社長の肩書きになったのは2004年のことですが、実質的には1997年に入社したときから経営を任されていたので、玉子屋の事業承継はその時点でほとんど完了していたことになります。
当時、会長は57歳。まだまだ元気でしたし、経営感覚も鋭敏でした。バブル崩壊後の不況とデフレが進行する中で弁当ブームは続いていて、会社の業績も順調に伸びていた。表向き、トップを退く理由はなかったと思います。
しかし、会長は二代目と見定めた私を玉子屋に引き入れたら、すぐに会社を任せるつもりでいた。私が玉子屋に入ることが決まった時点で、幹部社員に「今度から息子に一任する」と話していたそうです。
小さな「弁当屋」に自分を慕ってくれる仲間が集まってきて「小企業」になり、いつしか「中小企業」になって従業員の数も増えた。これからまだまだ食数は伸びそうだし、従業員もさらに増えるかもしれない。
「家業」からスタートした玉子屋が「企業」になり、「企業」としても一皮剝けなければいけない時期にきていることを、会長は感じていたそうです。一方で、コーポレートガバナンス(企業統治)やコンプライアンス(法令遵守)、CSR(企業の社会的責任)といった言葉が注目されて、企業経営のあり方が一層厳しく問われる時代がやってくることも十二分に理解していた。
そんな社会状況を鑑みながら、玉子屋の未来を見据えて、「潮どき」という判断に至ったようです。
もちろん、自分でやれるだけのことをやったという満足感もあったと思います。遊びが大好きな人ですから、しんどい一線はさっさと退いて好きに遊びたいという気持ちもあったのかもしれない。遊びも元気なうちでなければ楽しめませんから。