東京大田区・弁当屋のすごい経営
菅原 勇一郎(すがはら・ゆういちろう)
1969年東京生まれ。立教大学卒業、富士銀行(現みずほ銀行)入行。流通を学ぶため、小さなマーケティング会社に転職し、1997年から「玉子屋」に入社。葬儀やパーティ用の仕出し屋「玉乃屋」も設立。2004年社長になり、97年当時12億円くらいだった売り上げを、90億円までに。2015年からは、世界経済フォーラム(通称ダボス会議)にも、フォーラムメンバーズに選出されている。

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配達は、注文数が確定する前に見込みで出発する

配送システムの効率化も改革のポイントでした。

玉子屋について多くの人から驚かれるのは、1日最大7万食という数の弁当を毎朝9時から受け付けて、昼の12時までに各オフィスに届けていることです。それだけ大量の弁当をどうやって都内各地のオフィスに時間内に届けるのか。

詳しくは2章で説明しますが、要は遠距離、中距離、近距離と配達エリアを分けて、配達車同士が連携することで配送効率を高めています。

まずは遠距離エリアの配達車は受注を待たずに、朝8時の段階で「見込み数」の弁当を積み込んで出発。中距離エリアの配達車はそれより遅れて出発します。遠距離部隊の弁当が余ったり、不足する見込みとなった場合は、遠距離エリアの配達車と中距離エリアの配達車が連絡を取り合って、弁当を補給したり、逆に余った弁当を積み替えます。同じように中距離エリアの不足分や余剰分は、大田区周辺の近距離エリアの配達車に積み替えて調整していく。

こうした配送システムは私が入社する前から確立していて、入社前、何度か配達車に同乗して配達の様子を見せてもらいました。本当によくできたシステムだと感心したのですが、そのときに「リバ調」と書かれた配達車が1台あることに気づきました。

聞けば、配達ポイントに「リバーサイド」というビルがあって、「リバーサイド用の調整車」だから「リバ調」とのこと。

「ここのお客様は数が確定していないまま注文が入ってきてしまうので、1台だけ余分に弁当を積んでおいて、それで調整して最終的な数を確定させるんです」と配達スタッフが教えてくれました。

弁当が余った場合には、当時、近辺に自動車教習所があって、そこの売店で販売できる取り決めになっているとか。無駄が出ない工夫が凝らされていることに感心しきりでした。

同時に配達現場を見ていて思いついたのは、「リバ調」のように自由に動ける調整車両をもっと増やせばいいのではないかということです。

遠距離エリア、中距離エリア向けにも調整車を複数台用意して、弁当の不足分を補ったり、余剰分を引き取ってほかのエリアに臨機応変に回していく。配達車同士の連携に加えて、複数の調整車を投入すれば、配送効率も配達の精度ももっと上がると思いました。

実際、調整車の追加導入で配送能力は向上しました。私が入社した当時、配送ルートは40ほど。社長になった頃には100ルートまで増えましたが、配送システムに破綻はきたしませんでした。調整車がカバーする部分が大きかったと思います。

8年で3倍の注文を受けるようになる

改革の効果もあってか、食数はコンスタントに伸びていきました。私が入社した1997年の食数が2万食程度。それが1年後には2万4000食、2年後には2万7000食、3年後には3万食という具合です。

90年代後半、バブル崩壊後の不況が長引いてデフレ傾向が強まる中で、弁当のコストパフォーマンスがあらためて見直される時代状況も後押ししてくれたのでしょう。玉子屋の弁当はほかの弁当に比べて極端に安いというわけではありませんが、クオリティの高さと値段のバランスが支持されたのだと思います。

食数や売り上げを伸ばすのは意図していたことですが、1・5倍とか2倍というような急成長はむしろ望ましくないと考えました。社員の成長と売り上げの伸びは正比例するべきであって、これがズレて売り上げの伸びに対して社員の成長が追いつかなくなると、玉子屋のサービスにお客様が満足できなくなって「三方よし」が崩れるからです。

ゆえに配達エリアを一気に広げて、注文を取りまくるような営業は控えることにしました。既存のエリア内で地道に営業しながら、玉子屋の評判を着実に高めて食数と売り上げを伸ばしていく。ベースとしては年間20%の売り上げアップを念頭に置いていました。毎年20%増を達成できれば、5年後には売り上げは倍になりますから。

実際、3万食までは売り上げは年20%増ペースで伸びていきました。しかし3万食が一つの分岐点で、社員の成長と売り上げが正比例して伸びても、工場の稼働率が限界に達してくる。そんなときにたまたま隣の町工場が廃業して、新工場をつくるのに最適なスペースが空きました。そこを買い取って新工場を建設し、生産能力を1万食増やしました。

「あと1万食、営業で取ってこられるぞ」ということで社員の皆も燃えてくれて、次の年には3万5000食、翌年には4万食に達しました。

食数が増えるにしたがって食材の仕入れも増えます。食材の仕入れが大量になるほど、値引きの幅も大きくなります。また3万食を超える規模になると、食品メーカーに頼んでプライベートブランド(PB)の商品をつくってもらえるので、よりリーズナブルな値段で食材が手に入ります。その分、よりよい食材を使えるから、値段は同じでも弁当のクオリティは高まるし、バラエティに富んだ弁当が提供できるわけです。

その後も頃合いよく用地を取得できました。バブル崩壊は設備投資の面でも追い風になったようで割安な出物に出会えたし、会長や専務の目利きもあったと思います。もともと4万食ぐらいまでは増やすつもりでいましたが、第1工場、第2工場、洗浄工場、炊飯部門のライスセンターと生産能力を拡張した結果、6万食まで対応可能になりました。

リサイクルを徹底したため7000万の赤字に

やることなすこと上手くいったと言いたいところですが、失敗もあります。

2000年に食品リサイクル法(食品循環資源の再生利用等の促進に関する法律)が制定されて、食品廃棄物の減量、再生利用が義務化されました。今は分別した食品廃棄物を業者に持っていってもらってさまざまな方法で処理していますが、リサイクル法がなかった当時は自分たちで回収した食品廃棄物は自分たちで処理していました。

食品会社は環境問題に敏感であるべきだと私は思っていて、環境対策のアイデアをあれこれと思案していたときに、食品廃棄物を炭化して燃料炭に加工する炭化リサイクルの技術が目に留まりました。食品廃棄物を焼却処分して、出てきた炭を燃料に使う。廃棄物をほかの産業の原料や燃料に使うなど、リサイクルを徹底して廃棄物をゼロに近づけようとする「ゼロエミッション」の考え方に近い技術です。

とある中小企業が特許を取得した炭化リサイクル焼却システムを7000万円でリース契約を結んで洗浄工場に設置しました。

まずは大量の生ゴミを焼却してゴミの量を減らすことが目的です。将来的には出てきた廃棄物を全部そこで燃やせば、有害物質は一切出ないし、生成された燃料炭をライスセンターの熱源に使うこともできる―。

という構想だったのですが、これが大誤算。白い煙がもうもうと出てくる。いくら無害でも、毎日毎日煙が立ち上れば近所迷惑です。大田区役所から毎日苦情の電話がかかってくるし、機械が故障するとあっという間に廃棄物が溜まってしまう。

結局3ヶ月ほど稼働しただけで、この機械は諦めました。導入費用7000万円は丸々赤字。完全に私の責任です。「いい勉強だよ」と会長からは言われましたが、赤字分を何とか回収しなければいけない。

そこで工場長と相談してライスセンターの業務改善を行なって、無駄を徹底的に取り除くことにしました。その結果、電気、ガス、水道その他のエネルギーコストが年間で3500万円削減できることがわかった。社員の皆が必死になって業務の効率化に取り組んでくれたおかげです。

7000万円の赤字は2年で回収できて、そこから先は毎年3500万円ずつ浮くことになるわけで、まさに「ケガの功名」でした。

後押ししてくれた会長の言葉

「血のつながったお前が会社を潰しても全然構わない」

常務として玉子屋に入ったときから、私は社長のような立場で仕事をやらせてもらえましたし、当時社長だった会長はすでに会長のような立ち居振る舞いで私の仕事ぶりを見守ってくれました。私から何かを尋ねない限り、「ああしろ、こうしろ」とは一切言わない。

人事や給与を決める権限も最初から私が引き継いだので、人事給与制度も大きく変えました。能力給や成果給を取り入れて、実力主義を強化したのです。

弁当屋ではなく、「三方よし」を是とする会社の一員であるという自覚を持って社員も成長してもらいたい。社員の意識を変えるためには、給与制度を変えたり、人事を動かして、組織を揺り動かす必要があると思っていました。

結果、長い間玉子屋で働いていた社員よりも、入社1、2年の社員やアルバイトのほうが高い給料やボーナスをもらうケースが出てきました。玉子屋の家族主義的な経営に慣れた社員にとってはつらいことだったかもしれません。社員を家族のように思って接してきた会長にとっても。しかし、「人事給与制度を変える」と伝えても、会長は一切口を差し挟まなかった。

幹部社員を前に「これからはコイツの言うことを聞いて仕事してくれ」と私を紹介した初日の夜、自宅で会長から言われたことを今でもハッキリ覚えています。

「俺がゼロからつくった会社だ。血のつながったお前が潰しても全然構わない。気にしないで好きにやれ」

社員の前では言えないことを言われたとき、後光がさし込んだように目の前の景色が明るくなりました。やはり「親父から受け継いだ会社を潰してはいけない」というプレッシャーがあったのだと思います。会長の言葉でそれがすっと消え失せた。

だからリスクをあまり考えずにメニューや人事制度の改革に取り組むことができたし、その結果、食数を大きく伸ばすことができたと思っています。

事業を興すことと、事業を1 0倍にすること、どちらが大変か?

私は、1997年に玉子屋に入ってすぐに経営を任されましたから、実質的に事業承継してから20年以上が経過しました。玉子屋の創業は1975年。創業社長である会長が玉子屋を率いた年数と同じくらい、二代目の私も社長業をしてきたことになります。

私が玉子屋を引き継いだときの食数は2万食ちょっとでした。それが今や7万食に届くまでになった。当然売り上げ規模も大きくなりましたし、従業員も増えました。「先代を超えた」と言っていただけることもあります。しかし、私にはそんな実感はありません。

創業者はゼロから1を創ります。事業を継いだ二代目は1に上乗せして2にしたり、10にしていく。ゼロから1を創るのと1を10にするのとどちらが大変かという議論がありますが、引き比べることにあまり意味はないと私は思います。

ゼロから1を創るのが得意な人もいれば、1から10にするほうが得意な人もいます。ゼロから1を創るのが得意な人は、1を10に増やすのは不得意かもしれない。あるいは10に増やすのに飽きてしまってまたゼロから1を創りたくなる。事業を立ち上げるのが大好きな人たちはそういうタイプなのかもしれません。

1を10に増やすことは得意でも、ゼロから1を創り上げるのが苦手な人だっている。スタートアップよりも、でき上がった組織を大きくするときに強みを発揮するビジネスマンもいるわけです。

玉子屋の事業に照らして言えば、1975年時点で弁当屋を興して、2万食まで食数を伸ばすことは私にはできなかったでしょう。逆に会長が私と同じタイミングで玉子屋を引き継いで7万食まで伸ばせたかと言えば、絶対に無理だと思います。これは自信を持って言える。

要はお互いの特徴が違うのです。会長は自分より私のほうがずっと優秀だと思ってくれている。もしかしたら90%以上は私のほうが優秀かもしれない。しかし、残りの10%がとてつもなく重要で、会長のカリスマ性と人を惹きつける魅力と器の大きさは、私が逆立ちしても到底敵わない。

お互いの長所、短所が違っていることを、会長と私は認め合っています。互いの長所を敬っている。実は玉子屋の事業承継がうまくいった一番のポイントはそこだったのかもしれません。

時代が変わって、カリスマ的な自分の経営ではいけない。これからは私のようなタイプがふさわしいだろうと会長は判断して、経営者として脂が乗っていたにもかかわらず、私に経営を譲った。自分でもまだできるのに。あえて私に残しておいてくれた部分もあるのでしょう。しかも、未熟な二代目に言いたいことは山ほどあったでしょうが、譲ったからには一切口を出さない。本当にすごいことだと思います。

引き継ぐ者と引き継がれる者が互いを尊重し合えるならば、事業承継は大方うまくいくのではないでしょうか。