(本記事は、松原英多氏の著書『もの忘れをこれ以上増やしたくない人が読む本 脳のゴミをためない習慣』講談社の中から一部を抜粋・編集しています)
顔は覚えていても名前を忘れた!
40歳を超えるころになると、「年かね、最近もの忘れが多くなってね」と、こぼす人をよく見かけます。
その記憶力低下は本物でしょうか。
記憶力にはいろいろのナゾがひそんでいる。
まずは、お馴染みの名前忘れからまいりましょう。
記憶とは奇妙ですね。非常に親しい親友、彼に関する情報の99%は記憶している。でも、咄嗟に彼の名前が出てこない。いわゆる名前忘れですね。
「帰りにあいつに会ってさ」
「あいつ?あいつって誰よ」
「あいつって、あいつだよ。お前もよく知っているだろう。ほら、丸顔の背の高い、あいつだよ」
「Aさんでしょ」
「そうだ、Aだ。Aの名前を忘れるなんて、オレ、ボケたかな」
こんな光景はよく見かけます。誰でも経験のある名前忘れです。
Aさんは親友です。顔も体形も覚えている。家族はもちろん、住所も職業も経歴も性格までも承知している。名前だけが出てこない。
Aさんについての99%は記憶しているのです。名前だけが思い出せない。これを記憶力低下と言えるでしょうか。言えませんね。だから、言い逃れのような「度忘れ」という言葉を使います。
「顔は覚えているが、名前を忘れた」には、人類の歴史が込められています。
原始のころの人類は非常に弱い動物でした。疾風のような逃げ足もない、相手を切り裂く鋭い牙も爪もない。まるで野獣の「エサ」のような存在だったのです。
仲間同士でも、安全とは言い切れません。隣に座れば、まず「コイツはオレを食うつもりだろうか」と考えます。
食われてはたいへんです。食われるか食われないかの判断は、名前のない当時のことですから、顔で覚えます。危険な顔ならば逃げ出す。危険でない顔ならば、一緒にエサ探しに出掛ける。
相手の顔を覚えることは、身の安全とエサの確保を意味したのです。
これほど重要な「顔を覚える」です。脳はさっそく「顔を覚える」専用の脳神経細胞の集まりを作りました。その集まりは現在まで受け継がれています。
「脳内には、顔を覚える専用の脳神経細胞がある」と、東北大学大学院生命科学研究科の山元大輔教授は言います。
一方、名前は別のコースをたどります。職業、風土、地名などが形を変えて名前になりました。原始よりだいぶ時代が進み、食糧事情もよくなり、隣に座ったヤツを食らう必要もなくなりました。
名前誕生のころは、脳も大成長して、脳内は満杯状態です。とても名前を覚える専用の細胞の集まる余裕がない。
こうして脳内に「顔を覚える専用の細胞の集まりはある」が、「名前を覚える専用の細胞の集まりはない」となった次第です。
人間の顔に反応するのは、「側頭連合野」という領域です。
側頭連合野は、形や図形を認知する領域です。それも、ただの認知ではありません。視覚情報から得たモノの形から、そのモノの形が持つ意味を理解する領域なのです。「あの丸顔はAさんだ、こちらの面長の顔はBさんだ」と、顔の形から連なる情報の意味を理解するのです。
この部分が損傷すれば、形がわかっても、意味する部分がわからない。面長の顔の形はわかっても、その形がBさんの顔と理解できないのです。形が持つ意味を理解することはできなくなります。
側頭連合野の働きは顔の理解ばかりではありません。目的地に行くのに目印になる建物があっても「あれは○○ビルだ」の意味もわからなくなる。そして、道にも迷う。側頭連合野は非常に重要な働きをしているのです。
名前忘れは、一時的にせよ長時間にせよ、側頭連合野の機能低下を意味します。
「脳内に名前専用の細胞がないのだから、名前忘れも当然」とはゆきません。大切なことが抜けています。
「名前忘れは加齢とともに増加します」 「認知症の最大の原因は老化です」
このふたつを合わせれば、名前忘れは老化の証拠であり、認知症の始まりと言えなくもない。
さあ、たいへん。名前忘れの陰には認知症がひそんでいるのです。名前忘れはエチケット違反として責められる。でも、その陰には認知症があるのです。
「面倒くさい」がもの忘れの原因!?
記憶とは(1)覚える、(2)記憶の倉庫に保管する、(3)記憶を思い出す、という3つの機能によって成り立っています。
健康老化では、主として(3)の記憶を思い出す力が衰えます。認知症の場合はさらに悲劇的で、(1)(2)(3)すべてに問題が起きて、記憶力が毎日の生活に支障を来すまでに低下します。
とはいっても、思い出す手間は並大抵のものではありません。
われわれの記憶の倉庫は巨大です。その巨大さは、驚くばかり。平均的な図書館の書籍量の2〜3倍に匹敵するともいいます。
本の数にすれば何百万冊でしょうか。その中からたとえば家のどこかに置き忘れたマイカーのカギのありかを探すのは、並大抵の困難さではない。大いなる努力が必要です。
しかしすべての記憶を思い出すのに、手間暇がかかるわけではありません。
自宅の電話番号や住所の類は、記憶の倉庫の入り口近くに置かれているから、すぐに思い出しが可能です。
わかりやすく言えば、重要な記憶は取り出しやすい倉庫の入り口近くに置く。あまり重要でない記憶は倉庫の奥深くに押し込まれる。
しかし人間は機械ではありません。何かの調子で、マイカーのカギのような重要なものでも、倉庫の奥に押し込まれることがあります。
押し込まれれば、長時間かけて記憶の芋づるをたどることになる。いやはや、ご苦労様。ご苦労様だからこそ、探し当てたときの喜びは大きいのです。
この「喜び」こそ、脳へのねぎらいであり、ご褒美です。
自宅の電話番号や住所の類の思い出しにも、ときには記憶の芋づるをたどります。たどっている最中に、急に別の記憶が入ってくることもある。
脳の働きは多岐にわたります。記憶の芋づるたどりにも、他の芋づるが混じることがあるでしょう。
しかも記憶は怪しくなると、不思議にも他の記憶の芋づるを混ぜたくなる。マイカーのカギの芋づるたどりが面倒になると、無意識のうちに他の面倒の少ない芋づるが混じって、方向転換しているのかもしれません。
別の記憶を思い出すためには、別の記憶の芋づるをたどることになります。急な方向転換です。芋づるたどりも迷います。迷えば簡単な自宅の電話番号や住所も思い出せない。でも、芋づるたどりの方向を元に戻せばすぐに思い出せる。
「失せ物のありかを思い出すためには原点に戻れ」と言います。もう一度1階から2階へと階段を上がる。その途中で、記憶の芋づるのもつれも整理される。
「度忘れ」の正体は意外なところにあるものです。
ここまでわかれば、手間暇を惜しむなかれ。せいぜい頑張って、思い出しの努力をしてください。その努力があれば、面倒病も克服できるし、そこから思考・行動の幅も広がる。
かくして認知症予防も可能になる。そして健康長寿も手に入ります。
意欲低下(面倒くさい)は、認知症の初期にも進行期にも見られます。脳血管性認知症の70%、アルツハイマー型認知症の50%以上に現れるといいますから、かなり高率。
その高率の影響は、当然「その前」にも現れます。しかし、多くの人は、それが「その前」の兆候と気づかない。そのまま見すごします。気がついたときは完全な認知症になっている。
あまりにも哀れな話ではないですか。