(本記事は、松原英多氏の著書『もの忘れをこれ以上増やしたくない人が読む本 脳のゴミをためない習慣』講談社の中から一部を抜粋・編集しています)
認知症のもの忘れと普通のもの忘れ
認知症のもの忘れとは、どんなものなのでしょう。健常人のもの忘れとどう違うのでしょうか。まだ今は「その前」でも認知症に絡むとあれば、記憶力を避けて通ることはできません。
原則的に言うと次のとおりです。
「認知症は全体を忘れ、健常人は一部を忘れる」となります。
ちょっと抽象的で意味がはっきりしませんね。
わかりやすく言うと、こんな調子です。
「認知症では食事をしたこと自体を忘れ、健常人は食事をしたことは覚えているが、おかず(副食)が何だったか忘れる」となります。
「明日午前9時に東京駅で会おうね」との約束で、健常人は「明日」「午前9時」「東京駅」のどれかを忘れます。でも約束したことは覚えています。
認知症では場所や時刻だけでなく、約束をしたことそのものを忘れます。
認知症には3大もの忘れがあります。
「同じ話や質問をくり返す」 「置き忘れ・しまい忘れ」 「あれこれ症候群」
の3つです。
この3つのもの忘れは、40〜50歳でもよくあります。しかし「オレにもついに来たか」ではありません。
認知症のもの忘れには、大きな特徴があります。誤りを指摘されても修正できないのです。
「その話は前にも聞いたよ」と言われると、「いいや、初めてだ」と言い張ります。ついには、「初めてだ」と言い張って、怒り出す。
この「怒り出す」、すなわち易怒性は認知症の特徴、とまで言われます。
誤りを指摘されて、「前にも話したか。これから気をつけるね」と修正できればセーフです。できなければアウト。お気をつけください。
簡単なもの忘れは健常人にもよくあることです。その代表が「名前忘れ」でしょう。
ちょっと古い報告になりますが、2014年のNHKのアンケート調査によれば、名前忘れ現象を経験した人は85%に及ぶといいます。
85%といえば、「ほとんどの人」ということです。「私もアナタも、僕も君も、オレもお前も、あいつもこいつも。ならば安心」と、安堵したくなります。
いや、いけません。認知症はくせ者です。姿を見せなくても、毒ガスをまき散らして、アナタを認知症へと誘い込むのです。
名前忘れは「あれこれ症候群」の仲間です。そして「あれこれ症候群」は認知症の3大もの忘れのひとつです。
「名前忘れは誰にでもあることだ。だから安心」と、決めつけるのは危険です。この「安心、安堵」が大きな危険なのです。
名前忘れをよく考えてください。名前忘れを経験した人は85%といっても、やはり中高齢者に多く見られ、若い人には少ない現象です。
前にもお話ししましたが、「中高齢者に多く見られ、若い人には少ない」は老化現象であり、「老化は認知症の最大の原因」をあわせれば、名前忘れは認知症の始まりになります。
理由はともかく、名前を忘れられて喜ぶ人はいないでしょう。大政治家の田中角栄氏は名前覚えの名人だったそうです。
講演会のたびに「○○太郎君、元気か。お父さんも健在か」と、名字名前はもちろん、おまけに「家族のことまで心配してくれる」と、参加者は大感激。当然のごとく、多数の票を集めてトップ当選。
名前忘れは損することが多く、なければ得することが多い。
「名前忘れは85%の人に起きる現象だから安心」でなく、警告です。
名前忘れが度重なり、やがて「同じ話や質問をくり返す」や「置き忘れ・しまい忘れ」も起きてくる。おまけに「その話は前にも聞いた」と誤りを指摘されても、「いいや、初めてだ」と言い張る。ついには怒り出す。
こうなれば、完全な認知症です。名前忘れを放置したばっかりに、とんでもない悲劇が起きるのです。
悲劇は困る。あらためて記憶力に迫ってみましょう。
記憶力にはいろいろなタイプがあります。不幸な例では、先天的に顔を覚えられない疾患もあります。「先天性相貌失認症」といい、約2%の割合で存在すると推定されています。
それにしても、記憶力とは不思議な力を持っています。「記憶は興味のあるところのみに生まれる」といっても、興味にはマイナスのものもあればプラスのものもあります。
残念ながら、マイナスの興味のほうが強く記憶に残るようです。つまり、いやな記憶や、失恋などのマイナスの記憶は忘れようとしても、なかなか消えてくれない。
その理由は再び原始のころに戻ります。
原始のころの人間は非常に弱い動物であったと述べました。まるで野獣の「エサ」だったのです。
その超弱い人間が今や生物界の王者です。王者になれた理由は記憶力です。それもマイナスの記憶が、超弱い人間を王者に育てあげたのです。
マイナスの記憶、つまり負の記憶は生命の危険に関連しています。
「あそこにはエサがたくさんあるぞ」はプラスの情報であり正の記憶です。
「エサがたくさんあるぞ」は生きる喜びですが、エサがなくてもすぐ死ぬとは限らない。生き残るための記憶ではあるが、直接の生命の危険度は高くありません。
「あそこには腹を減らした野獣がいて、近づくとすぐに食い殺されるぞ」の記憶は、生命の危機に直結する最大の危険情報です。
生命の危険情報を記憶しなければ、生き残るどころか、「死あるのみ」になってしまう。どうしても忘れられない記憶です。いずれにしても、マイナスの記憶は強く脳内に残ります。そして人間は王者になれたのです。
こうした原始のころの生き残り記憶システムが現在にまで残り、失恋の辛い記憶が脳から離れないのです。
最近、車庫入れが下手になった
あなたの周りに、最近、車庫入れが下手になったという人はいませんか。大きな衝突ではないが、マイカーのあちらこちらにこすり跡が見える。コンパウンド(研磨剤)で磨けばすぐに消える程度ですが、問題は衝突の大きさより、その原因です。
大小の区別なく、自動車事故には、見当識の低下が絡んでいます。
ブレーキを踏んだつもりがアクセルだった。これも見当識の低下です。いや、見当違いです。
見当識とは「ものごとに見当をつける力」です。その延長線上に、現在の年月や時刻、自分がどこにいるかなど基本的な状況把握があります。
認知症では、見当識は徐々に失われていきます。「徐々に」ですから、「その前」にも見当識低下らしきものが現れることがあります。車庫入れ失敗などが、よい例です。
見当識は、時間の見当識、場所の見当識、人物の見当識に分かれます。
時間の見当識は「今、何時?」から始まって、「今日は何年何月何日何曜日」と続きます。
健常者でも、突然「今日は何年何月何日何曜日か」と尋ねられて、スムーズに答えられないことはあるものです。まして超軽症でも認知症になると、何回もヒントを出さないと、なかなか正解にたどり着けません。
認知症も中程度にまで進むと、現在自分がどこにいるかがわかりにくくなります。
脳にゴミのたまる「その前」だって、散歩の途中で、「あれ、ここはどこだ。この道はたしか駅に出るはずだがな」と迷うことがあります。一時的な見当識の低下です。
認知症も中程度から重症にかかると、人物の見当識低下が現れます。糟糠の妻もわが子もわからなくなります。
そこまでの重症はともかく、「その前」で現れるのが、おなじみの名前忘れでしょう。相手について99%は記憶しているが、名前だけがどうしても思い出せない。
だからといって、全部が見当識の低下と決めつけられません。社会生活の中などでは、多くの人と出会います。ひとりひとりの名前を確実に覚えるのは不可能だし、その必要もありません。
しかし自分にとって必要かつ重要な人の名前は、確実に記憶する習慣をつけましょう。名前忘れは、小さな見当識の低下であり、認知症への道でもあるからです。
こうして考えてゆくと、最後は記憶力に到達してしまいます。見当識低下を防ぐためにも、記憶力アップが必要になります。
記憶力について、こんな報告があります。
アメリカのプリンストン大学でのラットの実験です。ラットの飼育方法を変えて、記憶を司る海馬細胞の増え方を調べたのです。
一匹飼育より複数飼育のほうが海馬細胞が増えた。
複数飼育でもオスメス飼育のほうが海馬細胞が増えた。
群れの勝ち組のほうが負け組より海馬細胞が増えた。
とあります。
非常に人間くさい実験です。人間は群がり動物ですから、「ひとり」を嫌います。嫌うとは否定ですから、脳はお休み。だから記憶の脳神経細胞も増えません。
「一匹がダメなら複数飼育にしよう」。これは大当たり。でも記憶の脳神経細胞の増え方が少ない。「では、ただの複数でなく、メスオス飼育にしよう」。これこそ、そのものずばりの大当たり。記憶の脳神経細胞も増えました。
昔々のその昔、教育勅語にもありました。「夫婦相和し」と明記されています。明治天皇はお偉い。夫婦仲良くすれば、必ずよい知恵が浮かびます。お勅語にも実験にも間違いなし。