新型コロナウイルスに対する感染拡大防止策や景気刺激策、あるいはロックダウン(都市封鎖)の方針決定の指針として、無意識のバイアスに起因する非合理的な判断プロセスを分析する、「行動経済学(Behavioral Economics)」が注目されている。
行動経済学の観点からパンデミック(世界的大流行)を分析すると、パニック買いを始めとする人々の非合理的な行動から、英国が欧州一の死者数を記録するに至った要因まで、表面からは分からない様々な側面が見えてくる。
「パニック買い」「自粛中の混雑」はなぜ起こったのか?
行動経済学で分析しやすい行動の一つに、「パニック買い」が挙げられる。在庫がなくなるかもしれないという恐怖心に駆られ、人々がトイレットペーパーや缶詰、パスタなどを買いに走った結果、スーパーや商店の棚が空っぽになってしまった。
理性では「こんなにたくさん買い込まなくても大丈夫」と分かっていても、恐怖心が理性を吹き飛ばし、買い込んでも買い込んでも不安が消えない。
この心理は株式市場のパニック売りに共通する。「本当に今が売却時なのか?落ち着けばまた値上がりするのではないか?」と半信半疑であるにもかかわらず、冷静に分析する精神的な余裕がなく、周囲に流されて安値で売却してしまう。
米州開発銀行(IDB)研究部門の主任テクニカル・リーダーであり、中南米・カリブ海諸国の経済開発について研究するIDB行動経済学グループのリーダーでもあるカルロス・スカルタシーニ氏いわく、こうした行動は、人が目に入るものや思い出しやすい情報を優先して判断を下す、「利用可能性ヒューリスティック」に該当する。つまり、社会が注目している目の前の可能性に対して、過剰に反応する傾向があるということだ。
また、外出自粛下の大都市でなかなか人出が減らなかったのは、「双曲割引(遠い将来なら待てるが、近い将来ならば待てない)」と呼ばれる意思決定のバイアスに起因するものだ。
習慣を突然変えるのは、簡単なことではない。たとえ自分が外出を控えたとしても、感染者数がすぐに減るわけではない。そこで「遠い将来の大きなご褒美よりも、近い将来の小さなご褒美の方が良い」という非合理的な心理が働き、「明日から実行すれば良い」とついつい飲みに出かけてしまうわけだ。
政策にも取り入れられている「ナッジ(Nudge)」とは?
日本を含め一部の国の政府は、新型コロナ対策のフレームワーク(枠組み)やその他の政策に、積極的に行動経済学を取り入れている。
それは「ナッジ(そっと後押しする)」と呼ばれる手法で、「人々は常に合理的に行動するわけではない」というバイアスを利用し、合理的な選択肢を提示する一方で、非合理的な選択を含む「選択の自由」を与え、強制することなく行動変容を促すことを目的としている。
英国で2015年に実施された、国民年金制度の改革が成功例の一つだ。それまでの完全任意加入型から、自動加入型だがオプトアウト(Opt-out)申請が可能(つまり実質上は任意)な形式に変更したところ、加入率が49%から86%に増加したという。裏を返すと、14%は「加入しない」という選択の自由を行使したことになるが、加入者からは「政府に強制的に加入させられた」という不満が噴き出すことはなかった。
新型コロナ対策では、ソーシャルディスタンスや手洗いの推奨などに利用されている。
ナッジへの過度の依存が、英国での死者を増加させた?
しかし「ナッジは適切に取り入れない限り、ネガティブな結果を招きかねない」との指摘もある。
2010年から行動科学をベースとするナッジを政策指針の一つとして採用し、独自の行動分析チーム(BIT)を設けている英国は、これまで様々な目的で国民に行動を促進する手段としてナッジを利用してきた。
しかし新型コロナ対策に関しては、選択の自由というナッジの特性が、裏目に出た感が強い。同国で新型コロナが拡大し始めた当初、政府は経済的コストや混乱を招くことなくウイルスを制御する意図で、あえて人々に自由を与え、「集団免疫」の形成を目指す政策を打ち出した。
結果的には、同国の600人以上の学者が公開書面で批判している通り、ロックダウンが他国より大幅に遅れたことで、欧州一の死者を出す原因の一つになったと推測される。
世界保健機関(WHO)なども、「パンデミックのような緊急警戒体制下で必要とされるのは、選択の自由ではなく明確な規律である」と、同様の見解を示している。