本記事は、荒川和久氏の著書『知らないとヤバい ソロ社会マーケティングの本質』(ぱる出版)の中から一部を抜粋・編集しています。
エモ消費という概念
エモとは、エモーショナルの略で、わかりやすく言えば「感情消費」と言ったらいいだろうか。感情を消費するのではなく、消費によって自己の感情を満たすということだ。
「エモい」という言葉がある。「何となく心が動いた時に」使う言葉だ。語源としては1980年代から音楽用語のひとつとして使われていた古いものであるが、メディアアーティストの落合陽一さんがツイッターなどで使いだして広まった。落合さんの定義がまた的を射ている。彼によれば、「エモい」とは「ロジカルの対極にあるもの」であり、古語にある「もののあはれ」に近い感情のことを指す。「うまく言葉では表現できないけれどなんかいい」というようなものだ。ちなみに、ネット上では「エモい」とは「えもいわれぬ」という古語の略だという書き込みもあったが、本来の語源ではないが、これもなかなかの解釈である。
つまり、消費の目的が、モノを持つことでも体験することでもなく、自分たちの「精神的な安定や充足」にシフトしていったものがエモ消費なのだ。所有価値でもなければ、体験価値でもない、それらは手段としてのパーツに過ぎず、それを通じて得られる「精神価値」に重心が移行していった。これは、群から個の消費の比重が高まるソロ社会化において重要な視点となる。なぜなら、心の欠落を多く感じているのが、ソロたちだからである。
人間としての根源的な欲求の中には、承認欲求と達成欲求がある。この欲求は、帰属欲求に紐づくもので、仕事のみならず家族生活でも感じられるものだが、ソロには配偶者も子どももいない。家族が得られる「家族によってもたらされる日常的な幸せ」は物理的に感じようがないのだ。あわせて、根強い社会の結婚規範によって、ソロは「結婚していない状態の自分」に欠落感を感じがちでもある。そうした欠落感を払拭するための代償行為が無意識に消費行動において、「承認」や「達成」という心の満足を求める方向へつながっているのである。つまり、彼らが買っているのは、モノでもコトでもなく、それを通じて得られる自分自身の幸せでもあるのだ。
既婚者の中でも「わかる」と感じてしまう人もいるかもしれない。それは、多分「家族がいても疎外感」を感じているからではないだろうか。
エモ消費の特徴は、「何を買うか」という消費対象が先にあるのではなく、自己肯定や精神的充足という「欠落感の穴埋め」欲求が動因として存在し、そのツールとしてモノやコトが機能していくことになる。消費によって「承認」と「達成」という感情の欲求を満たし、その結果生まれる「刹那の社会的帰属感や社会的役割」という精神的充足感を得るのだ。
「モノ消費」とは、所有価値消費である。「コト消費」とは体験価値消費である。「エモ消費」とは、大袈裟に言ってしまえば、自身の「存在価値消費」と言っていいかもしれない。
なぜ彼らがソーシャルゲームの課金をするか、といえば、あれは「疑似出世」に近い。ゲームの中では課金をすればするほど強くなるわけで、強くなれば強くなるほど一緒に遊ぶゲームメンバーの中では、一目置かれる存在になるし、尊敬もされていく。みんなから頼りにされるし、リーダーにもなれるわけだ。たとえ、リアルな世界では出世できていないが、ゲームの世界では課金をすることによって「出世した自分」という立場を手に入れられるのだ。ただし、何事も度が過ぎれば依存症になる。アルコールやギャンブル同様、ゲームやゲーム課金も依存症がある。世界保健機関(WHO)は2019年、病名や症状を示す「国際疾病分類」に「ゲーム障害」を加え、新たな依存症として認定した。あくまで「疑似」的なものであり、1日の間で費やす時間やかけるお金の額を自分で認識した上で続けてもらいたいものである。
もうひとつ、なぜ彼らがアイドルを応援するのか。今までであれば「疑似恋愛」なのではないかという説が唱えられてきたが、確かにそういう側面の当事者もいないことはないだろう。しかし、恋愛というよりももはや子どもを育てているようなものに近いのではないかと思うのである。「疑似子育て」なのだ。まだ無名で、売れていないアイドルの子に、本当に心から売れてほしいということを願って応援する。それが至上の喜びと化しているアイドルオタクは多いはずだ。
2022年11月に、アイドルグループ「ももいろクローバーZ」の高城れにさんがプロ野球の日本ハム・宇佐見真吾捕手と結婚したが、アイドルの応援が「疑似恋愛」なら、そこで終わってしまうだろう。しかし、結婚してもファンであり続ける、応援し続けるというのはまさに「子育て」の領域に近いのではないかと考える。自分の娘が結婚したからといって応援しない親はいない。
そういう意味では、アイドルの応援をすることで、結婚したことも子どもを産んだこともない未婚のソロでも、もう子育てしているような「自己の社会的役割」という「エモさ」を実感しているといえる。だからあんなにお金を払っても、全然もったいないとも思わないのだ。
幸福を買う?
このように、「エモ消費」とは、消費を通じて得られる自己の社会的役割によって、代替えとしての幸福感を買っているようなものなのである。
消費でしか幸福を得られないなんて、なんて寂しい人たちだと思う人がいるかもしれない。しかし、すべからく消費なんてものはそういうものである。何のために、フェラーリなどの高級車を買うのか、何のために何百万円もする腕時計を買うのか、何のためにヴィトンやエルメスのバッグを買うのか。それもまた、消費を通じての幸福の購入に過ぎない。
そういう意味では、「結婚も消費」である。結婚することで自己の社会的役割は明確になる。結婚は夫、妻、父、母になるための手段である。また、子どもを育てることは、経済的な維持コストを必要とするものの、自分の社会的役割をより確かなものにする。以前の皆婚時代は、結婚が人々のそうした欲求を満たす唯一の手段でもあった。貧しい人ほど結婚によって帰属意識と社会的役割を得て精神的充足が得られたものだ。
それが現代では、もはや「結婚は贅沢な消費」と化した。富裕層を中心とした贅沢品消費のようになってしまった。男性にしてみれば、婚活アプリや結婚相談所で一番に確認されるのは自分の年収である。結婚という買い物をするためにまず「年収いくら以上」という壁が用意されているようなものである。
一方で、結婚しても子育てやら何やらでお金がかかる。1回お金を払ったら終わりという消費ではない。いわば絶対解約のできないサブスクのようなもので、家族にとって日々の消費行動は、「結婚消費」の一部として含まれているものである。ソロと家族とでは消費する内容が異なるが、家族の場合、もっともコストがかかるのは「家族の維持」そのものである。
家族の消費は「現状維持消費」で、ソロ消費は「現状変革消費」であると書いたのはそういうことである。同じ「幸福感を買う」のでもOSが違うのである。
「モノ消費からコト消費へ、さらに次なる消費源流が出てきた」という言説は雨後の筍のように多くある。「トキ消費」「ヒト消費」「イミ消費」などというものである。ここでこれらの内容を紹介することは割愛するが、気になった人は検索していただきたい。
しかし、上記どの言説も的は射てはいない。「トキ消費」や「ヒト消費」は対象物が物理的に存在する概念である以上、いわば「モノ消費」の範疇でもあり、「コト消費」の中の一形態であるに過ぎないとしか私には感じられない。提唱したご本人からは異論があるのかもしれないが、私には伝わっていない。
「イミ消費」は、ホットペッパーグルメ外食総研エヴァンジェリストの竹田クニ氏が「変『質』する外食市場~マーケットの読み方と付加価値の磨き方~」と題した講演の中で提唱したもので、その中で「同じ物を買うなら、健康維持、環境保全、地域貢献、他者支援、歴史・文化伝承などが付加されているものに価値を感じるようになる」としてそれを「イミ消費」と言っている。今流行りのパーパス経営にも通じるような内容で、かつ「モノやコトではなく、その背景にあるイミなのだ」という観点では、私の言う「エモ消費」に近いものがあるかもしれない。
が、消費に意味が必要なのか。意味のない買い物はしないのだろうか、という疑問がある。そんなことはない。多くの人が「何でこんなの買ったんだっけ」という消費をしているはずである。しかも、そのわからない消費は決して無駄でも無意味でもない。「エモ消費」とは、意味などなくてもいいのである。「何かよくわかんないけど良いから買う」という、合理性を超越したところにあるものだからだ。
手段が目的化してしまうことはよくあることだ。もっともわかりやすい例は「お金」である。本来「お金を稼ぎたい」という思いは、「稼いだお金があればああいうことしたい、こういうことしたい」という本来の目的のための手段だったはずだ。しかし、ある程度のお金を稼ぐようになると大抵こう思うようになる。「もっとお金を稼ぎたい」と。
お金とはそもそも何かを消費するための単なる共通言語的なものであり、それは使うためにこそあるわけなのだが、ある程度のお金を稼ぐ目標に到達すると、そのお金を使うことより、それを貯めこむことが目的化してしまう。スマホ上の電子通帳のデジタルの数字があがることだけが目的化してしまうようになる。500万貯めたら、次は1,000万、その次は1億と……際限がない。手段が目的化してしまうある種の欲望行動である。もちろん、本人は「私がお金を稼ぐのにはかくかくしかじかの目的があって…」と理屈付けするかもしれない。しかし、その目的は一体いつになったら、もっと言えば、一体いくら貯めたらやるのか? という話だ。
そうした人たちは、お金を稼いで貯まっている間は何ひとつ欠落を感じないだろう。欠落を感じないということは不幸ではないのかもしれない。しかし、果たして彼らは幸福なのか。我々は、人間の行動においては、合理的判断では説明のつかないことが山ほどあるという前提を踏まえないといけない。
広告会社において、数多くの企業のマーケティング戦略立案やクリエイティブ実務を担当した後、「ソロ経済・文化研究所」を立ち上げ独立。ソロ社会論および非婚化する独身生活者研究の第一人者として、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・Webメディアなどに多数出演。韓国、台湾などでも翻訳本が出版されるなど、海外からも注目を集めている。著書に『結婚滅亡』(あさ出版)、『ソロエコノミーの襲来』(ワニブックスPLUS新書)、『超ソロ社会─「独身大国・日本」の衝撃』(PHP新書)、『結婚しない男たち─増え続ける未婚男性「ソロ男」のリアル』『「一人で生きる」が当たり前になる社会』(以上、ディスカヴァー携書)などがある。※画像をクリックするとAmazonに飛びます