この記事は2024年11月19日に「第一生命経済研究所」で公開された「本丸は社会保険の「壁」」を一部編集し、転載したものです。
「年収の壁」の誤解
政治的に「年収の壁」問題が焦点になっている。多くの人と議論していて気づくことがある。簡単に「壁」と称しているが、壁ではないものまで壁だと言われている。ここで壁とは、その境目を超えると途端に手取り収入が極端に減ってしまうケースだ。103万円は本当に壁と言えるのか。
まずは、数値例をみてみよう。年収が104万円になったときの税金はいくらになるだろうか。控除額は103万円だから、課税されるのは1万円(=104万円-103万円)だ。所得税5%が500円(=10,000万円×5%)、住民税が6,000円(所得割10,000円×10%+均等割5,000円)で合計6,500円になる。手取りは1,033,500円になる。年収103万円に比べて年収104万円の方が手取り収入は3,500円ほど増えている。ここでは手取り収入の大きな段差は生じていない。
厳密に言えば、住民税に均等割5,000円がかかるので、完全に段差が生じない訳ではない。年収103.5万円のときは1,029,250円と目減りする。しかし、この逆転は年収1,035,883円以上になれば解消される。だから、壁は事実上ほとんどないと言える。
問題になるのは、本人の課税ではなく、親や配偶者の扶養から外れることだ。親には扶養控除38万円や特定扶養親族の控除(19歳以上23歳未満)63万円などがある。子供の年収が増えると、この所得控除がなくなるから問題なのだ。親は、子供の年収が103万円を超えないように言い含める。ここで「働き控え」が起こる。所得控除を103万円から一気に178万円に引き上げる対応は、少しやり過ぎ感があるので、ひとまずは120万円程度に引き上げるのが妥当だろう。
一方、世帯主の配偶者の場合は、扶養控除ではなく、配偶者控除がある。103万円の年収を超えると、配偶者特別控除を使えば年収150万円まで課税されない。150~201万円までの年収の人は、徐々に配偶者控除の金額が圧縮されていく。手取り収入に段差を作らないためだ。
いずれにしても、年収が150万円を超過しても、手取り収入が逆転するようなことは起こらない。201万円でもそうだ。だから、配偶者控除にも「壁」=手取り収入の段差は発生しない。「150万円の壁」、「201万円の壁」という表記はやや疑問だ。
本丸は社会保険料の壁
本人の手取り収入に大きな段差ができる問題は、むしろ社会保険料の方にある。事業所規模51人以上であれば、年収106万円になると自らが厚生年金保険料・健康保険料を支払わなくてはいけなくなる。厚生年金保険料率は9.15%(労使それぞれ)である。協会けんぽの人ならば健康保険料5%(同)になる。この場合は合計14.15%になる。もしも、年収106万円になれば、一気にこの14.15%がかかってくる。計算すると、保険料負担149,990円(=106万円×14.15%)になり、手取り年収は一気に91万円(=106万円-15万円)程度まで落ち込む。まさしく、ここに崖がある。手取りが年収106万円を超えていくのは、年収が123.5万円以上となってしまう。この段差があるから、「働き控え」が起こる。このデータをみれば、いわゆる「年収の壁」問題は、税の壁よりも、社会保険料の壁の方がずっと大きな問題であることがわかる。
注意すべきは、この社会保険料の壁が配偶者の働き控えにも大きく関与している点だ。社会保険料の方は、今、話題になっている「扶養控除の壁」のみならず、配偶者問題にも絡んでいるのだ。例えば、配偶者控除の適用者が772.2万人もいるのに、配偶者特別控除の適用者は122.2万人しかいない。103万円の壁が配偶者特別控除でなくなっても、実際に配偶者特別控除を使う人が少ないのは、そこに社会保険料の壁がそびえ立つからだ。社会保障制度がスカートの裾を踏んでいるために、配偶者は働きたくても働きにくい環境になっている。「年収の壁」の本丸は、社会保険料の壁なのだ。
これに対して、厚生労働省が検討しているのは、(1)社会保険の加入基準から年収基準などを外すこと、(2)労使折半になっている保険料負担を企業側に大幅にシフトさせるという代替案、である。もっとも、筆者はこの2つには次のような大きな課題があると考える。
緩和に見えても基準強化
従来、106万円の壁に引っかかるのは、①従業員51人以上の事業所であり、②週20時間以上の労働時間、③学生以外、④年収106万円(月収8.8万円)以上、という条件のいずれかに該当する人であった。この条件を②と③に絞り、④の年収基準と①の事業所規模の基準をなくす。一見、年収の壁がなくなってよかったかに思えるが、ポイントは従来の「いずれか」の条件に当てはまれば、社会保険料を自分で負担しなくてもよいという緩い条件がなくなる点だ。見直しで基準は厳しくなってしまう。学生以外で週20時間以上という基準に絞られると、①~④のいずれかに当てはまる現状よりは、必ず厳しくなるということだ。筆者は、「これでは、緩和ではなく実体は強化ではないか!」という声を聞いた。
そうすると、今度は週20時間以内に労働時間を抑えようとする人が多くなることは目に見えている。「働き控え」自体はなくならない。これは、当たり前のことで、基準が厳しくなる分、その基準から逃れたいという人が増えてしまうのだ。厚生労働省の調べでは、週20時間以上で働くパート労働者は360万人(学生以外)とされる。年収106万円未満で従業員50人以下だった200万人程度が、新たな対象者として加わると言われる。かなり多くの人数が労働時間を週20時間未満に引き下げることが心配される。総務省「労働力調査」では、2023年の就業時間が週20~24時間の非正規労働者は15.1%(推計552万人)居るとされる。働き控えが起こるとすれば、その影響はかなり大きいことが推察される。中小企業の労働力不足に拍車をかけることになりかねない。
そのことへの改善策としては、基準を週20時間→週30時間にすれば、相当に条件を緩和できるはずだ。税や社会保険料の壁について議論する政治家の人たちには、こうした細かい点にも気を配ってほしい。
保険料負担の行方
厚生労働省は、社会保険料の壁対策として、年収106~125万円程度までの範囲で、企業側に負担増を求める案があるようだ。これは、パート労働者の手取り収入を減らさないために、106~125万円程度で生じる社会保険料負担を、企業側に負担させるという手法だ。年収125万円の場合、パート本人の社会保険料は17.7万円(=125×14.15%)の負担増で、手取りは125-17.7=107.3万円になる。パート労働者が年収を106万円から125万円程度まで増やしても、そのときに増加する社会保険料を企業側が負担すれば、段差が生じにくいという理屈になる。ただし、企業の社会保険料負担は、労使折半ではなく100%負担になる。案の中では、106万円から金額が125万円程度に増えると、企業の負担率は徐々に100%よりも引き下げていくことを検討しているようだ。いずれにしろ、企業にとっては106~125万円程度のパート労働者を雇うと、負担増になるので、賃上げをすることも嫌がることになるだろう。106万円以上のパート労働者を増やしにくい点について、中小企業の「雇い控え」が起こりはしないだろうか。
厚生労働省はすでに「年収の壁・支援強化パッケージ」を設けて、手当等支給メニュー・労働時間延長メニューを提供している。手当等支給メニューでは、1人当たり助成額を賃金の15%以上を助成した場合は、1年目と2年目は20万円、3年目は18%以上を前提に10万円という条件で支給する対応になっている。厚生年金保険料+健康保険料が14.15%だとすると、それをカバーできる15%以上の賃上げを行って、106万円で▲15万円の負担増が生じても、1・2年目は20万円の助成金をもらって穴埋めすればよいという考え方なのだろう。労使折半の社会保険料を106~125万円程度のパート労働者について、企業側に多く負担させる理由は、この支援パッケージをなるべく使わせたいという思惑もあろう。この対応がうまくワークするには、中小企業に対してこの制度をよく周知される必要がある。
また、労働時間を週20時間未満に抑えるパート労働者が増える懸念についても、支援パッケージの労働時間延長メニューで、1人当たり助成額を30万円と設定している。企業にインセンティブを与えて、防止しようと考えている。こうした困難を回避しようとすれば、週30時間以上に境目を見直す方がずっと摩擦が少ないと感じられる。