株式会社木村建設-2

(この記事は2015年7月3日に「 Biglife21 」掲載されたものです。)

東京都羽村市の株式会社木村建設。土木・建設業として創業したが、元請けの相次ぐ倒産により莫大な借金を抱えてしまう。急激に業績を伸ばしたのは創業から20年弱を経て、産廃業に参入してからだ。苦しい時期も真面目に仕事に打ち込み続けた木村芳信社長。至誠天に通じ、50代でついに成功を手にした同氏の半生を辿る。


自社設計・施工のプラントで急成長

産業廃棄物処分業への参入から20年弱、同社の2014年期の売り上げは16億5000万円。産廃業は粗利が2〜3割と利益率の高い事業であるから、目覚ましい業績だ。木村社長が掲げる「3年後には売り上げ倍増、2020年東京オリンピックまでに借入を完済」という目標も、絵に描いた餅ではなさそうだ。

同社が稼働させている7箇所のプラントは、すべて設計を同氏が手がけ、施工も同社によるものだ。処理設備を地下に潜らせることで振動や騒音の軽減に成功、東日本大震災の揺れでもビクともしない強度も実現した。5〜7メートルを掘り下げる施工はコストもかかるが、安心・安全を重視した地下型プラントは日本で唯一だ。


青森から横浜へ

同氏は青森県南津軽郡藤崎町出身。本家は代々政治家の家系で、当代の木村太郎氏は自由民主党から青森4区で当選7回、第二次安倍内閣では内閣総理大臣補佐を務めた。木村太郎氏の父は青森県知事や衆議院議員を務めた木村守男氏、祖父は衆議院議員の木村文男氏と、その系譜を辿ることができる。

時は木村守男氏の時代。雪の深い青森では、農民は冬になると東京の建設現場に出稼ぎに出るのが一般的だった。しかし、当時の建設業に現在のような安全な技術はなく、地方からの出稼ぎ労働者が犠牲になる生き埋め事故が後を絶たなかった。そんな背景から、出稼ぎを少しでも減らすべく、田んぼのど真ん中に工業団地を作ったのが木村守男氏だ。青森はリンゴ畑と田んぼが多いことから農薬会社が誘致され、そこに応募した若者の中に19歳の木村芳信氏の姿もあった。

中学を卒業後、親戚が経営する自動車工場で修理工として3年間を過ごした同氏。面接の結果、晴れてこの農薬会社に採用となったが、19歳という若さのため、青森勤務ではなく横浜工場での2年間の研修を命じられる。9人兄弟の末っ子ということもあって家族は心配したが、「農薬の製造工程は完全オートメーション化され、人体への影響は全くない」という説明を受けて、それならばと横浜行きを決める。