(本記事は、神田山緑氏の著書『講談で身につく ビジネスに役立つ話術の極意』つた書房、2018年3月26日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

講談の歴史は成功への追体験

講談で身につく ビジネスに役立つ話術の極意
(画像=shigemi okano/Shutterstock.com)

我々講談師は、講談には精通しておりますが、一般的には「講談」というものを知らない方が多いようです。

「講談師の神田山緑です」と電話で受け答えをすると「講談社の方ですか」と言われることがよくあります。

そもそも「講談とは何か?」そこからお話をしていきましょう。講談は、日本の三大話芸、講談・落語・浪曲のひとつです。

「講」は講義をすることであり、「談」は話すこと。

講義を話すこと、つまり今の職業ですと学校の先生であったり、セミナー講師といったようなところです。

関根黙庵著「講談落語今昔譚」によれば、講談の発祥、歴史については諸説ございますが、江戸時代は「講釈(こうしゃく)」と呼ばれておりました。

江戸時代初期・慶長年間に、赤松法印が徳川家康の前で、軍記物「太平記」「源平盛衰記」などをわかりやすく、話の途中途中で「講釈」を入れて読み聞かせたことが始まりといわれております。

面白い話、ためになる話を語る連中を「御伽衆」と呼び、有名なのが豊臣秀吉の家臣で曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)です。ユーモラスな語り口調と頓智で、秀吉を喜ばせました。

この武家出身の御伽衆の流れが講談師となり、町人出身の御伽衆の系列が落語家になったといわれております。

これらの流れを経て、江戸時代初期の大道芸のひとつとして町角に立って講釈をしたことで「辻講釈《つじごうしゃく》」が誕生いたしますが、これが寄席演芸としての講談の直接の原型といわれております。

この「辻講釈」は江戸時代、戦がなくなり生活に窮した浪人らが「太平記読み」などをして、投銭を得たことが始まりだといわれています。

江戸時代中期になると、場所を寄席に移し、「町講釈《まちごうしゃく》」が登場します。

浪人出自の演芸であるため武勇伝・仇討ち・お家騒動・政談の類を得意としていましたが、客層のニーズに合わせて、庶民の生活を描いた受けの良い「世話物」や巷のニュースを講釈するなど、多様化してまいります。

しかし、時の幕府を講釈の中で批判した馬場文耕は処刑されます。それだけ講談の影響力が強かったようで、社会評論家ともいえる講談師が多く登場した時代でもありました。

また今では当たり前である入場料である「木戸銭」と呼ばれる制度を始めたのも、講釈の寄席がはじまりと言われております。

講談の魅力は、なんといってもその目のつけどころと時事性にありました。

巷の事件・噂をいち早く採り入れて講釈したので、講釈の人気演目から多くの歌舞伎・浄瑠璃などの作品が作られるなど他の芸能に多大な影響を与えたといいます。

明治時代以後、講釈は「講談」と呼ばれるようになったそうです。

順風満帆のようにみえる講談の歴史ですが、その凋落《ちょうらく》は急でした。

映画やレビューに圧され、後発の浪花節に人気をさらわれ、日露戦争を境に講談の人気は陰っていきました。

落語家は800人前後いるといわれる現在、講談師は80余人しかいないといわれております。

以上が、簡単ですが、講談の歴史です。

このように講談の歴史をひもとけば、まるで人生のようだと思えます。

生きるための手段として「話術」を用いた先人たちは、その技術を「話芸」にまで高めて収入を得ることに成功します。

木戸銭や高座の整備などを行い、環境を整えて、人気の絶頂も味わいますが、時代の波に圧されて急速な凋落の目にあってしまったわけです。

どんな成功譚でも、成功を保証してくれるわけではありません。

しかし、多くの成功譚を知っているのと知らないのでは、ビジネスチャンスにめぐり合ったときの行動が変わってくることでしょう。

密かな講談ブームがきています。

それは、講談の潜在的な力と魅力に気づく人が増えてきた証左です。

今、再ブーム寸前の講談を知ることは、大きなビジネスチャンスだともいえるかもしれません。

松下幸之助は講談で読み書きを覚えた

経営の神様と呼ばれた松下幸之助さん(1894年~1989年)は、ご存知、パナソニック(旧松下電器)を一代で築いた経営者です。

父親が米相場で失敗したため、小学校を中退し、9歳で丁稚奉公に出されました。

しかし、くじけることなく、多くの経験を糧として商売人としての心得を学んでいきます。

明治43年のことでした。開通した大阪の市電が電気で走るのを見て電気事業の将来性を感じとり電気の世界へ第一歩を踏み出したといいます。

大正6年、手元資金わずか95円で独立します。最初はまったくの家内制手工業。

大正7年、本格的に電気器具製造・販売に着手するため「松下電気器具製作所」を創業し、そこからの成功と活躍は、日本国民が知るところとなりました。

その「経営の神様」として国内外でその功績が語りつがれている松下幸之助さんと、講談の関係がこれまた深いんです。

幸之助さんは、お父さんが米相場で失敗したから奉公に出された、ということは、働くことが優先で勉強なんてできる状態ではありませんでした。

そんなとき、巷で流行りに流行っていた講談本を読んで、読み書きを覚えたといいます。

と申しますのも、当時の講談本にはすべての漢字にルビが振ってありました。難しい漢字もやさしい漢字も、それで読めたわけです。

しかも、そこに書かれた物語は血肉沸き踊る軍記物。いつか自分もと思わせてくれる数々の成功譚が面白くないはずがありません。

幸之助少年は、夢中になって読みながら文字を覚えていったことでしょう。

教科書を夢中になって読んだこと、あります?ないですよね。

教科書に書いてあること、今でも憶えてます?

ほとんどないですよね。

今時の若い人は歴史を知らないと言う人がいますけど、何も若い人に限ったことじゃないんです。いい年した人だって、歴史を知らない人のほうが多かったりします。

でも、教科書にはひと通りのことが書いてあるんですよ。なのに、知らないって言われてしまうんです。

松下幸之助さんは講談で学んだことを後に社員教育に活かしているんですが、その一番は何かと申しますと「物語」なんですね。

松下幸之助さんが講演・講話をされるときのパターンというものがあって、まず講談ネタから入って話を広げるという方法です。

このとき講談ネタを使い、意識せずに講談の話術を用いています。松下幸之助さんの講演は講談ほどではないにせよ、メリハリを効かせて軽やかに進められます。

話術にはリズムが大切ということを、講談そのものから学ばれた結果です。

「物語」=ストーリーを使うと、話がすっと心に入ってくる。

心に入るということは、印象が深いということで、印象が深くなれば、そのことを忘れないでいられるわけです。

また、松下幸之助さんは身体があまり丈夫ではございませんでした。

身体を張って何かをするというより、言葉を巧みに操って社員の心をつかんでいきました。

それは「人たらし」と呼ばれた豊臣秀吉の「太閤記」を読んで学んだといいます。

講談で身につく ビジネスに役立つ話術の極意
神田山緑(かんださんりょく)
講談師、東洋大学・清泉女子大学・文教大学特別講師、日本話道家協会会長、中野区観光大使。東京都日本橋人形町出身。敬愛大学卒業後、トヨタ自動車の販売店に入社。営業マンとして新人賞を受賞。退社後、健康食品会社を立ち上げ、商品説明の話術の勉強に日本話し方センター副所長の山越幸氏に師事。その縁で神田すみれ講談教室に学び、講談の魅力に取りつかれ平成17年神田すみれに入門、講談師の道を目指す。講談協会理事のお認めを頂き平成30年3月真打昇進予定。 ※画像をクリックするとAmazonに飛びます