(本記事は、甲斐かおりの著書『ほどよい量をつくる(しごとのわ)』インプレス2019年9月25日刊の中から一部を抜粋・編集しています)
欲しいものがわからない
たとえば、家にあるガラスのコップ1つ。誰の手で、どこでどんなふうにつくられたものか、答えられる人はいるだろうか。今朝食べたパン、今着ているシャツは?
私はといえば、ほとんどわからない。今着ているシャツも近所の洋品店で買った安物だし、パンはかろうじて向かいのパン屋で焼いているが原料まではわからない。身の回りにあるモノのことを知らなくて、それでも平気で食べたり身につけたりしている。
量産化のもたらした弊害の1つは、ものづくりのプロセスが見えなくなったことだろう。
昭和30年代まで、日本人は何でも自分でつくっていた。米や野菜、豆、お茶などの食料はもちろんのこと、生活道具も木や竹を編んでつくった。そう遠くないご先祖、私たちのおばあちゃんやひいおばあちゃんの時代には、衣服も麻や綿から糸を紡ぎ布にして織っていたし、家も裏山の木材を切り出し、大工さんと一緒になって建てた。つまり、身の回りにある、たいていのモノの成り立ちを知っていたのである。
店頭に並ぶ既成品を買うようになって、そうしたモノのできるプロセスが見えなくなった。魚が切り身の状態で海を泳いでいると信じていた子どもがいたと聞いたが、けして笑えない。
そして店に並ぶ情報だけでモノを選ぶのは案外難しい。
「私、食べ物にはちょっとうるさくて、添加物の類は裏面をよく見て買うわ」という人もいるかもしれない。私もまた、遺伝子組み換えや有機栽培などの表示を見て選んだりもする。それでも制度にはカラクリがあって、有機でも特定の農薬ならOKだとか、遺伝子組み換えも重量に占める割合が5パーセント未満であれば表示義務がないなどと言われれば、もう何を信用していいかわからない。
コップ1つとっても、店にあるコップが隣のものとどう違うのか。値段とデザイン以外にさっぱり決め手がないのである。
ある雑誌によれば、買い物で商品を選ぶのが「面倒」と感じている人は2人に1人もいるそうだ。若い人ほどその傾向は強い。
「ほしいものが、ほしいわ。」という糸井重里さんの有名な80年代のコピーがあるが、今もまた同じく「欲しいものが欲しい」、もしくは「欲しいものはこれ以上いらない」といった状況なのかもしれない。
店頭に並ぶモノの向こうには何も見えない。似たようなのっぺらぼうのモノを前にして、欲しいと思う動機は生まれにくい。
プロセスを知って気づく価値
そこで今、ものづくりや農業の現場では、生産の環境やプロセスをオープンにして、お客さんに直接見てもらおうとする動きが増えている。欲しいと思ってもらうための1つの鍵は、〝見せる〞ことや〝体験してもらう〞ことにあるようだ。
たとえば、工場を見学できる「オープンファクトリー」。田畑を訪れ農作業を手伝う農業体験。生産コストや利益を公開しているアパレルブランドもある。
ものを買う行為がブラックボックス化した世界を確かめ直すことにもなり、驚きがあり楽しくもある。ああこの商品はこうやってできているのか、こうつくられているからこんなにおいしいんだ、肌触りがいいのはこのためだ。そんな腑に落ちる経験が心に残る。
そうして買うものには、安心感がある。買うなら少しでも噓なくまっとうにつくられたものを買いたい。そう考える人が増えているように思う。
さらに言えば、ものの成り立ちを知らないとは、その価値をわからないことでもある。
富山県高岡市で、伝統工芸品や生活雑貨のセレクトショップを営むオーナーが教えてくれたことがある。お客さん自身がものづくりのプロセスを体験することで、その価値に対する意識が大きく変わるという話だった。
高岡は鋳物や銅器、漆器などの産地。この店でも「おりん」と呼ばれる澄んだ音色の美しい鈴や鋳物などの品を置いていた。
「でも値段を見て買うのをやめてしまうお客さんが多かったんです。職人がつくる製品は手もかかるので、小さな錫のぐい呑が3600円する。それが高いと思われてしまうんです」
そこで始めたのが、体験型のワークショップだった。参加者は特殊な砂を押し固めて型をつくり、溶かした錫を流し込みぐい呑をつくる。簡易的な体験だが、自分でやってみて初めて、プロの技術、売られているものの質の高さに気づく。これでは安すぎるのではと言う人も現れた。
価値がわかれば、多少値が張ってもそちらを選ぶ人も出てくる。価格と機能性だけではない魅力をどう知ってもらうか、その1つの試みでもある。