(本記事は、小林昌平氏の著書『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』文響社の中から一部を抜粋・編集しています)
思い出したくない過去がフラッシュバックする
人生に失敗はつきものです。
周囲に「私は○○になる!」と堂々と宣言したことがあえなく挫折してしまったり。面白がらせようと思いきって大勢の前で発言したのに全然反応がなかったり。想いつづけた人と距離を縮めようとして、かえって嫌われてしまったり。
そうした瞬間の記憶がふとしたとき甦り、こみあげる胃液のように当時のにがい気持ちを反芻しては、叫びたくなるほどの後悔に襲われる。月日が経過したことでも、生々しい実感とともに思い出し、後悔を引きずってしまう。人生に積極果敢にチャレンジしている人ほど、そうした痛い経験があるのではないでしょうか。
歳を重ねるにつれ分別もついて、手痛い失敗を恐れて傍観者をきどり、危ういことには手を出さない、現状維持的な、身の丈に合った生き方におちついてゆくものです。しかし、「失敗をおそれず果敢にチャレンジしつづける人」と、どちらが「力のかぎり精一杯生きた」といえるでしょうか。
19世紀を代表する哲学者フリードリヒ・ニーチェは、前者の「君子危うきに近寄らず」のような、賢く理性的な生きかたを「アポロン的な生」と呼び、後者のような喜びも苦しみもある、振れ幅の大きい、自分の背負った運命に翻弄される生きかたを「ディオニュソス的な生」と呼びました。
そしてソフォクレスやアイスキュロスらの「ギリシャ悲劇」を両者の結合した芸術としてとらえ、充実した人生のモデルとして賛美しました(『悲劇の誕生』)。
ディオニュソス的な人生においては、欲望に忠実に生きているうちに、さまざまな体験にぶつかれば必ず不幸も生まれます。しかし、同じだけいいことも、幸福だと思うことも生まれます。
それは生というものがぐるぐると円環していて、幸せで楽しい体験も、思い出したくもない失敗の体験も、同じように因縁でつなぎ合わされて、めぐりめぐっているからなのだ、とニーチェは言います。
そう悟ったときに人は、「いいことと悪いことの途方もない繰り返し」としての人生に絶望するかもしれないし、「不幸だけはもう二度とこないでくれ」と思うかもしれません。
だけど、もし私たちがある夜、自分には無理だと思っていた素敵な恋人と結ばれたとか、思いがけない仕事での成功や称賛を受けたりして、「この幸福がずっと続けばなぁ、ああこの瞬間よ、また来てほしい!」と思ったとしたら──すべての出来事は、環わっかのように因果でつながっているのだから、また再び起きるだろう不幸の体験に対しても、「しょうがない、また来い!」と言っていることになるのだよ、とニーチェは説きました。
これが「永劫回帰」の思想です。不幸な体験がなければ、いい思い出もないわけで、両方があるから人生はつらくそして楽しい。その振れ幅の大きい人生をこそ愛し、楽しめ!というわけです。
そういう浮き沈みある、おもしろいけどつらい人生への無条件の肯定のことをニーチェは「運命愛」と言い、ニーチェが最終的に到達した「超人」の条件としたわけですが、ではどんなに不条理としか言いようのない、むごたらしい悲惨な運命でも愛せるか?ということが問題になるわけです。
愛せる、とニーチェは言います。不幸な体験こそ、ある場合には幸福な体験以上に財産に変わるのであると。
失恋や失業、人に裏切られた経験、自分の力ではどうにもならなかった災害や事故の体験、酔ってやらかした大失敗、仕事の手痛いミスの思い出はその最中にあるときはただ、つらい。自分が悪いとしかいいようのない若気の至りは、思い出すだに恥ずかしい。
しかし、それをなんとかやりすごし、乗りこえてみて、のちに過去としてそのときを振り返ってみたならば、ただよかった、あるいは楽しかっただけの経験よりも、そのことがあったから、いま、がんばろうという気持ちになれている。
なにくそ、やってやるぞと思えている。そう、人生をふりかえったときにつらい記憶は今を生きる私たちになつかしい潤いを与え、またこれから頑張ってやろうと思えるガソリンになったりするのです。
- ニーチェが出した答え
- 苦痛に対しても
そなたたちは語るがよい、
過ぎ去れ、しかし帰って来い!と
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