(本記事は、小林昌平氏の著書『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』文響社の中から一部を抜粋・編集しています)
嫌いな上司がいる。上司とうまくいっていない
17世紀のオランダの哲学者・スピノザは人がどうしたら幸福になれるかについて、こう考えました。
「人間が人や世界を恨んだりするのは、人や世界が『自由意志』を持っていると考えてしまうからだ」。
「自由意志」とは、読んで字のごとく、「自分の意志でもって、自分の行動を何とかしようとコントロールできる意志」のことです。
私たちは嫌みをいう上司に対して、つい、「なんであの野郎、もっと人が気持ちよく動けるような言い方でいえないんだろう?」などと考えてしまうわけですが、スピノザはその上司を含めて、 だれも、自分で自分を変えることはできない、と言っています。つまり「自由な意志」などというものはないのだと。
嫌みを言うのも、部下の手柄を自分の手柄にしてしまうのも、自分の失敗を部下に押しつけるのも同じ。すべては彼を生んだ家族や育った環境や背景や入社後の経歴その他、彼と彼をとりまく世界によって決まっているのだというのです。
精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことやあのことを意志するように、原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。(『エチカ』)
誰かを恨んだり、嘲笑したり、嘆いたり、愚痴ったり、呪ったりするのは、その嫌いな相手が、私が考えるように、行動を変えられると考えてしまうからです。
しかし、それはその人の出自や生まれ育ちやコンプレックスや抱えているものの因果関係で決まっており、変えることができないのです。
起こることすべては必然であり、最初から決まってしまっている。
ふたたび、あの上司は嫌なことを言うだろう。言わなくてもいいことを言うだろう。
でもそう考えると実は、楽になれる。安らぎと幸福が与えられる、とスピノザは言います。「理解」することによって、彼のことをあきらめて、ゆるす気持ちがわいてくるのです。
スピノザが生きた時代は、神様なしでは何も考えられなかった時代です。同時に、神ありきでものごとを考えることは、不自由なことでした。
当時の哲学者による書物には、かならず神のことがふれられていて、すべてを疑ってかかったデカルトでさえも、神の存在は絶対であるとしています(時代的にそうせざるを得なかったという事情があるのですが)。
スピノザも一見、その例外ではなく、本の中でしきりに「神」という言葉を持ち出すのですが、どちらかといえば無神論者でした。
スピノザの言う「神」というのは「オー・マイ・ゴッド!」と言ったりするときの実体的な「ゴッド(神)」ではなくて、神のいない「世界」や「自然」全体なのです。すべては世界や自然によって決まっている。それがスピノザの「神」でした(「汎神論」といいます)。
神の存在が絶対で当たり前の時代に、スピノザはなぜ、世界を(一神教的な)神やキリスト教なしで考えることができたのでしょうか。
彼はかぎりなくゼロからものごとを考えられる人でした。
キリスト教が、キリスト以後の人たちによって、金もうけや戦争、殺人を正当化する思想的な手段になっていることを見抜いていました。そのことで彼はユダヤ教から異端視され、破門されます。
スピノザは匿名で聖書を批判的に検討した本を出版しますが(『神学・政治論』)、スピノザの著作ということがばれ、親しかった政治家が虐殺されると、命の危険を感じながら亡命のような一生を送ります。
スピノザは裕福な生まれの高潔な人物でした。自分が属するユダヤ人のコミュニティが大事にする「富」や「お金」と縁を切り、さらにはお金持ちの親からの遺産相続も、一流大学の教授の誘いすらも断って、「お金がなくても自由にのびのびと考えられる環境」を求めて、有力者に庇護を頼んだり、転居を繰り返したりしました。
富裕な生まれだからこそ、経済的な富や政治的な地位に対するクールな視線をもっていたのです。
遺産相続も大学の職も辞して、スピノザが何を生活の糧にしていたかというと、「レンズ磨き」という内職をもっていたと伝えられます。このこととスピノザの哲学は深く関係しています。
宗教が「よりよく世界を変えよう」といっては敵対と欲望の果てに戦争したり、お金儲けに走ったりしている現実にスピノザはうんざりしていて、とにかく正確に世界を見るレンズを求めていたのです。
レンズというのは、世界を解するもので、世界を変えるものではない。しかし、ちょうどピントのあったレンズのように、世界をクリアに解することが、どれだけ心の健康と平和にいいかということをわかっていたのでしょう。
まさにレンズのような哲学をスピノザは追求したのです。
主著『エチカ』はそのようなクリアさへの意志に満ちみちています。若いころから数十年にわたって書きつづけたものの、ついに生前出版されなかったことからも彼が、世の中を変えようという欲望を持っていなかった、ただ世界をより正しく理解する方法を磨き上げたかったという動機がうかがえます。
スピノザの哲学は「嫌いな上司」のような人に対してだけでなく、ひとりの人間が世を渡っていく上でぶつかる困難すべてに対しても、まったく同じように「理解」する態度でいることを説きます。
人間のできることはきわめて制限されていて、外部の原因の力によって無限に凌駕される[…]。だが、たとえ我々の利益への考慮の要求するものと反するような出来事に遭遇しても[…]、我々の有する力はそれを避けうるところまで至りえなかったこと、我々は単に全自然の一部であってその秩序に従わねばならぬこと、そうしたことを意識するかぎり、平気でそれに耐えるであろう。(『エチカ』)
決められた運命を変えるような強い意志も能力も、人間は持ちあわせてはいない。ほかの動物や木や石と同じように。だけどそう考えれば、あきらめ、うけいれることができるのではないだろうか。
スピノザは「理解」する哲学であり、「うけいれる」哲学なのです。
スピノザ哲学のこの悟りの境地は、現代のストレス社会を生きる私たちにとっても有用な、「現代の聖書」のような効果をもたらしてくれます。
明日再び、その嫌な上司と会うでしょう。彼はまた人望を失うようなことを平気で言うかもしれません。モチベーションを下げるような言動をいけしゃあしゃあとするかもしれない。
しかしあなたは彼のそんな言葉を、彼がそんな言葉を言うに至った経緯や人生やその他すべての世界のあらわれとして、理解してあげられる、そのことであなた自身が、魂の平安を得られるということなのです。
- スピノザが出した答え
- 嘲笑せず、
嘆かず、
呪わず、
ただ理解する
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