(本記事は、小林昌平氏の著書『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』文響社の中から一部を抜粋・編集しています)

ダニエル・カーネマン 1934-
アメリカの認知心理学者。知の巨人サイモンの理論を発展させ、行動経済学を確立。経済学の合理的人間像を覆した。盟友トベルスキーとの「世界を変えた友情」を『マネー・ボール』の著者が描く『The Undoing Project』は米大学生の最新必読書。

人生の選択に迫られている

人生の選択
(画像=Brian A Jackson/Shutterstock.com)

人生は難しい選択の連続です。

キャリアか結婚か。結婚するならあの人かこの人か。サラリーマンか独立か。起業の誘いに乗るか乗らないか。安定か夢か。自力で生活することが困難になった両親を、自分で介護するか、他人に介護してもらうか。自分ががんにかかって、抗がん剤を使うか使わないか、手術をするかしないか。

人生の決断以外にも、日々の無数の決断が目の前に迫ってきます。あの件を上司に報告するかしないか。昼ごはんをどこで食べるか。上司のご機嫌とりに飲みに連れ出すか、家族との時間を優先してまっすぐ帰宅するか。

人生の選択は、ちょっとしたことから重いことまで、どんな場面でも難しい。多かれ少なかれ、苦渋を伴います。その時、何か支えになるような、理論的な指針のようなものはないのでしょうか。

「これを選べ!」というような積極的なものでないにせよ、「消極的な指針」といったものは存在します。

哲学と関心の近い学問にもふれておくことが深い人間理解や悩みの緩和に役立つことは前にのべた通りですが、認知科学をベースに行動経済学という新しい学問を確立したカーネマンの「プロスペクト理論」がそれです。

最初にこの理論の結論を言ってしまうと、「人間は合理的な判断ができない」ということです。実験によってカーネマンはこのことを実証しています。

たとえば今、目の前に二つのドアがあると想像してください。

ドアaを開けると【80%の確率で40万円をもらえる】とし、ドアbを開けると【100%の確率で30万円をもらえる】とします。この場合、どちらを選ぶかという実験です。

さて、あなたならどちらを選ぶでしょうか?(本当にシンプルな実験なので、ちょっとご自分で考えてみてください)

実験の結果、多くの人がドアbを選んだそうです。

でも、数学における「期待値(=得られる可能性のある値×その確率)」でいえば、どちらの選択肢が合理的でしょうか。ドアaの32万(=40万×80%)に対し、ドアbの利益は30万(=30万×100%)と、期待値は実はドアaの方が高いのです。

それでは、ドアaを開けると【80%の確率で40万円損をする】、ドアbを開けると【100%の確率で30万円損をする】だと、どうでしょうか。

今度は、ドアaを選んだ人の方が多かったのです。

これも「期待値」で検証してみると、ドアaは32万(=40万×80%)の損失であるのに対し、ドアbは30万(=30万×100%)の損失と、ドアbの方が数学的には損失が少ない選択肢です。にもかかわらず、ドアaを選ぶ人が多いという結果が出たのです。みなさんの選択もそうではなかったでしょうか?

このことからカーネマンは、人間は「利益についてはより確実な選択肢を選ぶ傾向があり、損失についてはリスクをとってギャンブル的な選択肢を選ぶ傾向がある」という結論をみちびいています。

「期待値」が合理的な選択基準だとして、人はなぜそれとは異なる選択肢を選んでしまうのでしょうか。

カーネマンは「人間は『損失の苦しみ』をより気にしてしまう」という指摘をしています。

利益と損失が同額であった場合、同じ額の利益を得る喜びよりも損失は2.25倍苦しみを強く感じるというデータがあります。

「逃がした魚は大きい」という諺は、そこからきているのでしょう。人間は損をしたくなを得るまでい感情的な生きものであり、損することの苦しみを避けるがために(損をすまいとして)、時につい合理的ではない選択をしてしまうのです。

「プロスペクト理論」以外にも、人間が合理的な判断ができないことの傍証を挙げることができます。

コロンビア大学で「選択の心理学」を専門とするシーナ・アイエンガー教授の実験です。食料品店の試食コーナーに、24種類のジャムと6種類のジャムを並べた場合を比較します。6種類そろえたときは試食客の40%が買ったのに対し、24種類並べた場合だと試食客の3%しか買わないという実験データが得られたのです(『選択の科学』)。

この実験からわかることは、人は選択肢が多ければ多いほど自由が増すように見えて、実は選択できなくなってしまう、選ぶこと自体を放棄してしまう傾向にあるということです(これを「選択麻痺」といいます)。

選択した後のことを追跡したデータもあります。早産で障害を持ち、死亡確率40%、生存確率60%(ただし生存できても植物状態)の赤ちゃんに、延命治療を続けるか死なせてあげるか、という重い選択です。

こういう場合、アメリカでは通常、親が決めなくてはならないのに対し、フランスでは親の異議申し立てがないかぎり、医師が決めることが通例です。その後を見ると、フランスの親は総じて医 師を責めない傾向であるのに対し、アメリカの親は自分で決断したために罪悪感を引きずってしまう傾向にあることが報告されています。

自分で物事を決めてしまうと、その決断をひきずってしまい、その決断にその後の人生がとらわれてしまう傾向があるということです。

身近な例でも、たとえば大学や会社に、何年か通ってみてどうも合わないことが明らかであるとします。にもかかわらず、自分が選んだ進路なのだからと、心身を病んでもそれでもやめられないというケースはないでしょうか。

これは自分が決めたことの「一貫性」に縛られているのです。それでは、人生が有限であるにもかかわらず、損失にしがみつくようなもので、人生レベルでの非合理ということになってしまいます。

もし、何もかも「自分が選択することは主体的で立派なこと」という社会通念があるのだとすれば、それは行動経済学や選択の心理学に見るように、その局面自体が合理的とはいえないこともあるのです。

人は合理的な判断をすることが難しいだけではなく、選択肢が増えると判断自体ができなくなることも証明されていました。選択をすることはやはり難しいことなのです。人はそんなにやすやすと決断をできるわけがないし、時に優柔不断にならざるを得ないときもある。

それなのに決断を迫られるというのは、酷なことかもしれません。決めることが非合理な結果を生むのなら、決めることを迫られるのも非合理だ、というのは甘い考えでしょうか。いえ、決してそうではありません。

人生の指針として「できるだけ自分で選択しないように心がけよ」とアドバイスする学者もいるほどです。どちらか一方を選択できそうにない場合には、どちらも生かせるのならばそれに越したことはないケースも少なくないのです。

そうはいっても現実には、どちらかの選択肢に決めなくてはならない場合が多いでしょう。

ビジネス上の判断であれば、「こういう時はこう」と定石化できる場合も多く、実務で場数を踏めば的確な判断をできるようになるかもしれません。しかし、人生の一大決断となると、話はちがいます。そのとき、まだ納得しきっていない段階で、「えいや!」と直感で選択するのは禁物です。

「以前はこう選択して後悔したから、今度はその反対をやれば大丈夫」などと勝手に自分で「選択の歴史」を作ることもまた危険でしょう。

選択肢の先にまだわからない、もやもやしたところがあるなら、そこがクリアになるまで、判断を保留することが重要です。最後の最後の最後で決めること。フランスの親のように、場合によっては判断を他者にまかせることもひとつの方法です。

もっと言えば「いくつかの選択肢が向こうから出払ってから考えてもムダではない」のです。

なぜなら。人間が自分で決めることには限界があり、常に非合理の危険が伴うからです。「パッと決断するのがかっこいいのだ」という「空気」や社会通念にあらがい、その場では優柔不断ととられたとしても、できない判断は保留すること。

カーネマンはシステム1の思考(直感で即決する思考)だけでなく、システム2の思考が大事だと説きました。AかBかの二者択一を迫られても、それで納得できないならば、あきらめずに粘って自分に合うCやDといった答えを探すこともまた、悔いなく生きる道ではないでしょうか。

カーネマンが出した答え
人が下す判断の中には、
直感が犯しがちな
エラーの痕跡が見られる
その悩み、哲学者がすでに答えを出しています
小林昌平(こばやし・しょうへい)
1976年生まれ。慶応義塾大学法学部卒業。専攻は哲学・美学。著書『ウケる技術』(共著、新潮文庫)は20万部のロングセラーとなり、東京大学i.schoolでのワークショップの教材となるなど、その後のビジネス書に大きな影響を与えた。大手企業に主任研究員として勤務する傍ら、学会招待講演、慶応義塾大学ゼミ講師も務める。テーマは人文科学の知見をビジネスに活用する “ Humanities on Industry(HoI)"。

※画像をクリックするとAmazonに飛びます