(本記事は、ローレンス・レビー氏の著書『PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』文響社の中から一部を抜粋・編集しています)

秘密
(画像=PIXTA)

いつ株式を公開するか

我々の計画で要となるのが資金の調達、莫大な資金の調達である。映画の制作費用を自前でまかない、利益の取り分を増やすには、それしか方法がない。そして、ピクサーのように小さな会社がそれほどの資金を調達する方法は、株式の公開しかない。銀行など一般的な方法で調達するには多すぎるし、ピクサーの実績からリスクが大きすぎるとして話さえ聞いてもらえないはずだからだ。

新規株式公開やIPOと呼ばれるものは、シリコンバレーにおいて、あらゆる願いをかなえてくれる聖杯だと言える。報酬を受けとる日、目標達成の日、単なる紙切れだったものが本物に転じる日なのだ。シリコンバレーのスタートアップは、みな、いつの日か株式を公開したいと夢見ている。だが、実現できるのはごくわずかだ。実現できない場合、ごく一部は大会社に買収され、それより少ない数がかつかつで存続する。残りは倒産だ。そうなるのは、自立できるようになるまで何年もかかるのが普通だからだ。追加投資を継続的に得られなければ、その前に資金が尽きてしまう。

株式の公開とは、社員にとって、富と成功が現実になることを意味する。だから、シリコンバレーでは、みな、基本的にIPOをめざすのだ。だが、有名なサンドヒルロードにずらりと並ぶベンチャーキャピタルに支えられ、次々と生まれるスタートアップのうち、株式非公開から公開へと変態できるのはごくわずかにすぎない。

会社を所有する仕組みが株券と呼ばれる書類だ。その書類1枚が会社の一定割合に相当する。所有権をいくつに分割するのかは、会社が自由に決められる。たとえば100株に分割するなら、1株は会社の百分の一、1%に相当する。1000株なら千分の一、0.1%だ。ウォルト・ディズニー社は10億株以上に分割されているので、1株はごくごくわずかとなる。この株はだれでも持つことができる。ピクサー株の大半はスティーブが持っている。ストックオプション用に取り置いてある分以外はスティーブの所有なのだ。また、オプションが行使されても、大半がスティーブの所有であることは変わらない。

株には、非公開のものと公開のものがある。ほとんどの会社は非公開で、だれでも買える状態になっていない。市場で売り買いされていないのだ。これがピクサーの現状である。スティーブに頼んで売ってもらう以外、ピクサーの株を手に入れる方法はない。逆に、スティーブが望んでも、市場で株を売ることはできない。

対して、株を自由に売り買いできるのが公開企業だ。ニューヨーク株式市場やNASDAQなど、そのための市場も用意されている。公開企業の株は、だれでも売買できる。買いたい人が多ければ株価は上がるし、売りたい人が多ければ株価は下がる。

会社の株を初めて一般に売り出すことを新規株式公開とかIPOと呼ぶ。その瞬間からだれでも売買できるようになる。すなわち、公開会社となるのだ。

会社にとってIPOとは、燃料を満載したロケットブースターのようなものだ。ピクサーにとっては、もっと切実な意味があった。社員にストックオプションを付与したが、予想どおり、少なすぎるという不満が社内に充満していた。その不満を解消するには、株価をできるだけ高くする必要がある。つまり、大成功のIPOにしなければならないのだ。

スティーブにとって大きな意味があることも、プレッシャーとなっていた。アップルから追放されて以来、10年間さまよっていた荒野からの帰還なのだ。彼の救済を意味する出来事がなにかあるとしたら、ピクサーのIPOしかないだろう。復活をこれ以上はっきりと示すものはあり得ない。だから、この話をするたび、彼は、これ以上ないくらい力を込めて熱く語るのだ。

「ここしばらく、ピクサーの株式公開について考えているんだけど……」

1995年8月初旬、例によって夜の電話で話をしているときのことだ。

「これは前代未聞だよ? シリコンバレー史上最高にホットなIPOになるだろう。歴史に残るような、ね。しかもテクノロジーの歴史だけでなく、エンターテイメントの歴史にも残るようなヤツだ」

「ちょっとやそっとじゃ、ピクサーの事業を投資家に理解してもらえませんよ? 大変な説明が必要になります」

「んなこたないさ」

むっとした雰囲気が伝わってくる。

「投資家は賢いよ? 型破りなビジネスモデルの経験だってあるし」

そのとおりだ。問題はその経験がいいものじゃないって点だ。前の会社エレクトロニクス・フォー・イメージングのIPOで学んだのだが、投資家というのは確実性と安定性を好み、逆に、いつなにが起きるのかわからないことを最も嫌う。そして、ピクサーの将来について確かなことや安定していることなどなにもない。映画の興行成績は予測不可能だし、映画の公開スケジュールは、控 えめに言っても当てにならない。『トイ・ストーリー』の次は、早くて3年後なのだ。業績予想など、まっとうにできるはずがない。型破りなビジネスモデルだから投資家に受け入れてもらえないとまでは言わないが、それがプラスに働くとは思えない。

私はずっと法律と経営を仕事にしてきたわけだが、その経験から、IPOほど難しく、リスクが大きいものはないと思っている。戦略、財政状態、法律、市場環境がぴったりかみ合う奇跡のようなことが起きないと実現できない。IPOというのは、大昔から難しいと言われているのだ。ちなみに、その起源は400年近く前、なんと、ナツメグにさかのぼる。

20世紀の武器はイノベーションだが、17世紀にはナツメグやメース、クローブ、シナモン、コショウ、ショウガといったスパイスだった。スパイスは欧州で珍重され、食品の保存用、医薬品や媚薬の原料、王侯貴族への献上品、さらには、取引の対価としても使われていたが、すべて、遠い国から輸入されていた。たとえば、バンダ海に並ぶ小さな火山島、バンダ諸島。当時、ナツメグの木があるのは世界でここだけだった。往復は船で2年もかかったりする。このような遠征が確実に行われるようにと、各国政府は一部の貿易会社に独占権を認めていた。

株式市場
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そのような会社のひとつが1602年創業のオランダ東インド会社である。ここは、香料諸島とも呼ばれるモルッカ諸島を圧倒的な力で支配し、初の多国籍企業として世界一の力と富を持つ会社になった。200年近くも貿易の世界を支配したのだ。このオランダ東インド会社が、1604年、株を投資家に販売した。いま、IPOと呼ばれているものの先駆けで、これで航海の資金を得たのである。株が売買できるようにと、近代的な株式市場を初めて作ったのもオランダ東インド会社だ(アムステルダム証券取引所である)。ここでオランダ東インド会社の株を買い、その船が戻ってくるのを待ってくれというわけだ。

会社の所有権を関係のない不特定多数に売るという方法は、諸刃(もろは)の剣である。メリットは、ほかのやり方では不可能なほどの資金を集められること。それこそ、アニメーション映画の制作費用として1億ドルを集めることも、理論的には可能である。だが、疑うことを知らない一般人から資金を集められるということは、不正が働けるというデメリットもある。実際、このデメリットで世界は大変な経験をしている。

オランダ東インド会社を例に考えてみよう。船団が数カ月後に戻ってくるとき、異国のスパイスを山のように積んでいるか、それとも、積み荷をすべて海賊に奪われているかをあらかじめ知る術はない。それこそ、海賊の被害にあったと会社側は知っていても、それを知らない人に高値で会社の株を買ってもらおうとその情報を伏せておくといったことも考えられる。いま、インサイダー取引と呼ばれているもので、これは香辛料貿易の時代からあるのだ。

オランダ東インド会社の株が公開されたあと、しばらくは、株取引にまつわるスキャンダルや不正で経済全体が揺らぐことはなかった。お金に余裕のある一部の人しか投資などできなかったからだ。だが、1920年代、状況が根本的に変わる。

第1次世界大戦後の好景気により、米国では中産階級が増え、株式投資がかつてない規模で普及した。そのため、1929年の大暴落とその後の経済的混乱は広い範囲で猛威を振るう結果となり、何百万人もの国民が大きな痛手をこうむった。国全体が何年も深刻な不況に見舞われたのだ。このようなことの再発を防ぐため、米国議会は、広く国民から資金を集めたいと考える会社を規制する法律を制定。そして、米証券取引委員会(SEC)が目を光らせるようになった。株式を公開しようとするピクサーも、この法律に従わなければならないわけだ。

いまの証券法では、意思決定に必要な正しい情報が等しく与えられていることを条件に、投資の意思決定は投資家がみずから下すものとされている。知る者と知らざる者がいる世界は終わった。株式を公開したいのなら、ピクサーは、その事業を詳しく記述し、公開しなければならない。株式公開企業はすべてがガラス張り。なにも隠せない。なにも、だ。事業の細かな点にいたるまで、いつ果てるともしれない質問に耐えなければならない。世間の厳しい目にさらされることになるのだ。だから、耐えられるように準備を整えておかなければならない。

リスクのある事業計画で株式公開という賭けに打ってでようというのだ。心配するなというほうが無理だろう。だが、スティーブはなにも心配していない。彼は、ピクサーの株価が急上昇し、ここまで自分が注いできた投資の価値を世の中に知らしめてくれる様子しか思い描いていない。そんなバラ色の色眼鏡で見られてもと私は思ってしまうのだが。

「市場はいい状態にあるようだね」

ある朝、スティーブがご機嫌で電話をかけてきた。

「みんな、いい感じだと言ってる。他社も、あちこち、株式公開の準備を進めているようだ。ネットスケープ社なんかは、ここしばらくで一番のIPOになるだろう。でも、ピクサーはその上を行くよ?」

ネットスケープのIPOは、そのころ一番のうわさになっていた案件だ。初めて広く普及したウェブブラウザー、ナビゲーターを開発した会社で、そのIPOはインターネット時代の幕開けを告げるものとして注目を集めていた。公開は1995年8月、ほんの1~2週あとに予定されていた。

「ネットスケープ社は新たな産業の勃興を意味しています。みんなが関心を持っている状態で、投資家は、だれもかれもインターネットの話ばかりしています。アニメーションは眼中にありません。そんな彼らにピクサーのことを得心してもらう必要があります」

「我々がしていることを知ればわかってくれるさ。ピクサーもなるべく早く株式を公開すべきだよ」

「タイミングをよく考える必要があります。『トイ・ストーリー』公開前がいいのか、後がいいのか。公開前にIPOをして、映画がこけたら大惨事になりますよ」

「そんなの、ありえないよ。株を公開するからといって、大ヒットを約束する必要はないんだから。我々が作っているのは会社であって映画じゃない。投資家は、新しい種類のエンターテイメント会社というものにお金を出すんだ。それに、『トイ・ストーリー』で期待した結果が得られなかったら、必要な資金の調達ができなくなるかもしれないじゃないか。IPOは早めがいいと思うな」

賛同しかねる意見だ。『トイ・ストーリー』をネタに資金を調達し、それがこけたら、株価は急落し、そのまま底辺をさまようことになるだろう。投資直後に大損させたら投資家の恨みを買いかねない。次に成果を見せられるのが3年後というのも問題だ。話題のすごい会社から期待はずれだったねとしか言われない会社に一瞬で落ちてしまうかもしれないのだ。いや、実際には、すでに、ピクサーをそう評している人も一部にいるわけで。投資家はもっと手厳しい。株式を公開するなら、タイミングをうまく計らなければならない。『トイ・ストーリー』公開前は無理だ、そんなことはすべきでない―私にはそう思えてならなかった。

「スティーブと仕事をするのはきっついわぁ」

ある晩、ヒラリーに愚痴ってしまった。

「すごいアイデアも出てくるけど、的外れも少なくないんだ。なかなか言うことを聞いてくれないし」

「そういう人の相手なら慣れてるじゃない。エフィもそんなだったでしょう? スティーブも同じようにやればいいのよ」

たしかにエフィもスティーブも、相手をするのは大変だが、頭は切れるし活力にあふれている。ただ、ピクサーのIPOについては、第三者に冷静な目でチェックしてもらう必要がある。そんなことを頼めるのはひとりだけ、昔のボスでメンターのラリー・ソンシニくらいだ。

PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話
ローレンス・レビー
ロンドン生まれ。インディアナ大学卒、ハーバード・ロースクール修了。
シリコンバレーの弁護士から会社経営に転じたあと、1994年、スティーブ・ジョブズ自身から声をかけられ、ピクサー・アニメーション・スタジオの最高財務責任者兼社長室メンバーに転進。ピクサーでは事業戦略の策定とIPOの実現を担当し、赤字のグラフィックス会社だったピクサーを数十億ドル規模のエンターテイメントスタジオへと変身させた。のちにピクサーの取締役にも就任している。
その後、会社員生活に終止符を打ち、東洋哲学と瞑想を学ぶとともに、それが現代社会とどう関係するのかを追求する生活に入った。いまは、このテーマについて文章を書いたり教えたりしている。また、そのために、ジュニパー基金を立ちあげ、創設者のひとりとして積極的に活動を展開している。
カリフォルニア州パロアルト在住。いまは妻のヒラリーとふたり暮らしである。

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