(本記事は、ローレンス・レビー氏の著書『PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』文響社の中から一部を抜粋・編集しています)

そのような会社のひとつが1602年創業のオランダ東インド会社である。ここは、香料諸島とも呼ばれるモルッカ諸島を圧倒的な力で支配し、初の多国籍企業として世界一の力と富を持つ会社になった。200年近くも貿易の世界を支配したのだ。このオランダ東インド会社が、1604年、株を投資家に販売した。いま、IPOと呼ばれているものの先駆けで、これで航海の資金を得たのである。株が売買できるようにと、近代的な株式市場を初めて作ったのもオランダ東インド会社だ(アムステルダム証券取引所である)。ここでオランダ東インド会社の株を買い、その船が戻ってくるのを待ってくれというわけだ。

会社の所有権を関係のない不特定多数に売るという方法は、諸刃(もろは)の剣である。メリットは、ほかのやり方では不可能なほどの資金を集められること。それこそ、アニメーション映画の制作費用として1億ドルを集めることも、理論的には可能である。だが、疑うことを知らない一般人から資金を集められるということは、不正が働けるというデメリットもある。実際、このデメリットで世界は大変な経験をしている。

オランダ東インド会社を例に考えてみよう。船団が数カ月後に戻ってくるとき、異国のスパイスを山のように積んでいるか、それとも、積み荷をすべて海賊に奪われているかをあらかじめ知る術はない。それこそ、海賊の被害にあったと会社側は知っていても、それを知らない人に高値で会社の株を買ってもらおうとその情報を伏せておくといったことも考えられる。いま、インサイダー取引と呼ばれているもので、これは香辛料貿易の時代からあるのだ。

オランダ東インド会社の株が公開されたあと、しばらくは、株取引にまつわるスキャンダルや不正で経済全体が揺らぐことはなかった。お金に余裕のある一部の人しか投資などできなかったからだ。だが、1920年代、状況が根本的に変わる。

第1次世界大戦後の好景気により、米国では中産階級が増え、株式投資がかつてない規模で普及した。そのため、1929年の大暴落とその後の経済的混乱は広い範囲で猛威を振るう結果となり、何百万人もの国民が大きな痛手をこうむった。国全体が何年も深刻な不況に見舞われたのだ。このようなことの再発を防ぐため、米国議会は、広く国民から資金を集めたいと考える会社を規制する法律を制定。そして、米証券取引委員会(SEC)が目を光らせるようになった。株式を公開しようとするピクサーも、この法律に従わなければならないわけだ。

いまの証券法では、意思決定に必要な正しい情報が等しく与えられていることを条件に、投資の意思決定は投資家がみずから下すものとされている。知る者と知らざる者がいる世界は終わった。株式を公開したいのなら、ピクサーは、その事業を詳しく記述し、公開しなければならない。株式公開企業はすべてがガラス張り。なにも隠せない。なにも、だ。事業の細かな点にいたるまで、いつ果てるともしれない質問に耐えなければならない。世間の厳しい目にさらされることになるのだ。だから、耐えられるように準備を整えておかなければならない。

リスクのある事業計画で株式公開という賭けに打ってでようというのだ。心配するなというほうが無理だろう。だが、スティーブはなにも心配していない。彼は、ピクサーの株価が急上昇し、ここまで自分が注いできた投資の価値を世の中に知らしめてくれる様子しか思い描いていない。そんなバラ色の色眼鏡で見られてもと私は思ってしまうのだが。

「市場はいい状態にあるようだね」

ある朝、スティーブがご機嫌で電話をかけてきた。

「みんな、いい感じだと言ってる。他社も、あちこち、株式公開の準備を進めているようだ。ネットスケープ社なんかは、ここしばらくで一番のIPOになるだろう。でも、ピクサーはその上を行くよ?」

ネットスケープのIPOは、そのころ一番のうわさになっていた案件だ。初めて広く普及したウェブブラウザー、ナビゲーターを開発した会社で、そのIPOはインターネット時代の幕開けを告げるものとして注目を集めていた。公開は1995年8月、ほんの1~2週あとに予定されていた。

「ネットスケープ社は新たな産業の勃興を意味しています。みんなが関心を持っている状態で、投資家は、だれもかれもインターネットの話ばかりしています。アニメーションは眼中にありません。そんな彼らにピクサーのことを得心してもらう必要があります」

「我々がしていることを知ればわかってくれるさ。ピクサーもなるべく早く株式を公開すべきだよ」

「タイミングをよく考える必要があります。『トイ・ストーリー』公開前がいいのか、後がいいのか。公開前にIPOをして、映画がこけたら大惨事になりますよ」

「そんなの、ありえないよ。株を公開するからといって、大ヒットを約束する必要はないんだから。我々が作っているのは会社であって映画じゃない。投資家は、新しい種類のエンターテイメント会社というものにお金を出すんだ。それに、『トイ・ストーリー』で期待した結果が得られなかったら、必要な資金の調達ができなくなるかもしれないじゃないか。IPOは早めがいいと思うな」

賛同しかねる意見だ。『トイ・ストーリー』をネタに資金を調達し、それがこけたら、株価は急落し、そのまま底辺をさまようことになるだろう。投資直後に大損させたら投資家の恨みを買いかねない。次に成果を見せられるのが3年後というのも問題だ。話題のすごい会社から期待はずれだったねとしか言われない会社に一瞬で落ちてしまうかもしれないのだ。いや、実際には、すでに、ピクサーをそう評している人も一部にいるわけで。投資家はもっと手厳しい。株式を公開するなら、タイミングをうまく計らなければならない。『トイ・ストーリー』公開前は無理だ、そんなことはすべきでない―私にはそう思えてならなかった。

「スティーブと仕事をするのはきっついわぁ」

ある晩、ヒラリーに愚痴ってしまった。

「すごいアイデアも出てくるけど、的外れも少なくないんだ。なかなか言うことを聞いてくれないし」

「そういう人の相手なら慣れてるじゃない。エフィもそんなだったでしょう? スティーブも同じようにやればいいのよ」

たしかにエフィもスティーブも、相手をするのは大変だが、頭は切れるし活力にあふれている。ただ、ピクサーのIPOについては、第三者に冷静な目でチェックしてもらう必要がある。そんなことを頼めるのはひとりだけ、昔のボスでメンターのラリー・ソンシニくらいだ。

PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話
ローレンス・レビー
ロンドン生まれ。インディアナ大学卒、ハーバード・ロースクール修了。
シリコンバレーの弁護士から会社経営に転じたあと、1994年、スティーブ・ジョブズ自身から声をかけられ、ピクサー・アニメーション・スタジオの最高財務責任者兼社長室メンバーに転進。ピクサーでは事業戦略の策定とIPOの実現を担当し、赤字のグラフィックス会社だったピクサーを数十億ドル規模のエンターテイメントスタジオへと変身させた。のちにピクサーの取締役にも就任している。
その後、会社員生活に終止符を打ち、東洋哲学と瞑想を学ぶとともに、それが現代社会とどう関係するのかを追求する生活に入った。いまは、このテーマについて文章を書いたり教えたりしている。また、そのために、ジュニパー基金を立ちあげ、創設者のひとりとして積極的に活動を展開している。
カリフォルニア州パロアルト在住。いまは妻のヒラリーとふたり暮らしである。

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