(本記事は、ローレンス・レビー氏の著書『PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』文響社の中から一部を抜粋・編集しています)

テクノロジー
(画像=PIXTA)

すばらしいストーリーと新たなテクノロジー

ロバートソン・スティーブンスに担当してもらえると浮かれていたのはつかの間のことだった。エンターテイメント会社としてピクサーはすごいよと太鼓判を押してくれるところがまだないのだ。成功するだろうと投資コミュニティーに思ってもらうには、この太鼓判がどうしても必要だ。

モルガン・スタンレーやゴールドマン・サックスが担当してくれれば完璧だった。どちらも、ハリウッドで高い評価を得ている投資銀行だからだ。だが、この地域でロバートソン・スティーブンスは無名の存在だ。ロバートソン・スティーブンスでピクサーの報告書を書いてくれるキース・ベンジャミンというアナリストはいい人物だ。ピクサーと真剣に向きあってくれているし、知識欲が旺盛で頭がよく、熱意もある。だが、エンターテイメント業界では無名の存在だ。この人が言うならとハリウッドが思ってくれる人にピクサーを推薦してもらわなければならない。

自分の机でそんなことを考えていたある日、ふと思いついたことがある。私は、ハロルド・ヴォーゲルの『ハロルド・ヴォーゲルのエンタテインメント・ビジネス──その産業構造と経済・金融・マーケティング』を読んで読んで読み込んでいた。そう言えば、彼もアナリストとしてエンターテイメント業界にかかわっていたことがあるとどこかに書かれていた気がする。改めて確認し てみると、1977年からメリルリンチでエンターテイメント業界担当のシニアアナリストをしていたとある。インスティテューショナルインベスター誌が選ぶエンターテイメント業界アナリストのランキングで上位を保っていたこともわかった。ということは、エンターテイメント業界アナリストとしてウォールストリートのトップとまでは言わずとも、かなり優秀であったことはまちがいない。

ハロルド・ヴォーゲルがピクサーに興味を示してくれるとは思えない。著書で、映画会社が株式市場で資金調達するのは大きな冒険だとまで書いているくらいなのだ。だが、この分野に詳しいことはまちがいないし、であれば、なにがしかのアドバイスがもらえるかもしれない。連絡してみる価値はあるだろう。

この件は、ロバートソン・スティーブンスのトッド・カーターに相談した。私がエンターテイメント分野に影響力のある人を探していることはトッドもわかっていて、できる限りの助力はしましょうといろいろ調べてくれた。その結果、ハロルド・ヴォーゲルは、つい最近の1994年末まで17年間、メリルリンチに勤めていたことがわかった。いまは、ニューヨークのブティック型投資銀行コーウェン&カンパニーでマネージングディレクター兼エンターテイメント、メディア、ゲーミング担当シニアアナリストをしているという。コーウェン&カンパニー―初めて聞く名前だ。

「私から連絡してみましょうか?」

「ぜひお願いします」

トッドが提案してくれたので助かった。幹事がほかの投資銀行に声をかけるのはよくあることだし、トッドから連絡してもらえば、断られてばつの悪い思いをせずにすむ。

「コーウェン&カンパニーというところについて、なにかご存じですか?」

トッドに尋ねてみた。

「たいしたことはわかりません。IPO関連ではあまり聞かない名前です。このところ、力を入れてきているようではありますが。このあたりでは無名に近いですね」

ハロルド・ヴォーゲルに連絡を取ってみたところ、喜んで話を聞きましょうと返ってきたそうだ。いい返事なのかどうなのかよくわからないが、門前払いは食わずにすんだらしい。ハロルドとは電話で話し合うことになった。私は、慎重に話を切り出した。

「お時間をいただきまして、ありがとうございます。ヴォーゲルさんの本からいろいろと学ばせていただきました。映画会社が株式市場で資金調達するのは得策でないとお考えであるのはよくわかっていますが、ピクサーにはそれしか道がないと思うのです。ですから、エンターテイメント方面をカバーするにはどうしたらいいか、お知恵を拝借できればと思っております」

そんなことは止めたほうがいいよと言われるかもしれないと思っていたが、返ってきた言葉は違った。

「詳しい話をお願いします。ピクサーはおもしろそうだと目を付けていたんですよ」

想像もしていなかった反応だ。私は、ピクサーのストーリーをいつものように語った。

「うーん、いいですねぇ。実にいい。エンターテイメント業界で必要なものがぜんぶそろってるんですね」

ええっ? 心の中で思わず叫んでしまった。守りに身を固くしていたのに、手厳しい言葉は飛んでこない。それどころか、ハロルドは、これ以上ないくらいに前向きだしにこやかだし愛想がいい。

「それはどういう意味でしょうか」

聞き返してしまった。

「テクノロジーはエンターテイメントを前に進める大きな力です。すばらしいストーリーと新たなテクノロジー、練達の経営がそろった会社が未来を切りひらくのです。そして、ピクサーにはそれがすべてそろっています。これは珍しいことですよ。私も、ぜひ、一口乗らせていただきたいと思います。コーウェンがIPOに参加するという道もあるかもしれません」

あごが落ちた。床までだ。テレビ電話だったら、ハロルドもびっくりしたことだろう。彼の目には、我々が気づかなかったピクサーの強みが見えていたのだ。いや、ゴールドマン・サックスにもモルガン・スタンレーにも見えていなかったものが、と言うべきか。ピクサーはすごいことをしているとハロルド・ヴォーゲルが言うのなら―たぶん、そう思ってまちがいないのだろう。

ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーに一蹴されたときには、想像もできなかった展開だ。エンターテイメント分野でトップクラスのアナリストから、成功に必要な要素がすべてそろっていると言ってもらえるとは。しかも、自分も一枚かみたいと言ってもらえるとは。コーウェン&カンパニーも参加するとなったら、ハロルド・ヴォーゲル本人が、エンターテイメント業界でピクサーに注目すべき理由を投資家にしっかり伝えてくれるはずだ。

そのためには、まず、スティーブを説得しなければならない。ロバートソン・スティーブンスのときも、スティーブはあまり知らないところだからと心配したわけだが、それがコーウェン&カンパニーとなると、彼本人もまったく知らないだろうし、おそらくは彼の知人のなかにも名前を聞いたことのある人はいないだろう。ロバートソン・スティーブンスでさえ地雷かもしれないと思ったのに、今回はその上を行く。エンターテイメント業界を専門とする優秀なアナリストがひとりいる、それだけをもってコーウェン&カンパニーを信じてくれとスティーブに頼まなければならないのだ。

実際に会わせるのが一番だろう。そう思った私は、ハロルド・ヴォーゲルの評判を伝えたうえで、コーウェン&カンパニーにも見学に来てもらうことを提案した。

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(画像=fizkes/Shutterstock.com)

来社したのは、デジタルメディア部門を統括するアデル・モリセットとハロルド・ヴォーゲルだった。面談はいい雰囲気で進んだ。アデルは明るく愛想のいい女性で話がしやすく、率直な受け答えに好感が持てた。ピクサーはすばらしい、コーウェン&カンパニーにとってもいい話だ、ハロルドが担いでくれるならリスクに対する心配が減り、ピクサーに賭けてみようと思う投資家も増えるだろう、というのが彼女の意見だった。ハロルドは、相変わらずやる気満々だった。

「どう思われます?」

面談後、スティーブに尋ねてみた。

「ハロルドはいいね。専門家として優秀だし、ピクサーのこともよくわかってくれている」

ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーの大失敗を受け、このあたりのありがたみがよくわかるようになったらしい。

「でも、あそこはIPOの世界で無名なんだよね。あの会社にも参加してもらわないとハロルドにピクサーのレポートを書いてもらうことはできないのかい?」

鋭い疑問だ。投資銀行のアナリストは自社のクライアントでない会社のレポートも書く。コーウェン&カンパニーがIPOに参画せずとも、ハロルドがピクサーのレポートを書くことは可能なのだ。ただ、新規公開の会社がトップクラスのアナリストにレポートを書いてもらうのは難しい。本当に難しい。

「おっしゃるとおりで、コーウェン社がかんでいなくても、ハロルドがピクサーのレポートを書くことはできます。でも、それは危険な賭けだと思います。ピクサーを真剣に検討してもらうためには、まず、エンターテイメント分野のレポートが必要になります。危ない橋を渡るべきではありません。コーウェンには参加してもらって、ハロルドがまちがいなくピクサーのレポートを書いてくれるようにすべきです」

「3番手でもいいと言ってくれるかな?」

「問題ないと思いますよ」

IPOに投資銀行3行がかかわるのはよくある話だ。銀行の数は特に決まっていない。2行のこともあれば、4行とかもっと多い場合もある。IPOの規模や投資家の集まり具合、業界知識の必要性などによってさまざまなのだ。IPOで売り出す株式は参加する投資銀行に分配する。3番手ということはコーウェン社への割り当てが一番少なくなるわけだが、それが問題になるとはあまり思えない。紹介できる顧客も彼らが一番少ないはずだからだ。

「彼らが3番手でいいと言うなら、ぼくはかまわないよ。まあ、これから2番手を探さなきゃいけないわけだけど」

私に異論などあろうはずがない。コーウェン&カンパニーはこの条件を飲んでくれるはずだ。つまり、ハロルド・ヴォーゲルがアナリストとしてピクサーを担当してくれる。

幸運がまたひとつ訪れてくれた。

コーウェン&カンパニーは喜んで参画すると言ってくれ、ジル・ダラスという若手を担当にした。これで投資銀行が2行確保できた。しかも、片方には、エンターテイメント業界で文句なしに信頼されているアナリストがいる。

ただ、対スティーブでぎりぎりまで無理をしているという自覚もあった。テクノロジーを専門とするブティック型投資銀行とシリコンバレーで無名のごく小さなニューヨークの銀行に担当してもらうなど、彼が思い描いていた夢じゃない。彼にとっては、代案にすぎないのだ。でも私は、これしか実現の方法はないと考えていた。そして、なんとかなりそうだとようやく思えたのだ。それをスティーブにも伝えたかった。だから、コーウェン&カンパニーが参画を決めた少しあと、スティーブにこう言った。

「いい感じじゃないですか、スティーブ。ロバートソン・スティーブンスとコーウェンでなんとかなりますよ」

「そうであって欲しいところだな。とりあえず、3行目が必要だ。ハンブレクト&クイストなんかどうだい?」

ロバートソン・スティーブンスと同じように、ハンブレクト&クイストもシリコンバレーでよく知られたブティック型投資銀行である。モルガン・スタンレーが幹事を務めた1980年のアップルIPOにも、2番手として参画している。ダン・ケースCEOはスティーブとも知り合いで、スティーブにピクサーのことを聞いたりしているらしい。スティーブもハンブレクト&クイストを幹事にする気はなく、彼らを巻き込めればいいんじゃないかというわけだ。

「いいと思いますよ。彼らもテクノロジー系ですからエンターテイメント方面の支援は期待できません。でも、そちらの手当は十分にできましたからね。その線で行きましょう」

ほどなく、彼らも関与してくれることになった。これで投資銀行チームは完成。幹事がロバートソン・スティーブンス、2番手がハンブレクト&クイスト、3番手がコーウェン&カンパニーだ。ようやく、株式公開の準備を本格化できる。

「もしかしたらなんとかなるかもしれないよ」

8月末のとある晩、私は、ヒラリーにこう語った。

「ぼくは、これから何カ月か、この件にかかり切りになると思う。これに賭けるしかないんだ」

「スティーブも了承してくれてるのね?」

「うん、彼も承知してる。というか、かなりやる気になってると思うよ」

「うまく行くことを祈っているわ。あなたが待ち望んでいた好機なんだから」

幸運はまだまだ必要だ。IPOを実現するのは、投資銀行をみつけることなど比較にならないほど難しい。これから、銀行といやになるほど打ち合わせを重ね、ピクサーの歴史や財務情報、事業計画などを細かく細かく詰めていかなければならないのだ。証券法関連についても、弁護士や会計士にくり返し、くり返し、細かな点までチェックしてもらう必要がある。ピクサーをどう評価するのか、株式の価格をいくらに設定するのか、公開のタイミングはいつにするのかなどもじっくり検討しなければならない。

なかでも大変なのは、IPO全体を左右する文書、すなわち目論見書の作成である。目論見書とは微に入り細にわたる法的書類で、SECに提出するとともに投資家にも配布する。ピクサーの事業をあらゆる側面から定性的・定量的に記述して公開するための文書であり、投資家が知っておくべきリスクが何ページにもわたってえんえん書かれてもいる。ピクサーの歴史からビジョン、事業計画、技術、アニメーションや制作の進め方、市場における競争、リスク、役員、取締役、株主、ストックオプション、その他数えきれないほどのこまごまとしたことまで、ピクサーという会社を理解するために必要なことをこと細かに書かなければならない。ちょっとした本1冊分くらいの分量になるし、投資銀行の人間や弁護士と何週間も、何晩も会議室に詰めて文言を調整する必要がある。SECからコメントが返ってくれば、詳しく回答する必要もある。その過程で、投資銀行や弁護士、会計士、SECのどこか1カ所からでもダメ出しされれば、株式は公開できない。

だが、これこそ、進みたいと私が願ってきた道である。スティーブから連絡をもらったのは1年近くも前のことだ。スティーブにとって、ピクサーのIPOはずっと最優先事項だった。そして、ローラーコースターのような12カ月がすぎたいま、我々は、袖をまくり上げ、本当にやれるのかどうか試してみるところまで、ようやくたどりついたわけだ。

PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話
ローレンス・レビー
ロンドン生まれ。インディアナ大学卒、ハーバード・ロースクール修了。
シリコンバレーの弁護士から会社経営に転じたあと、1994年、スティーブ・ジョブズ自身から声をかけられ、ピクサー・アニメーション・スタジオの最高財務責任者兼社長室メンバーに転進。ピクサーでは事業戦略の策定とIPOの実現を担当し、赤字のグラフィックス会社だったピクサーを数十億ドル規模のエンターテイメントスタジオへと変身させた。のちにピクサーの取締役にも就任している。
その後、会社員生活に終止符を打ち、東洋哲学と瞑想を学ぶとともに、それが現代社会とどう関係するのかを追求する生活に入った。いまは、このテーマについて文章を書いたり教えたりしている。また、そのために、ジュニパー基金を立ちあげ、創設者のひとりとして積極的に活動を展開している。
カリフォルニア州パロアルト在住。いまは妻のヒラリーとふたり暮らしである。

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