(本記事は、ローレンス・レビー氏の著書『PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』文響社の中から一部を抜粋・編集しています)

作業
(画像=PIXTA)

ピクサーからアップルへ

1997年2月に起きた重大事は、ディズニーと新しい契約を締結したことだけではない。アップルコンピュータによるネクストの買収があった。スティーブにとってこれ以上ないほどの快挙である。ネクストはスティーブがアップルに反発して作った会社だ。これを皮肉と言わずしてなにを皮肉と言うのだろう。

渦中にあった当時はよくわかっていなかったが、ディズニーとの契約締結とネクストの売却がきっかけとなって連鎖反応のようにいろいろなことが起き、スティーブとの旅は大きく変化することになる。いつの間にか、違う方向に引っぱっていかれたのだ。私のほうの変化はゆっくりだったが、スティーブのほうはすぐだった。

ネクストのアップル売却をスティーブは大喜びした。ネクストは新開発のコンピューターを1988年に発売したが、そのころ急成長していたワークステーションコンピューター市場の競争に負けてしまう。そして、1993年にはハードウェア部門を閉鎖し、オペレーティングシステムと開発用ソフトウェアの販売に特化した。これをアップルが買収したのだ。面目も立つし、そのソフトウェアテクノロジーも生き残れるかもしれない。スティーブが高揚するのも当然だろう。買収が決まったあと、スティーブはこう語っていた。

「アップルの次期オペレーティングシステムはネクストのソフトウェアを元にしたものになるんだ。彼らにとってはのどから手が出るほど欲しいわけさ」

ネクストに手がかからなくなるということは、いまの週一より頻繁にピクサーへ顔を出し、日々の業務にかかわろうとするかもしれない。そう思ったのだが、なにも変わらなかった。ピクサーでは、『バグズ・ライフ』と『トイ・ストーリー2』の制作が粛々と進められ、平行して、拡大の計画が着実に進められていた。スティーブにとっても満足な状況で、なにかを変えようというつもりはないようだ。

このころ、私とスティーブの関係が少し変化した。過去2年間のしかかっていた重圧から解放されたからだ。10年かかるかもしれないと思っていたことが2年半で片付いた。IPOもディズニーとの再交渉も終えたスティーブは、肩の力がかなり抜けていた。週末、私の家までぶらっと来るので、ふたりで散歩に出たり庭に座ったりしていろいろな話をした。話題はピクサーや世界各地の出来事から子どもたちや私生活まで行ったり来たりだ。

家族のひとりがもしかすると大変な健康問題を抱えているかもしれないことがわかり、どうしたらいいか相談していたとき、スティーブから電話がかかってきたことがある。応対したヒラリーは、元気かいと尋ねられ、泣き出してしまった。話を聞いたスティーブは、必要なら世界一の名医を探して連れてこようと言ってくれた。

結局、世界一の名医が車で1時間のサンフランシスコにいて、最終的に事なきを得ることができたのは幸運だった。このときスティーブがああ言ってくれたのはありがたかったと、ヒラリーはずっと感謝している。

ネクスト売却後を中心に、スティーブはアップルのことをよく語った。アップルはずいぶん前から迷走している、最近は特にひどい、昔の栄光にすがっているだけになりつつあるといった具合だ。責任は歴代CEOにある、どうすればアップルが復活するのかだれもわかっていないと手厳しい。ネクスト買収は多少の足しになるだろうが、逆に言えばその程度でしかない、とも。

こういう話を聞いているうちに思った。これは、スティーブの心で燃えている炎がちらちら表に出てきているのではないか、と。ちょっと考えてみたというレベルじゃない。案の定だった。1997年の初夏、パロアルトでスティーブに会ったとき

「アップルに戻ろうかと思ってる。取締役会から打診が来てるんだ」

と言われたのだ。

「それはすごい! で? どうされるおつもりです? アップルはずっとふらふらしてきたわけで、それを立て直すのは大変でしょう。本気でやるつもりですか?」

「よくわからん。でもやってみることはできる。給料はもらわないつもりだ。ぼくの考えを伝え、なにをしなければならないのかを考えてみるいい機会にはなると思う」

そうか、スティーブはもう決心してるんだ。アップルが復活できるか否かはスティーブにもわからない。アップルに戻り、死に体の会社を救えなかった責任を取らされるのだけは避けたい。給料をもらわないというのは「金を払ってないんだから、会社がこけても文句は言わないでくれ」と言うようなものだ。復活に成功すれば、報酬などあとからどうにでもなる。どっちに転んでも大丈夫なシナリオである。

ともあれ、いま、求められているものがあるように私は感じた。

「アップルに戻られるのであれば、ピクサーのことは心配しないでください。すべて順調ですから。ディズニーとの契約も一新したわけで、あとはやることをやるだけです。そもそも、いなくなるわけではないんだし。ポイントリッチモンドに来られる回数は減るかもしれませんが、連絡はいままでどおり取り合えるわけですからね」

この会話でスティーブは、ピクサーを捨てるつもりなのだと我々に思われていないことを確認したかったのだと思う。アップル復帰をピクサーにもそれとなく祝福してほしいのだろう。同じ話をエドやジョンともするはずだし、彼らもスティーブの決断を支持するはずだ。実はここしばらくの激動の期間に、彼にとっては大きく、また、自信になるような変化があった。スティーブとピクサーはぎくしゃくした関係が10年ほども続いたわけだが、私が転職してきたころにはなかったものを、いま、スティーブは手にしている。敬意である。

制作中の映画の試写会をするからと経営幹部が招かれた日、私はそのことを強く感じた。我々はいつものように試写室に集まり、最新版の映像を見せられた。試写が終わると、ジョンがスティーブに尋ねた。

「スティーブ、いかがでしたか?」

「よかったと思うよ。まあ、ぼくがどう思うかなんてどうでもいいんだけどね」

「そんなことありません」

「いやいや、決めるのは君らだ。信頼してるからね?」

「でも、我々としては、あなたがどう思われたのか、気になるのです」

力のこもった言葉だった。

特になにかあったわけではなく、だれも覚えていないかもしれない。でも、ピクサーでは見られなかった瞬間だ。クリエイティブな判断をずっと前に任されたクリエイティブチームがスティーブの意見を尊重したいというのだ。ピクサーという世界でこれ以上の称賛はないと言える。最高の敬意である。そう言えば、このころ、スティーブに対する恨みつらみを耳にすることが完全になくなっていた。会社を支えきったスティーブは、怖いオーナーではなく、信頼できる保護者だと見られるようになっていたのだ。本人に確認したことはないが、スティーブにとってこれはすごく大きな意味を持つことだったはずだ。

いまふり返ってみると、こういうピクサーにおける経験により、彼は、その後の展開を左右するほど大きく変わったのだと思う。

エンターテイメント業界を理解したことも、そういう変化のひとつだ。ハイテク業界のCEOであるとともに、エンターテイメント業界のCEOでもあるわけで。両方の世界をよく知っていると言える経営者はとても珍しいし、これがなければ、アップル復帰後、音楽とエンターテイメントというややこしい世界に進出するなどはできなかったはずだ。

ピクサーで事業や戦略について私と一緒にいろいろと考えたのもよかったんじゃないかと思う。スティーブは、アップル、ネクスト、そしてピクサーの前半と失敗続きだったが、その大きな理由として現実を無視したことが挙げられる。Lisaも初代マッキントッシュもNeXTもピクサーイメージコンピューターも、価格が高すぎたり市場で重視されていることを無視したりしたから失敗した。それが、私が来てからは、事業の現実とクリエイティブな優先順位との折り合いを上手につけるようになった。

もちろん、成功の証を再び手にしたことも大きい。ビリオネアになったのだ。アップルでなにがあろうとそこは変わらない。アップルが燃えつきてしまったとしても、彼の復活が影響を受けることはない。

こうして見ると、ピクサーはスティーブに多大な影響を与えたと言える。ビリオネアになった、世間をあっと言わせる復活をなし遂げた、エンターテイメント業界の裏も表も知るようになった、ピクサーとの関係がよくなった、事業面とクリエイティブ面の折り合いをつけられるようになった。もともと美的感覚と製品ビジョンには定評のある人だ。そこにこのような変化が上乗せされたのだから、アップルの混乱に飛び込んでもなんとかなるだろう。ピクサーはスティーブの旅において幕間劇のようなものだったのかもしれない。アップル復帰後の第2幕でスティーブが推進した革命は、ピクサーなしには実現しえないものだったのかもしれない。

アップル復帰の可能性についての話がそろそろ終わろうとしたとき、ふと思って、ひとこと、指摘しておくことにした。

「アップルに戻りたいと強く願っておられることはわかっています。でも、何年か前とは身の回りの状況がかなり変わっているはずです。このごろは、仕事以外のこともいろいろとする機会があったじゃないですか。ご自身や家族、友だちのために時間を使い、ほかのことにも時間を使ってこられましたよね。そのあたりも忘れないでくださいね」

特になにも返ってこなかった。私としては、人生のこういう側面にも注意を払ってほしいと思ったのだ。ピクサーに来たころ、私は、きつい性格だというスティーブの評判が気になっていた。伝説的と言えるほどなのだ。幸いなことに、私自身はそのあたりを経験したことがない。我々は、最初からずっと敬意を払い合い、建設的な関係を保ってきた。面と向かっていないときも含めて、だ。我々のあいだで怒りの言葉が飛び交った記憶はない。だからといって、スティーブがだれかにつらく当たったり尊大な態度を取ったりするのを見ていないわけではない。ミスに容赦がなく、締めあげたりするのだ。

だが、ピクサーでそういう言動をすることはほとんどなかった。なんでも私と一緒にしていたのもよかったのだろうし、アップルやネクストと違い、スティーブ自身が製品を作っていなかったのもよかったのだろう。スティーブに映画は作れない。経験のないレベルで他人に頼らなければ、ピクサーが離陸することはなかった。ピクサーで経験した信頼や協力関係をほかで活用できればスティーブの力になるはずだ。

スティーブがアップルに復帰する1997年7月、私は、なにかがぽっかりと抜け落ちたような感覚に襲われていた。ここ何年か、ともに歩いてきた旅が大きく変わってしまうからだ。ここまで、ピクサーの進むべき道を求めてともに散歩し、語り合い、議論し、策を巡らし、笑い、分かち合い、心配してきた。だが、スティーブは新たな世界に旅立とうとしている。私のいない世界だ。私はピクサーで仕事をしなければならない。ディズニーとの新しい契約をしっかり履行できるようにしなければならないし、事業の舵取りもしなければならない。ウォールストリートや投資家の面倒もみなければならないし、ピクサーが順調に歩めるよう気を配らなければならない。

このあとの10年間、スティーブとの関係は、想像もしなかった方向へと変化していく。スティーブは2003年にがんと診断され、その後、さまざまな治療を受けることになる。私は、病と闘う彼をベッドサイドから見守った。ちょくちょく自宅を訪れては、邸内にそっと入り、彼が在宅かどうかを確認した。彼がいても話はほとんどしなかった。ただ、彼が好きなテレビ番組を一緒に見てばかりいた。

体調がいいときは、アップルで開発中の製品を見せられた。私が初めてiPodを試したのも、iPhoneで話をしたのも、iPadで遊んでみたのも、すべて、スティーブの自宅の仕事部屋だ。大きな製品発表には必ず呼んでくれたので、毎年、サンフランシスコのモスコーニセンターの片隅に座り、彼が世界を魅了する様をじっと見た。スティーブが計画していたすごいクルーザーのデザインも見せてもらった。スティーブは、テクノロジー以外の分野でも天才的な美的感覚を発揮するのだ。

彼が見せてくれなかった部分もある。スティーブは、人生のさまざまな側面をきっちりと仕切っていた。すべての区画に入れるのは彼だけ。友人は自分がいる以外の区画にはまず立ち入れない。著名人としてスティーブの格が上がり、世界のリーダーやセレブと会うようになるにつれ、彼の人生における私の役割は小さくなっていった。それでも、調子さえよければ私の家をぶらりと訪ねてくれたので、ふたりで散歩に出たり一緒に座って話をしたりした。また、最後の最後まで、私は、キッチンのドアを通り、彼の部屋まで勝手に入ってきていいよと言われていた。

病気などで大変な時期には、だれしも、正しいことを言っているのか、正しいことをしているのか、なかなか判断がつかなくなる。なにが正しいのかを示してくれるガイドブックも公式もないのだ。つまるところ、スティーブは、行動の人だったのだと思う。かわいがられるタイプではない。好奇心が旺盛。そして、最後は病に倒れる人だったのだ。彼のところを辞去するたび、自分にできることはないのかと思ってしまった。わからない。このころ、スティーブは、友情に感謝するとよく言ってくれた。うれしかった。私も同じ思いだった。

私に他人の評価などできるはずもない。だが、ともかく、私にとっても彼にとっても、ピクサーで一緒に働いたことに大きな意義があったのはまちがいないと思う。スティーブと仕事ができてよかった。すばらしいスパーリングパートナーなのだ。1994年末、彼が私に電話をしてくれたことには、いくら感謝してもしきれない。

私は、アップルのトップにいながら闘病していたスティーブと一緒にもう1回、冒険の旅をする機会があった。もう1回、新たな道を探して進む旅である。スティーブと私が一緒に歩む最後の旅であり、ピクサーが大団円を迎える旅である。

PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話
ローレンス・レビー
ロンドン生まれ。インディアナ大学卒、ハーバード・ロースクール修了。
シリコンバレーの弁護士から会社経営に転じたあと、1994年、スティーブ・ジョブズ自身から声をかけられ、ピクサー・アニメーション・スタジオの最高財務責任者兼社長室メンバーに転進。ピクサーでは事業戦略の策定とIPOの実現を担当し、赤字のグラフィックス会社だったピクサーを数十億ドル規模のエンターテイメントスタジオへと変身させた。のちにピクサーの取締役にも就任している。
その後、会社員生活に終止符を打ち、東洋哲学と瞑想を学ぶとともに、それが現代社会とどう関係するのかを追求する生活に入った。いまは、このテーマについて文章を書いたり教えたりしている。また、そのために、ジュニパー基金を立ちあげ、創設者のひとりとして積極的に活動を展開している。
カリフォルニア州パロアルト在住。いまは妻のヒラリーとふたり暮らしである。

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