(本記事は、ローレンス・レビー氏の著書『PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』文響社の中から一部を抜粋・編集しています)

天秤
(画像=PIXTA)

対等な契約

ディズニーとの交渉を打ち切ったあと、ジョンとエドは『バグズ・ライフ』と『トイ・ストーリー2』の制作に没頭し、スティーブはパロアルトで家族と静かなクリスマスを過ごすことになった。私は、ピクサーの基礎固めに戻った。ピクサーの拡大に伴い財務計画を見直さなければならないし、コンピューターも施設も人材も増やす必要がある。コンピューター関連だけでも大変だ。映画で使う技術の難度が上がっており、映像生成に必要な計算機の能力もどんどん増えているからだ。コンピューターシステムに詳しいグレッグ・ブランドーがピクサーに転職し、この面を担当してくれたのは本当に助かった。

こうしてスタジオ拡大に忙殺されていた1997年の1月半ば、自分の執務室で仕事をしていた私にスティーブから驚愕(きょうがく)のニュースがもたらされた。

「アイズナーから電話をもらった。話し合いを再開したいそうだ」

「はぁ? ありえません」

「行き詰まりを打開するアイデアがあるそうだ。話し合いには応じてもいいけど、時間を無駄にはしたくない、我々が考えを変えることはないって伝えたよ。一両日中にまた連絡するそうだ」

信じられない話だ。

「前にもそんなことを言われましたよね。まあ、結局、連絡してきましたけど。彼にしては珍しく」

アイズナーはなにを考えているのだろう。いぶかしみつつ、我々は待つしかなかった。二日後、また、スティーブのところに連絡が入る。

「交渉をまとめたいそうだ。できるだけ早くに、ね。ブランドについては対等な取り扱いをすると言ってる」

「信じられません。それはまたすさまじい方針転換ですね。で? どうしてそんな話が出てきたんでしょうか」

ブランドについても要求を飲むなら、その対価がなにか必要なはずだと思ったのだ。

「ピクサー株を買う権利が欲しいそうだ。ピクサーのブランド構築にディズニーが一役買うならその利益を手にする権利がなければおかしい、ピクサーの一部を持てるなら、ブランド面で譲歩する大義名分になる、と」

「すばらしい!」

思わず叫んでしまった。完璧だ。アイズナーは、やはり、アニメーションを大事に思っていたのだ。ピクサーについても大事に思ってくれている。株を買おうという気になるくらいに。すごいことだ。

「ピクサーへの投資について、ほかにもなにか言ってましたか?」

詳細には触れず、あくまでざっくりした話として、持ち分を大きくする必要はない、ピクサーを子会社にしたいわけではなく、成功を分かちあう立場になりたいだけだと言われたそうだ。これ以上は望みようがない話だ。だが、スティーブは不安らしい。

「よく考えたほうがいい。株とか取締役とかを通じてピクサーをコントロールできる抜け道をディズニーに与えるのはまずい」

「そうならない仕組みにすればいいんです。そのあたりはラリー・ソンシニがうまくやってくれますよ。経営権を握ろうとか取締役を送りこもうとかいうつもりはないとアイズナーは言ったんでしょう? そこは言葉どおりに受けとっていいと思いますよ?」

スティーブからは、検討するのはかまわない、大丈夫な仕組みが作れると弁護士が言うなら真剣に考えようと言われた。私は、すぐに動いた。ラリーは、スティーブが心配しなくてすむようにすると言ってくれた。

我々の懸念は投資の形式をラリーらが工夫して対処してくれたし、アイズナーも二言はなかった。我々の望みがすべてかなう。想定より何年も前、2作目の完成前にだ。全力で準備を進めた。2月頭ごろ、私はロサンゼルスに行きっぱなしに近い状態だった。ディズニーのオフィスでピクサーチームがロブ・ムーアとともに細部の詰めを行っていたのだ。

どんなことでもそういうものだが、交渉ごとでは、最後の20%に労力の80%を費やすことになる。最後の20%でこまごましたことを決めなければならないからだ。我々の場合、まず起きないであろう不測の事態を記述するのが大変だった。たとえばポイントリッチモンドで地震が起きて映画の完成が遅れたら、それはピクサーの責任になるのか。地震のリスクに対し、どこまでピクサーを保護すべきなのか。理不尽な話ではない。悪名高いサンアンドレアス断層の近くであればなおさらだ。

ほかにも、この契約で制作する映画のためにコンピューターを買い、その費用をディズニーとピクサーで分担した場合、ピクサーは、そのコンピューターをディズニー以外の案件でも使っていいのかなども考えなければならない。使っていいとするなら、その分の費用をディズニーに支払うべきか。リスクや不測の事態などいくらでもあり得るわけで、どこかで線を引き、前に進まなければならない。その判断も、いい交渉担当者に求められる能力である。交渉では、前に進む勢いと恐れの綱引きが続く。リスク管理が大事なのだ。

草案作成の早い段階で取りあげた項目を例に説明しよう。トリートメントと呼ばれる企画書に関する項目だ。新契約で映画を作成するにあたり、ピクサーからディズニーに企画書という形で映画のアイデアを何本か提出する。ここまではいい。では、なにをもって企画書と言うのだろうか。インデックスカードに1行、「父親が息子捜しの旅に出る。なお、親子とも魚である」でもいいのか。これはさすがに無理があるだろう。だから、契約書では細かく指定することになる。つまり、3ページ以内の文書で、そこから脚本を書き起こせるレベルのもの、という具合だ。

ところが、ピクサーは、スケッチや短い絵コンテを使うプレゼンで企画を提出することが多い。どうすればいいのか。そのやり方も契約書に記載しておくのだ。ディズニーとしては新作の企画が欲しいのであって、続編や前日譚では困る。これも契約書に明記しておく必要がある。

文章の書き方
(画像=The 21 online)

さて、企画書が提出されたあとはどうなるのだろうか。ディズニー側で検討する期間はどのくらいが適当か。いくらでも時間を使っていいのか。3カ月か(ピクサーにとって長すぎる)。2週間か(ディズニーにとって短すぎる)。ディズニーがいつまでも回答しなかった場合はどうなるのか。ほかのなにかで忙しいのかもしれないし、ピクサーの映画に飽きたのかもしれない。企画書が書類の山に埋もれているのかもしれない。そうなったとき、ピクサーは好きにしていいのか。企画を検討するチャンスがディズニーにはあったのだから? 回答がないのはピクサーの責任じゃないのだから? では、ディズニーが回答せず、ピクサーが見切り発車した場合、承認もしていない映画をディズニーブランドでディズニーが配給しろと言えるのか。

いずれも不測の事態であり、基本的には起きないものばかりだ。現実には、ピクサーのストーリーチームがディズニーと協力して企画書の検討や修正にあたり、契約書の出番などないはずだ。契約書が持ちだされる事態など、そうそう起きるものではないのだ。だが、契約を締結するなら、適切な形でリスクをカバーし、万が一なにか起きたらどうするのかわかる契約書にしておかなければならない。

紹介した企画書関連の項目は、たくさんある条項のひとつにすぎない。こういう条項が100も並んでいると言えば、この交渉がどのくらい複雑なのか、なんとなくわかってもらえるだろうか。ディズニーは、どこまで、ピクサーにおける制作に口を出せるのか。ピクサーの技術はどこまでディズニーに開示するのか。マーケティングにピクサーは口を出せるのか。制作予算はどう決めるのか。予算超過の承認はどうするのか。ピクサー映画のキャラクターをディズニーはテーマパークで使えるのか。クルーズ船では? 使用料金は支払われるのか。

「派生物」と呼ばれるものの取り扱いも決めなければならない。映画を制作したあと、その続編や前日譚、テレビ番組、テレビゲーム、アイスショー、ブロードウェイミュージカル、テーマパークのライドなど、さまざまなものが生みだされることがある。これを生みだす権利はピクサーにあるのか。ピクサーが作った場合、その費用や利益をディズニーとどう分けるのか、その流通はディズニーが責任を負うのか。派生物をピクサーが作らずディズニーが作った場合、ピクサーに料金を支払うのか。支払うとしたらいくら支払うのか。

こういう条項も複雑だが、映画収益をどう計算し、どう分けるのかを定める条項の複雑さに比べればたいしたことはない。ここは、文字どおり、会計学の学位を持った人でもなければ理解できないほど複雑なのだ。

この部分は、ロブ・ムーアと私で徹底的に検討し、ピクサー側の弁護士チームが実際の文言に落とし込んだ。ムーアと私は、まるでスパーリングでもしているかのように押したり引いたり、押したり引いたりして、今後におけるピクサーとディズニーの関係を決めていく。ふたりとも、果てしなく続く課題に協力して当たる仲間のように相手を見るようになった。作成した案はスティーブとアイズナーに示し、気に入らない点があると言われればムーアと私でさらに検討を重ねる。こうして、少しずつ、契約書ができていった。スティーブがアイズナーに要求した重要4項目がきちんと規定された形で。

クリエイティブな判断については、ジョン・ラセター監督の映画についてはピクサーが最終決定権を持つことになった。米国興行成績1億ドル超のアニメーション映画で監督あるいは共同監督を務めた実績のある人物が監督した映画も、ピクサーが最終決定権を持つ。それ以外の映画については、ピクサーとディズニーが共同で判断する。つまり、アンドリュー・スタントンやピート・ドクターのような新人監督であっても、ジョン・ラセターとヒット作の共同監督を務めていればクリエイティブな判断を任せられるということだ(このころ、アンドリューは『バグズ・ライフ』でジョンとともに監督を務めていた)。

公開時期については、夏休みかクリスマスシーズンに公開すること、また、十分な公開期間を取ることが定められた。つまり、ディズニー映画と同じように取り扱ってもらえるわけだ。

収益の分配については、正しく折半することで合意した。映画配給ネットワークの標準的な使用料金をディズニーに支払い、マーケティング費用を差し引いた残りをディズニーとピクサーで折半する。収益の計算方法も明記された。これが詳しく書かれたのは、我々が知るかぎり、初めてのことだ。

最後に、ブランドの問題。これも、前例のないことまちがいなしの条項だ。映画についてはピクサーもディズニーと同等のブランドである、また、ディズニーのロゴと「同等に見える」ようにピクサーのロゴを用いると規定されている。ロゴのスタイルが異なっていたり、片方が大文字で片方が小文字だったりしても、同じサイズに見えるようにしなければならない。これはまた、今後、“Walt Disney Pictures presents ~” という形ではなく、「ディズニー・ピクサー」という形でピクサー映画をマーケティングするということでもある。要するに、我々の映画に関連するものについては、ピクサーとディズニーがブランドを等しく分けあう形になるわけだ。自分たちが制作したというのに、ディズニーより下に見られることは今後なくなる。

この条項の最終稿ができたとき、スティーブに言われた。

「これでピクサーがブランド化するな。映画を制作したのはぼくたちだと世界中が知るようになるんだ」

「そうです。それこそ、バズ・ライトイヤーのアクションフィギュアやTシャツにいたるまで、ね。やりましたよ」

1997年2月24日、ロブ・ムーアと私は、バーバンクにあるウォルト・ディズニー本社の会議室に座っていた。目の前には、ウォルト・ディズニー社とピクサー・アニメーション・スタジオ社の新しい共同製作契約書の最終稿が並んでいる。ふたりがペンを取り、ディズニーを代表してムーアが、そして、ピクサーを代表して私が署名。契約締結だ。これで、事業計画の4本柱すべてが完成した。収益の50%を手に入れることと、ピクサーのブランドを世界に周知するの2本が建ったからだ。

さまざまな契約をまとめてきたが、これほど気持ちが高ぶったものはなかったと思う。

翌朝、ニューヨークタイムズ紙が次のように報じた。


ウォルト・ディズニー社は、昨日、ピクサー・アニメーション・スタジオと5本の映画を共同製作する異例の10年提携を発表した。この背景には、収益性の高いアニメーション映画をハリウッドが重視しつつあることがある。
5本の映画については、費用も収益もロゴの取り扱いもディズニーと新興のピクサーで均等となる。映画は「ディズニー・ピクサー製作」となり、実質的に両スタジオがひとつのブランドになると言える。(※)

(※)Steve Lohr, “Disney in 10-Year, 5-Film Deal with Pixar,” New York Times, February 25, 1997, http://www.nytimes.com/1997/02/25/business/disney-in-10-year-5-film-deal-with-pixar.html.

そう、我々がすべてを賭けた部分を取りあげてくれたのだ。あのディズニーがブランドとしてピクサーを対等に扱うと同意してくれた、という点を。

このあと、スティーブや私は、ディズニーストアに通りかかるたび、店内に駆け込むとバズやウッディの人形などピクサー映画関連の商品をチェックするようになる。タグにディズニーとピクサー、両社のロゴが対等に並んでいるのを見たいからだ。

ラベルの裏側に印刷された小さなロゴを見て大喜びする客など、我々しかいないのはまちがいないのだが。

PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話
ローレンス・レビー
ロンドン生まれ。インディアナ大学卒、ハーバード・ロースクール修了。
シリコンバレーの弁護士から会社経営に転じたあと、1994年、スティーブ・ジョブズ自身から声をかけられ、ピクサー・アニメーション・スタジオの最高財務責任者兼社長室メンバーに転進。ピクサーでは事業戦略の策定とIPOの実現を担当し、赤字のグラフィックス会社だったピクサーを数十億ドル規模のエンターテイメントスタジオへと変身させた。のちにピクサーの取締役にも就任している。
その後、会社員生活に終止符を打ち、東洋哲学と瞑想を学ぶとともに、それが現代社会とどう関係するのかを追求する生活に入った。いまは、このテーマについて文章を書いたり教えたりしている。また、そのために、ジュニパー基金を立ちあげ、創設者のひとりとして積極的に活動を展開している。
カリフォルニア州パロアルト在住。いまは妻のヒラリーとふたり暮らしである。

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