(本記事は、橋本之克氏の著書『世界最前線の研究でわかる!スゴい!行動経済学』総合法令出版の中から一部を抜粋・編集しています)

老後年金2000万円問題の炎上で、トクする人々

老後,不安,お金
(画像=Princess_Anmitsu/Shutterstock.com)

金融庁が2019年6月3日に公表した、金融審議会による「高齢社会における資産形成・管理」報告書が話題になりました。以下のような統計データを示したものです。

・2017年の平均寿命は男81.1歳、女87.3歳
・2017年の高齢夫婦無職世帯(夫65歳以上、妻60歳以上の夫婦のみの無職世帯)の毎月の赤字額(実収入−実支出)の平均値は約5.5万円

夫婦無職世帯の平均余命を20年または30年とした場合の生涯赤字額を、前記から計算すると以下になります。

・20年の場合:5.5(万円)×12(ヵ月)×20(年)=1320万円
・30年の場合:5.5(万円)×12(ヵ月)×30(年)=1980万円

この1320万円~1980万円の生涯赤字額は、貯蓄や退職金で補填していると推測できます(2017年の高齢夫婦無職世帯の平均貯蓄額:2484万円/2017年の定年退職者の平均退職給付額:1700万円~2000万円)。

この点は、報告書の中で以下のように記述されていました。

「夫65歳以上、妻60歳以上の夫婦のみの無職の世帯では毎月の不足額の平均は約5万円であり、まだ20年~30年の人生があるとすれば、不足額の総額は単純計算で1300万円~2000万円になる。この金額はあくまで平均の不足額から導き出したものであり、不足額は各々の収入・支出の状況やライフスタイルなどによって大きく異なる」

ところが、マスコミ各社の報道において「老後資金は2000万円不足」という部分が独り歩きします。実際には平均1300万円~2000万円の不足は、貯蓄で補填できるという結果が示されているにもかかわらず、2000万円を新たに調達しなければならないかのような論調でした。視聴者の不安を煽りながら、ニュース番組の視聴率を上げようとします。

さらに、参議院議員選挙を控える状況下、野党がこの問題を政治的に利用しました。「2000万円の赤字分を自分で用意しなければならないのか」「100年安心と銘打った年金制度は嘘だったのか」などと与党を責めます。

これがまたニュースとなり、ネット上も「年金の破綻を国が認めたのか!」「保険料を払わせて自助努力はないだろう!」といった声で炎上します。結局、麻生金融相は、国民の不安を煽ったという理由で金融審議会の報告書の受け取りを拒みました。

残念ながら報告書は、マスコミに揚げ足をとられ、野党に政争の具にされ、効力を失いました。ところが実は、いくつか重要な指摘があったのです。今後、寿命が伸びて、退職金が減少傾向にあり、年金支給額が減ると予測される中で必要な3つの準備です。

(1)適切なライフプランを立てること:「大学卒業、新卒採用、結婚・出産、住宅購入、定年、退職金と年金で生活」という古いライフスタイルではなく自分のプランを作る

(2)「自助」の充実:望むライフプランや生活水準に合わせて、就労継続の模索、支出の再点検や削減、資産形成と運用など「自助」を充実させる

(3)資産寿命を延ばすこと:以下、3つのライフステージに応じた対応を行う。現役期は、長期・積立・分散投資による資産形成。リタイア期前後は、退職金の有無もふまえたプラン再検討および、中長期的な資産運用の継続と計画的な取崩し。高齢期は、心身の衰えを見据えたプランの見直しや取引関係の簡素化、自分で行動できなくなった時の備え

これらは、長い人生に備えた準備が必要という真っ当な内容です。「自助が必要=今の年金政策に問題がある」という誤解が喧伝されましたが、今の高齢者でも年金だけでは生活全般をまかなえません。

厚労省の調査によれば、高齢者世帯の収入における公的年金の比率は66%です。残りは自助でまかなうのが普通です。今後も引き続き、自助の意識を高めて準備をする必要があります。しかし報告書が効力を失ってしまえば、こういった内容を推進する政策は不可能になってしまうのです。

それにしても、なぜこれほどまでに2000万円の記事が話題になったのでしょうか。もちろん、偏ったマスコミ報道もその理由です。ただし、その一方で視聴者の心理の中にも、報道に注目してしまう原因があったのではないでしょうか。この心理について、行動経済学の視点で考えていきます。

第一に、行動経済学における「同調効果」が影響していると考えられます。これは個人が無意識に人と同じ行動を取ってしまう現象です。集団と同じ行動を取ることで安心を得ようとする群集心理によるものです。イェール大学の心理学者スタンリー・ミルグラムが、この同調効果を実験によって実証しています。その方法は次のようなものです。

ニューヨークの街中で冬の午後、実験者が歩道に立って空を見上げます。この人数を1人、2人、3人、5人、10人、15人と変えて、それを見た通行人の反応を観察します。実験者の行動は決まったパターンの繰り返しです。

指定の場所で立ち止まり、通りの向かい側にあるビルの6階の窓を60秒間見上げ、その後に立ち去ります。一定時間経つと今度は別の「見上げる人」が同じ場所で同様の行為を行います。この実験の間に通りがかった通行人は全部で1424人です。そのうち、何人がつられて見上げたかを数えました。

その結果、見上げるのが1人の時に立ち止まったのは通行人の4%、15人が見上げると40%が立ち止まりました。さらに、つられて窓を見上げた割合は、見上げるのが1人の時は43%、15人のときは86%でした。皆が注目するものには自分も反応し、合わせるという同調効果が実験で検証されました。

今回の2000万円問題も、ニュースやネットで注目が集まっていることを知った人々が、同調効果によって自らも注目しました。この同調の輪が拡大することで、今回のような騒ぎになったと考えられます。

もう1つ、2000万円という数字がなぜ不安を煽ったのかも疑問です。これは、本章で解説した「アンカリング」の影響です。アンカリングは、先行する何らかの数値によって、その後の判断が歪められるものです。

ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーは、これを実証する以下の実験を行いました。「国連加盟国のうち、アフリカの国の割合はいくらか」を対象者に尋ねる実験です。ただし、その前に1つの質問をするのです。半数には「アフリカの国の割合は65%よりも大きいか小さいか」と尋ね、残りの半数には「アフリカの国の割合は10%よりも大きいか小さいか」尋ねます。

その結果、65%と比較した対象者における回答の中央値は「45%」でした。10%と比較した対象者は「25%」でした。つまり、事前質問での数字がアンカーとなって、65%と比較した人のほうが10%と比較した人よりも高い数字を回答したのです。

今回の騒動においては、独り歩きした「2000万円」という数字を評価するにあたって皆、自分で用意できるお金、即ち預貯金額を頭に思い浮かべました。この時点での自分の預貯金額がアンカーとなります。

ちなみに、厚生労働省の2016年国民生活基礎調査「各種世帯の所得等の状況」によれば、全国の平均貯金額は1033万円です。2000万円以上の貯金がある世帯は、全体の15%程度でした。つまり、全世帯の85%の人は必要とされるだけの貯金がないということになります。アンカーとなる自分の預貯金の2倍もの金額が必要だと感じた人々は、不安になるわけです。

以上をふまえて今回の2000万円問題は、以前から続いている年金問題を根底に、偏った報道や与野党の攻防が行われ、人々は同調効果やアンカリングの心理的バイアスによって、必要以上に不安を感じたと整理できます。

ただし、経緯が何であれ今回の騒ぎは、今後行われるべき年金改革を妨げます。元々、膨張が続く現在の年金受給者への給付を減らさない限り、将来世代の年金が確保できないと言われています。今回の騒動は給付と負担のアンバランスを解消する改革を進めようとした矢先の出来事でした。

この問題の影響により政府は、年金の仕組みに問題があると思われたくないため、「給付抑止」をタブーとして封印する可能性があります。同様に、報告書の重要ポイントである「自助努力」までもが無視される可能性があります。それどころか、これらの重要事項の議論をすることさえ難しくなってしまいました。

実は「2000万円の不足」以外にも、問題は多くあります。例えば、自助のために積み立てるお金がない人々の問題です。日本の納税者の6割は所得税率が最低限の5%、即ち課税対象所得が195万円以下です。こういった人をどう支援するかという問題があります。

ところが今回の騒動によって、高い所得を得ながら年金をもらい続ける高齢者への給付を停止する、といった本来必要な改革が停滞しかねません。現在の公的年金制度が「失敗」ではないと強弁するために、あるいはヒステリックなクレーム層をかわすために、重要な議論がストップしてしまうのです。

年金制度が順調でないことは、既に多くの人が知っています。年金だけで十分暮らせると考える楽観的な人は多くないはずです。自助努力が必要なことくらい、言われなくてもわかっているでしょう。そういった「普通の人々」は、報告書の内容にも違和感を覚えないはずです。

今回の騒動において、年金改革が滞り、自助努力を支える政策が進まなくなるなどのマイナス面が数多くあります。その一方で、この騒動にはプラス面もあると私は考えています。それは、一連の騒動全体が現役世代に自助努力を促す「壮大なPR」になったという側面です。

実際に日経新聞の報道によれば、報告書が発表された直後に複数の証券会社で、少額投資非課税制度(NISA)の申し込みが前月比1.7倍、前週比15%増と増加しました。また老後資金セミナーへの参加、ファイナンシャルプランナーへの相談も増えているようです。もし報告書が大々的に報道されていなければ、こういった現象は起きなかったでしょう。

「老後の不足、2000万円」という言葉も、それが正しいかは別として、視聴者の耳目を集める「キャッチコピー」としては抜群の効果を発揮しました。金融の広告やマーケティングに約20年携わっている立場で申し上げると、金融の広告で注目を集めるのは困難です。さらにセミナー参加のような行動を起こさせることは至難の業です。なぜなら金融商品は、車やビールや化粧品のような一般的な消費財と違うからです。

米国マーケティング協会によるマーケティングの定義は、「マーケティングとは、顧客、依頼人、パートナー、社会全体にとって価値のある提供物を創造・伝達・配達・交換するための活動であり、一連の制度、そしてプロセスである」というものです。

つまり、その商品の価値(=良いところ)を伝えることがスタートです。ところが、金融のマーケティングの場合、それだけでは不足です。「ポジティブな価値を訴求する」と同時に、「ネガティブな要素を超越させる」ことが必要なのです。

例えば今回のような「老後の資金を用意する投資商品」ならば、当然ターゲットに商品が「安心」で「有利」であると伝える必要があります。ただ、この「ポジティブ訴求」だけではターゲットは動きません。商品を検討する際には「自分がリタイアして老人になった状況を想像」する必要があります。

投資商品なら、市況次第で「大事なお金が減ってしまう可能性」も考えなければなりません。これら不安や恐れなどの「ネガティブ要素」が金融商品にはつきものです。

しかし、人は嫌なことは考えたくないので先送りします。そうならないように金融マーケティングでは、ターゲットの不安や恐れを払拭したり、超越させたりすることが必要なのです。そうして初めてターゲットは行動を起こすのです。

これには相当な工夫やパワーが必要です。今回の騒動は現役世代の人々に、「老後に向けて何もしないことのリスク」を突き付けました。「老後の不足、2000万円」と言われれば真剣に考えざるをえません。しかも、この言葉にはリアリティを醸し出す具体的な数字が入っています。結果、多くの人が先送りせずに行動したのです。

結局のところ、報告書で狙った「自助努力の促進」が、想定されていた官主導のプロセスではなく、一般生活者による自発的な行動で進んだと言えるかもしれません。あとはこの動きを止めることなく、より広く拡大する政策が次の課題でしょう。

今まで先送りし続けてきた人も、この流れに乗るべきです。「2000万円など無理」、と思考停止に陥っている人も多いかもしれません。まずはアンカリングの知識をふまえて、現在の自分の預貯金額というアンカーを忘れることです。この金額は、リタイアする年齢までにまだ増える可能性もあります。

そもそもこの調査の結果は、2000万円必要というものではありませんでした。こういった必要以上に不安を感じさせる原因を、一つひとつ取り除くのが良いでしょう。そのうえで再度、自分のプランを考えていきましょう。

世界最前線の研究でわかる!スゴい!行動経済学
橋本之克(はしもと・ゆきかつ)
マーケティング&ブランディングディレクター、著述家。東京工業大学工学部社会工学科卒業後、大手広告代理店を経て1995年日本総合研究所入社。環境エネルギー分野を中心に、官民共同による研究事業組織コンソーシアムの組成運営、自治体や企業向けのコンサルティング業務を行う。1998年アサツーディ・ケイ入社後、戦略プランナーとして金融・不動産・環境エネルギー業界等多様な業界で顧客獲得業務を実施。2019年独立。現在はマーケティングやブランディング戦略のコンサルタント、行動経済学に関する講師、著述家として活動中。著書に『9割の人間は行動経済学のカモである――非合理な心をつかみ、合理的に顧客を動かす』『9割の損は行動経済学でサケられる――非合理な行動を避け、幸福な人間に変わる』(ともに経済界)、『モノは感情に売れ!』(PHP 研究所)ほか。2級ファイナンシャル・プランニング技能士、宅地建物取引士、東京商工会議所2級カラーコーディネーター。

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