本記事は、Hamish McKenzie氏(著)、松本剛史氏(訳)の著書『INSANE MODE インセイン・モード イーロン・マスクが起こした100年に一度のゲームチェンジ』(ハーパーコリンズ・ジャパン)の中から一部を抜粋・編集しています

「電気はすばらしい」とエジソンは1903年に言った。

電気
(画像=yatta/PIXTA)

ブンブン、ガチャガチャとうるさいギアや、どれがどれだかわからなくなるややこしいレバーもない。強力な内燃エンジンのおそろしく不安定なドッドッ、プルルルという音もない。すぐ故障する水冷システムもなければ、ひどい臭いのガソリンも、騒音もない。

自動車時代が始まろうとするころ、電気自動車こそが未来への道だとエジソンは考えていた。もしその後の成り行きを知ったら、未来にたどり着くのにどれだけ長い時間がかかったのかと驚いたかもしれない。エジソンはこうした技術を推進するためにやれるだけのことをやった。その目的に使えそうなニッケル鉄電池をすでに開発していたことも、少なからぬ理由としてあった。

1901年にエジソンは、時速113キロを出せる電気自動車を開発したと主張した。その翌年に、プロトタイプは1回の充電で137キロ走ることができたと言い、この充電池は数ヵ月以内に販売されると確約した。「充電池がこの国で指折りの巨大産業を生み出すときが、もうそこまで来ている」。113年後にマスクが言ったのと同じような主張だった。

結局エジソンは自分の前宣伝を果たせなかった。自ら確約した画期的な電気自動車が生産されることはなかった。それでも彼は懲りなかった。1914年、友人のヘンリー・フォードと組んで、また新たに電気自動車に合う充電池の開発に取りかかった。「1年以内には電気自動車の生産を開始できると思う」とフォードは1914年1月の『ニューヨーク・タイムズ』紙に語った。具体的な計画はあまり明かそうとしなかったが、エジソンと提携するといううわさは肯定している。

実をいうと、エジソン氏と私は、安くて実用的だとされる電気自動車に取り組んできた。何台か実験的に製作してきたが、いまは成功への道が開けたことに満足している。これまでの問題は、再充電の必要がないほど長距離を走れる軽量の蓄電装置を作ることだった。エジソン氏はしばらく前からそうした装置の実験を行っている。

その当時、プロトタイプが複数台あったかどうかは不明だが、少なくとも1台あったことは確かだ。1913年の写真に、フォードのミシガン州ハイランドパークの工場の外に駐められたクルマが映っていた。フォードの電気技術者が座っている座席は、スーツケースほどの大きさのニッケル鉄電池3個を収めたボックスの上にある。

運転席はクルマの両端にある車軸に掛け渡された単純なフレームの上に作られたもの。ハンドルは小さなボートのティラーのように操作するタイプだ。やはり1914年の別の写真に写っているもう1台の電気自動車は、モデルTのハンドルのついたモデルTのフレームを基に作られていた。当時のうわさでは、このクルマは1916年には売り出され、価格は500~750ドル(いまの価値で11000~16000ドル)、航続距離は1充電あたり161キロに達するだろうとのことだった。

エジソンとフォードが生み出したのは、決して特異なものではなかった。自動車時代の幕開けのころにはまだ、ガソリン動力の自動車が蒸気自動車や電気自動車よりも広く普及することがあきらかだったわけではない。むしろしばらくは電気自動車が優勢だった。蒸気を動力にした自動車は1700年代からあったが、水を補充しないと遠くまで行けず、走り出すまでに45分かかることも珍しくなかった。

1800年代初めには最初の内燃エンジン自動車が作られたが、とにかく運転が大変だった。クランクを手で回してエンジンをかける必要があり、ギアを変えるのも手動でなくてはならない。しかもうるさくて不潔で、所かまわず一酸化窒素や二酸化炭素や煤すすの排気ガスをまき散らした。

それに比べて電気自動車は、排気ガスはないし運転は楽で、しかも静かだった。一部の自動車イノベーターは電気自動車を走らせることに精力を注つぎ込んだ。1830年代に最初の電気で動く車両を考案した、スコットランド人のロバート・アンダーソンがその一人だ。しかしそのアイデアがアメリカまでやってくるのは50年以上もあとのことで、やはりスコットランド人であるウィリアム・モリソンという化学者のおかげだった。

1880年代末にモリソンは、アイオワ州デモインで4馬力の「馬のない馬車」を発表した。1890年代にはコネティカット州のポープ製造会社が最初の電気自動車メーカーとなり、フェルディナント・ポルシェという若い電気技術者がオーストリアの馬車メーカー、ルートヴィヒ・ローナーのために電気自動車を設計した。ポルシェは、のちに自分の名を冠したスポーツカーの会社を立ち上げることになるが、1898年にはウィーンの街でP1を走らせている。P1は時速34キロ、1充電あたり79キロの航続距離を誇る電気自動車だった。

だが前宣伝とはうらはらに、フォードとエジソンが確約した「安くて実用的な」電気自動車が実現することはなかった。エジソンの充電池はテスト段階より先には進まず、内燃エンジン自動車のセルモーターに電力を供給するバッテリーすら開発できなかった。フォードも他にいろいろ懸案があり、当初は発明王の友人から10万個の電池を買って、150万ドル(いまの価値では3600万ドル)を投資する計画だったにもかかわらず、結局は断念してしまった。

エジソンが電池を実用化できずにいた同じ時期に、電気自動車への期待は致命的な一撃をこうむることになった。チャールズ・ケタリングが電気を使ったセルモーターを完成させたことで、クランクを手で回さなくてもガソリン自動車を始動させられるようになったのだ。

そのおかげでいきなり、内燃エンジン自動車がぐっと現実的なものになり、アメリカの電気インフラ不足も有利なほうに働いた。フォードは完全にガソリン車の大量生産に専念し、また1900年代初めにテキサスで発見された油田から安い石油が採れるようになったこともあって情勢が変わり、電気自動車は1930年代にはすっかり廃れてしまった。

それでも電気自動車推進のために戦うべきだと考える勢力には、まっとうな理由があった。最初にアメリカの道路から姿を消してから60年後、電気自動車は突然、復活を遂げた──結局はまた消えてしまうのだが。

INSANE MODE インセイン・モード イーロン・マスクが起こした100年に一度のゲームチェンジ
Hamish McKenzie(ヘイミッシュ・マッケンジー)
"PandoDaily"、"The Guardian"などに寄稿するテクノロジー及び社会問題専門のジャーナリスト。イーロン・マスク取材時にその手腕を評価され、テスラに入社する。退職後本書を上梓。出版スタートアップ企業Substack の共同創業者。
松本剛史(まつもと・つよし)
東京大学文学部社会学科卒業。翻訳家。主な訳書にフォード『ロボットの脅威 人の仕事がなくなる日』ダイヤー『米中 世紀の競争 アメリカは中国の挑戦に打ち勝てるか』(以上、日本経済新聞出版社)、ミエヴィル『オクトーバー 物語ロシア革命』(筑摩書房)、ストレッチャー『目的の力 幸せに死ぬための「生き甲斐」の科学』(ハーパーコリンズ・ジャパン)など。

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