6 ―― 11年利上げ後のデフレの脅威の主因は不況下の緊縮、金融システム対策の遅れ
11年のECBの利上げ判断は、債務危機への配慮を欠いたという問題はあったが、2010年代にユーロ圏がデフレ・リスクに直面した主因は、金融政策ではなく、財政政策を含めた債務危機対応の誤りにあった。
財政政策のスタンスを、景気循環調整後の基礎的財政収支の対潜在GDP比の前年差から確認してみると、2011~2013年にかけては、GDPギャップがマイナス、つまり需要不足の段階での財政緊縮(景気循環増幅的引き締め)が行われていたこと、緊縮財政下でGDPギャップが拡大に向かっていたことがわかる(図表 - 8)。
債務危機対応では、資金繰り支援の枠組みの問題には欧州安定メカニズム(ESM)の常設化の目途が立つなど進展が見られていたが、銀行システム対策が遅れていた。ECBの金融政策の主たる波及経路である銀行システムが、特に不況が深刻だった債務危機国で不良債権や過少資本の問題を抱えていた。銀行システムの健全性を回復し、金融政策の効果が行き渡るようになるには、国毎の銀行行政の格差を是正する必要があるとの認識が高まった。銀行同盟を掲げて、銀行監督を一元化することに政治合意したのが12年6月、資産査定とストレステストを経て、ECBによる単一銀行監督制度が始動したのは14年11月である。
2014~15年にかけてユーロ圏経済はようやく回復軌道に乗り始めたが、金融緩和の強化ばかりでなく、財政政策の中立化や、銀行システムの健全性回復によって、デフレ圧力が緩和したからであると考えられる。
7 ―― コロナ禍では財政が中心的な役割を果たし、銀行システムは政策波及経路として機能
世界金融危機とユーロ危機では、増大した失業の解消、縮小した固定資本投資の水準回復に至るまでの時間の長さが示す通り(図表 - 5、図表 - 10)、政策対応の失敗で深い「傷痕」を残した。
コロナ禍では、銀行システムは政策の波及経路として役割、財政政策は「傷痕」阻止に中心的役割を果たし、金融政策はそれを支えた。欧州委員会は、ユーロ圏財務相会合(ユーログループ)のためにまとめた22年1月の資料(※5)で「加盟国とEUのレベルでのタイムリーで大胆かつ十分に調整された政策が世界金融危機後よりも速やかな回復を助け」、「金融政策、プルーデンス政策と足並みを揃えた支援的な財政出動が経済の安定化に中心的な役割を果たした」と評価している。
20~21年度はEUの財政ルールの適用が停止され、財政政策では「危機対応」が優先された(図表 - 8)が、財政には、今後も継続的に復興を支える役割を果たすことが期待される。
財政ルールの適用停止は22年度も継続されるが、20~21年度に比べて「危機対応」の所得支援など緊急措置の規模は縮小し、各国財政、さらにEU予算と復興基金「次世代EU」を活用した「回復支援」措置が拡大する(※6)。財政スタンスの緩和度も2021年のGDP比1.75%から縮小するが、1%程度回復をサポートする(※7)。復興基金は、2020年代半ばまで、各国の財政余地の格差を埋め、EUが掲げる政策目標の実現と復興を支えるデジタル、グリーン移行のための投資の原資として活用される見通しだ。
(※5) European Commission `Economic adjustment and resilience: Recent euro area performance relative to international peers', 10 January 2022、6ページ
(※6) 欧州委員会によるユーロ導入国の暫定予算案に関わる政策文書(Communication from the Commission to the European Parliament, The Council and the European Central Bank on the 2022 Draft Budgetary Plans: Overall Assessment, COM (2021) 900 final 24.11.2021 )10ページより
(※7) 前掲13ページ
8 ―― 23年適用開始の新たな財政ルールは持続可能な成長が重視される見通し
23年度には危機対応の一層の縮小、財政ルールの適用再開という転換点となる。危機対応で守られた雇用や企業債務問題への適切な対応が重要になる。デジタル化、グリーン化、包摂的で持続可能な成長のためには、労働力の再配分や、支援対象とする企業の絞り込み、支援手法の見直し、債務再編などが課題となる。
財政ルールの適用再開後は、政策のスタンスがルールの内容、運用に影響を受けることになるため、21年10月に再開された財政ルールを含むEUの経済ガバナンスの見直しに関わる着地点は大いに注目される。
22年上半期の閣僚理事会議長国のフランスのマクロン大統領は、21年12月の記者会見で、3月10~11日に開催する特別EU首脳会議で議論する向こう10年間のEUの新しい成長モデルの4本の柱の1つとして財政ルールに関する協議をする方針を示している(※8)。
マクロン大統領は、イタリアのドラギ総裁と連名の英紙フィナンシャル・タイムズへの寄稿(※9)で、欧州は「研究、インフラ、デジタル、防衛に巨額の投資」を必要としており、新たな財政ルールでは、「共通の原則」と「マクロ経済目標」を定義し、「より持続可能で、より公平な欧州の共同の野心に貢献することができる信頼性がある透明性のある枠組み」を構築すること、「増税や社会支出の持続不可能な削減や持続不可能な財政調整で成長を抑制しない」こと、「将来世代の福祉と長期的な成長のために役立つ投資のための債務は財政ルールで優遇されるべき」との考えを示している。
財政ルールに関する考え方はユーロ圏内でも見解の隔たりが大きい(※10)。「高債務国」に分類される仏伊の提案がそのまま受け入れられることはないだろうが、ルール重視のドイツのショルツ政権も次世代の成長につながる投資資金の確保という問題意識は共有している(※11)。
EUの財政ルールの見直しの議論は、持続可能な成長を支えるルールへと意見集約が進むだろう。
(※8) French President Emmanuel Macron Press Conference Speech Published on 13 December 2021
(※9) Mario Draghi and Emmanuel Macron: The EU's fiscal rules must be reformed, Financial Times, December 23, 2021
(※10) 財政ルールの経緯や財政ルールを巡る加盟国間の温度差については、伊藤さゆり「始まったEUの財政ルールを巡る攻防-過剰債務国と倹約国の対立再び」ニッセイ基礎研究所『Weeklyエコノミスト・レター』2021-9-15をご参照下さい。
(※11) ドイツの新政権の政権運営方針については、伊藤さゆり「2022年欧州の焦点-メルケル後のドイツ、フランス大統領選、ドラギ効果の持続力」ニッセイ基礎研究所『Weeklyエコノミスト・レター』2021-12-08をご参照下さい。
9 ―― ポスト・コロナのECBの課題は移行期のリスクとの闘い
2020年代にECBが向き合う課題は2010年代とは違ったものとなりそうだ。理由は3つある。第1に、財政のより積極的な役割が期待されること、第2にEUが、2050年の気候中立化という最終目標に向けて、2030年の中間目標に向けた取り組みを加速すること(※12)、第3にグローバルに広がる供給網がコスト優先から環境や人権、経済安全保障に配慮したものへと見直す動きが進展することだ。
3つの理由のうち、第3の供給網見直しの影響は別稿にて改めて論じることとし(※13)、ここでは、グリーン移行のエネルギー価格への影響と金融政策の対応に関するECBのシュナベール専務理事が行った講演の内容を紹介したい(※14)。シュナベール専務理事は、移行のプロセスでは、化石燃料の価格、炭素価格は高止まることになり、企業・家計の代替エネルギーへの置換えを促すこと、特に、EUの政策パッケージに含まれる排出権取引(ETS)による収入などを活用したエネルギー弱者をサポートする政策が必要との見方を示している。炭素価格の上昇に加えて、EUは化石燃料に関わる税率の引き上げを求めていることから、需要構造の変化や代替エネルギーの価格低下が十分に進展しなければ、「グリーンフレーション」が生じるリスクがあることを認めている。
シュナベール専務理事は、「グリーンフレーション」に対応する責任は政府にあり、供給要因によるものであれば、需要が抑制されるため、金融政策が対応する必要はないとの立場をとる。その上で、金融政策が対応すべきケースとして、(1)高いインフレ期待が定着するおそれがある場合、(2)グリーン移行が経済ブームを引き起こす場合を挙げている(※15)。
ポスト・コロナのECBの金融政策上の課題は、コロナ前と同じデフレ・リスクよりは、移行期のインフレ、あるいは物価上昇と景気停滞が併存するスタグフレーション(※16)のリスクとの闘いになる可能性が高まっている。
(※12) EUの2030年目標達成のための取り組みについては、伊藤さゆり「加速する欧州グリーン・ディール-気候中立目標達成への包括的取り組み」ニッセイ基礎研究所『Weeklyエコノミスト・レター』2021-07-21をご参照下さい。
(※13) 中国を念頭に置いた規制強化の動きについては、伊藤さゆり「変わるEUの対中スタンス-日本はどう向き合うべきか?」ニッセイ基礎研究所 基礎研レポート 2022-1-7で論じている。
(※14) ‘Looking through higher energy prices? Monetary policy and the green transition’ remarks by Isabel Schnabel, Member of the Executive Board of the ECB, at a panel on “Climate and the Financial System” at the American Finance Association 2022 Virtual Annual Meeting, 8 January 2022
(※15) Interview with Isabel Schnabel, Member of the Executive Board of the ECB, conducted by Markus Zydra, Bastian Brinkmann and Meike Schreiber on 10 January 2022, 14 January 2022
(※16) 欧州におけるスタグフレーションの議論については赤川省吾「スタグフレーションに身構える欧州 紛争・疫病・脱炭素」日経電子版22年1月30日で詳しく紹介している。
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伊藤 さゆり (いとう さゆり)
ニッセイ基礎研究所 経済研究部 研究理事
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