第2次安倍政権が発足して以来、続いているアベノミクス。3本の矢で構成される経済対策。その第1の矢とされるのが、金融緩和だ。通貨発行量を増やすことで市中に大量の「円」をバラ撒く。市中に「円」が溢れれば、人の心理として景況感は増す。そうした気持ちが実際の消費に結びつく。
アベノミクス第1の矢である金融緩和には、そうした“気分”による景気刺激といった面も含まれているが、最大の狙いは何と言っても円安誘導であることは言うまでもない。
戦後の日本経済は内需を拡大させながら世界最大のマーケットであるアメリカにモノを売るというモデルで急激な経済成長を果たした。敗戦後、焼け野原から立ち上がった日本が奇跡的に急成長した理由は、アメリカ依存の経済モデルが基盤にある。
『1985年の無条件降伏 プラザ合意とバブル』 著者:岡本勉訳者 出版社:光文社 発売日:2018年1月27日
日本経済の転換点 「プラザ合意」は第2の敗戦?
アメリカにモノを売る、つまり対米輸出が日本経済再生の第一歩であり、それがすべてでもあった。しかし、高度経済成長を経て世界第2の経済大国になった日本に待ち受けていたのが“国際協調”という名の、欧米各国による円高圧力だった。
1985年、日米英仏独(当時は、西ドイツ)の先進5か国の蔵相と中央銀行総裁が極秘にアメリカ・ニューヨークに集まり、会談。この時に交わされた為替レート安定化の合意は、ホテル名から「プラザ合意」と呼ばれる。
プラザ合意の内容を平たく言えば、米英仏独が日本に円高を迫ったというだけの話に過ぎない。日本の円は安すぎる。だから、日本製品が世界に安く出回る。その結果、欧米諸国は自国の製品を売れない。欧米諸国は円安のせいで自国の産業が弱体化し、それが経済に悪影響を及ぼしていると主張する。
経済大国と化した日本にとって、欧米諸国とイスを並べて話ができることは光栄の至りだった。先進4か国から「円は安すぎる。高くしろ」と要請されれば、世界のトップの一員として協力したい――そんな考えから日本は円高政策に舵を切る。
日本銀行を焚きつけて、がむしゃらに日本銀行券を刷らせている今の日本政府からは想像できない対応だといえるだろう。しかし、当時は世界各国の言い分を受け入れなければ、日本は世界から取り残されるという空気がそこには存在した。
プラザ合意によって、各国の思惑通り円高は一気に進行した。1ドル235円前後で推移していた為替レートは、翌日から急落。わずか一年で1ドル150円前後になった。円高になろうが円安になろうが、日本国内でモノを売り買いする分にはまったく関係がない。
円高になっても、国内での売価に変化はない。だが、海外で日本製品は高くなる。対米輸出で経済を急伸させた日本にとって、急激な円高は産業界を震撼させた。アメリカに輸出するモノが、為替によって急激に高くなってしまったのだ。これでは売れ行きが鈍り、日本企業の成長が止まってしまうと危惧する声も出始める。
急激な円高を招いたプラザ合意は、後から見れば日本経済崩壊の序章でしかなかった。プラザ合意こそが、日本経済史の転換点になった。著者は、プラザ合意を“第2の敗戦”となぞらえる。それほど、日本経済と産業界に大きな影を落とす失政だった。
バブル崩壊 失われた10年。そして20年。さらに30年が始まろうとしている
経済は魔物であり、人智を超えた動きを見せる。プラザ合意後に始まった急激な円高は、その後に鈍化する。それでも、円高が止まることはなかった。輸出に頼り切っていた日本の製造業にとって円高は回避したい危機だった。しかし、石油や鉄鉱石などの原料は輸入に頼っていたため、当初は原料を安く仕入れることができるという円高メリットもあった。急激な円高にも関わらず、日本経済が好調だった。
その理由は、政府が急激な円高に危機を感じ、それを食い止めるために金融緩和を実施したことが一因にある。日本政府は円高を憂慮し、通貨量を増大させた。通貨発行量を増やしても円安にはできなかったが、円高を食い止めることはできた。そして、通貨発行量が増大したことで、お金が行き場を失う。それが、バブル景気を招くことにつながった。
1988年から、日経平均はみるみるうちに上昇。翌年末には、いまだ破られていない3万8915円という金字塔を打ち立てた。バブルは、国全体を狂わせた。このままバブルはつづき、日本経済は右肩上がりを続ける。誰もが、そんな熱狂に冒されていた。
しかし、1990年初から株価は下落。当初は、高すぎた株価が一時的に下がっているだけ、少し経てば再び株価は急騰するという楽観的な見方が広がっていた。そうした思惑とは裏腹に、株価が回復することはなかった。そのまま、ずるずると10年が経過。この頃、ようやく日本の政財界はバブル崩壊を受け入れる。
10年間も下がり続けた株価に対して、政府も経済界も何も手を打っていなかった。そのため、失われた10年は、そのまま失われた20年となった。そして、今、失われた30年になりつつある。
新たな産業を育てたアメリカ 日本は育てられるか?
金融緩和で円安に誘導する安倍政権だが、肝心な第3の矢“成長戦略”はいっこうに成功する兆しが見えない。1980年代、日本の経済成長に苦しむアメリカは日本に円高を迫る一方で、国内では新興企業を育てる成長戦略をひそかに進めていた。
それが、1990年代後半に入って一斉に花を開かせる。マイクロソフトを筆頭にアップル、グーグル、アマゾンが台頭。その後ろにも、テスラといった新興企業が控えている。
金融緩和という猶予期間に、アメリカは自国の産業を育成・振興した。それが今、花開いている。一方、日本の政財界は新たな芽を育てることができているだろうか? 既存の企業を延命させるだけのためのアベノミクスでは、一時的な効果しかない。金融緩和で景況感を演出しても、ツケを先送りしているだけに過ぎないのだ。
書名にもなっている、著者が指摘する“1985年の無条件降伏”は、日本経済のターニングポイントである。それは円高という危機でもあったが、それを社会の仕組みを根本から転換することで乗り超える、絶好の機会でもあった。果たして、日本の政治や社会、経済はそれができているだろうか?
プラザ合意の裏で、アメリカはしたたかに動いていた。それは、30年を経た今でも変わらない。日本が再び経済で復活するために必要なのは、金融緩和という幻想に踊らされることではない。地に足の着いた、産業の立て直し政策が求められている。
小川裕夫(おがわ ひろお) フリーランスライター・カメラマン。1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者などを経てフリーランスに。2009年には、これまで内閣記者会にしか門戸が開かれていなかった総理大臣官邸で開催される内閣総理大臣会見に、史上初のフリーランスカメラマンとして出席。主に総務省・東京都・旧内務省・旧鉄道省が所管する分野を取材・執筆。
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