寒い冬に欲しくなる~最強のポカポカ家電
寒さ厳しい山形県鶴岡市のあつみ温泉。萬国屋は創業350年の老舗旅館だ。プロが選ぶ日本の旅館ホテル100選に37年連続で選ばれている人気の宿。評判を聞きつけて、全国各地から多くの客が詰めかける。
客を引きつける最大の魅力は暖かいおもてなし。早朝5時、総支配人の大滝春一さんが早速動き出した。館内にある暖房機のスイッチを入れていく。その数30台。吹き抜けの広い館内は、エアコンだけでは足元まで暖まりにくい。そこで、朝湯や朝食に向かうお客のために石油ファンヒーターを使っているのだ。
石油ファンヒーターは寒い地域の家庭でも大活躍している。
新潟市中央区に住む土佐利篤さんは「冬場はこれがないと寒くてやってられない」と言う。妻の瑠美子さんがちょっとユニークな使い方を教えてくれた。ダクトホースを使ってヒーターの温風をコタツの中に。「こたつの電気がいらないんです」。部屋もコタツも財布も暖まる「一石三鳥」の使い方だ。また、石油ファンヒーターならエアコンのように据え付けではないから、簡単に持ち運べる。とにかく使い勝手がいい。
中でも一番の魅力は「着火が早くて速く暖まる」ことだという。一般的なエアコンは、暖かい空気が上の方に溜まりやすく足元が寒い。一方、石油ストーブは、近くは暖かいが、離れたところは暖まりにくい。それらに比べて石油ファンヒーターはすぐに暖かい風が出る。しかも足元から素早く、部屋全体を暖めることができる。
さらに、灯油を燃やすと水分が発生するので、部屋の空気が乾燥しにくいという。
そんな石油ファンヒーターには、圧倒的なトップメーカーが存在する。群馬県高崎市の「ヤマダ電機 ライフセレクト高崎」で一番売れているのは、ダイニチの石油ファンヒーター。値段もほかの暖房器具に比べ、かなりお手ごろだ。
「最高で1日100台以上売れたこともある人気のメーカーです」(「ヤマダ電機」柴崎将史さん)
ダイニチの石油ファンヒーターは実に11年連続でシェアナンバー1を維持している。
ダイニチ工業の本社と工場は新潟市にある。この工場で作られる石油ファンヒーターは1日およそ8000台。しかも部品作りから塗装、組み立て、梱包まで、一貫してこの工場で行なっている。
部品の中の心臓部とも言える、ダイニチの屋台骨を支えている部品が気化器だ。この気化器で灯油を霧状にするのだが、40度以上にしないと火は付かない。そこでダイニチは、独自の技術で気化器にヒーターを取り付け、着火までの時間を大幅に短縮。これによって、業界最速の35秒という着火スピードを実現させたのだ。
斜陽産業でも絶好調~空前絶後の「ハイドーゾ作戦」
ダイニチは従業員およそ500人の中堅メーカー。新潟の小さなメーカーにすぎなかったダイニチを業界トップにまで導いたのが、二代目社長の吉井久夫(72)だ。
吉井の社長室には常に最新の石油ファンヒーターが置かれている。現在置かれている「ブルーヒーターSGX」には、今までにない機能が登載されているという。それは「ルーバー」と呼ばれる羽根の部分。
「外から見ると一段しか見えないが、実はもうひとつ裏にルーバーがあり、それがすごく効果がある。前と比べたら暖房効率が高まっていて、すごい商品なんです」(吉井)
奥にある黄色い羽根を付けただけで、温風がより遠くまで届くようになったという。
「何十年もやっていて、ルーバーは1枚つけておけばいいと思っていた。ほんのちょっとした技術の開発が重要です」(吉井)
ダイニチの技術力は、実際に商品を使ってもらえばすぐ分かるという。他社製品より速く暖かくなるだけではない。止めた時に出る灯油のイヤな臭いも、ダイニチの製品ならほとんど出ないのだ。
高い技術力を誇るダイニチだが、他社には真似のできないもう1つの武器がある。それが、「お客様から受注がきて、在庫がなければ4時間で出荷するという『ハイドーゾ生産方式』をやっております」(生産本部長・花野哲行)
ホームセンター「コメリパワー」河渡店。石油ファンヒーターは寒い日に急に売れ始める。他社は時に欠品もあるが、ダイニチの商品はほぼ欠品にならないという。
それには秘密があった。コメリが端末で欲しい商品を入力すると、オンラインで繋がっているダイニチに注文が届く。注文を受けた製品の在庫がないと自動的に警告音が鳴る。
シルバーの商品の注文を受けたとき、工場で作っていたのはブラウンの商品。商品によって天板が違うので、注文が入ると生産ラインを変えるのだという。
「段取り始め!」の掛け声から、あっという間に生産ライン変更の作業が完了。かかった時間はわずか10分たらずだ。
塗装部門でも、使っていたブラウンのスプレーが、スイッチを押すだけで、わずか2分で色を変更。組み立てラインでも、新しい機種に合わせてビスなどの位置を変更、取り付けていく。こうして受注から4時間以内で発送できる状態にしてしまうのだ。
翌日、発注した店を覗いてみると、すでにシルバーの商品が納品されていた。
「朝一で製品が不足していても、注文すれば、もう翌日には入荷しているというのが、一番我々が助かっている強みです」(「コメリパワー」富樫忠幸さん)
「ご注文頂いたら出荷口に『はい どうぞ』と届けられるように命名しました」(前出・花野)
他社が真似できない独自の技術と生産方式で、ダイニチは進化を遂げてきた。大手が撤退していく石油ファンヒーター市場で、去年、他社に先駆け累計販売数3000万台を突破。衰退する業界にありながら、売上は200億円。見事、業績をV字回復させたのだ。
「うちの会社って、物まねをしない会社だよね、と。新しい技術をつくって会社が成り立つという思いがいつもあるんです」(吉井)
こんな制度が欲しかった~女性社員に優しい職場
ダイニチは正社員率が90%以上。しかも離職率は2%にすぎない。これは派遣社員の比率が高い製造業で異例の数字だという。
その理由を、共にダイニチで働く若月慶介・奏子夫妻が教えてくれた。
会社のありがたさを実感したのは、長女が生まれたときのこと。おもちゃなど、梓ちゃん(2)のために、ちょっといい物を買い込んだという。オシャレな抱っこひもは「2万円くらい」。チャイルドシートは「6万以上しました」と言う。
ダイニチでは、社員に子供が生まれるたびにお祝い金が出る。1人目は30万円、2人目は40万円、3人目以降は50万円。なにかと物入りなときだけに、ありがたい。
「生まれる前に入院とかをすると、それだけ家計も圧迫されるから、なおさらうれしいです」
さらに子供が小学校から高校まで、進学するたびに20万円のお祝い金が出る。
働き方でも羨ましい仕組みがある。他より30分遅く始まる子育て専用ライン。働いているのは全員、3歳までの子供を持つお母さんだ。しかも夕方4時には終了。もちろん残業はない。
「時間に余裕があるので、とても助かります」「すぐ保育園に迎えに行って、夕飯前に子供と遊んだりしています」と、好評だ。
妊娠中の社員が負担なく働けるマタニティー専用の職場まで用意している。
「立ちっぱなしの仕事だときついので、座りながら無理なくできるのはありがたいです」
高い技術と社員への手厚さで快進撃を続けてきたダイニチ。しかし、ここに至るまでには苦難の歴史があった。
ダイニチは1957年、東陽技研工業として、ものづくりの町・新潟の三条で創業した。
本社のショールームにはこれまで作ってきた製品が飾られている。例えば、創業のころ作っていた灯油を使った調理用のコンロ。そして風呂釜。ダイニチはこうした加熱製品を作るメーカーだった。
1971年、業務用石油ストーブを開発し、暖房機器に参入。ススやニオイが出ない画期的な商品は、青い炎で燃えることから「ブルーヒーター」と名付けられた。
それを進化させ、80年には家庭用の石油ファンヒーターを開発。先行するメーカーが、着火まで5分以上かかっていた時代に、40秒という速さを実現。大ヒットとなった。
「家電メーカーさんより技術的なノウハウ・経験を積んできているという思いはあるから、絶対負けてないという思いは最初からありました」(吉井)
当時の雑誌『月刊消費者』(1981年11月号)の石油ファンヒーターの特集記事では、他社と比較してダイニチの製品は「点火がしやすい」「ニオイが少ない」、と評価され、三菱や日立といった大手を押しのけ、Aクラスの評価を受けていた。
だが、順風満帆なダイニチに転機が訪れる。90年代に入るとエアコンが普及。石油ファンヒーターは時代遅れと見られるようになった。業績も急激に悪化。98年には初の赤字に転落した。
衰退する業界で大増産~危機を救った感動の団結力
そんな厳しい時代にかじ取りを託されたのが、当時専務を務めていた吉井だった。
「創業以来、一度も赤字になったことはなかったから、ショックでした。これからどうするのかという思いが強かった覚えがあります」(吉井)
生き残るためには何をすればいいのか。模索する吉井に再生の道は見えなかったという。
ある日、吉井は現状を把握しようと倉庫を訪れた。そこにあったのは、うず高く積み上げられた在庫の山。「実は作った半分も売れてないんですよ」と言われた。まさに危機的状況。それはダイニチだけでなく、部品を納めてくれる協力工場との共倒れを意味していた。
「在庫処分しないと生産できない。5割、6割も在庫があるわけですから。工場稼働率が半分になるわけですよ。外注先・協力工場さん、仕事が半分で食えないわけです」
生産を続けるためには、在庫をさばかなければいけない。吉井が決断したのが、大幅値下げだった。それまで15000円ほどで売っていたものを、原価ギリギリの1万円まで値を下げて販売した。
するとこれが大当たり。20万台以上あった在庫が全て売れたのだ。このとき吉井は思った。1万円なら買ってくれる人はまだまだいる。「石油ファンヒーターが時代遅れになったわけじゃない」と。
そして常識破りの策に出る。衰退していく業界で、あえて増産に踏み切ったのだ。
当時、暖房器具メーカーは、12月に出荷を終えると、3ヶ月間はほぼ休業状態というのが当たり前だった。その常識に慣れ切った社員を吉井は説得。1年を通じて生産する体制に、切り替えたのだ。
さらに、下請けの地元企業にも協力を仰いだ。
新潟県見附市の三光社。40年以上付き合いのあるファンヒーターの電子部品を製造する会社だ。吉井は通年生産で発注量を増やす代わりに、単価を下げてもらうよう依頼した。すると、意外にも「売り上げも5割くらい増え、それに伴って利益もアップしました」(堀義則社長)。
去年の暮れ、恒例となっている協力工場との忘年会が開かれた。苦しい時代をともに生き延びてきた同志たち。会場は笑顔にあふれていた。
「お互いに儲けましょう、お互いに立派に成長しましょうという考えで経営されていると思うんです。だからみんなファンなんですよ」(森井紙器工業・森井康社長)
「自分だけが儲かるだけじゃなくて、仲間が喜んでくれるのは生きがいで励みですよね。
要するに協力工場さんも含めて、みんなの会社です」(吉井)
この団結力こそダイニチの原動力だ。
トップシェアは他にも~問題を解決する驚き商品
ダイニチは日本の農業も支えていた。
新潟市江南区の清野農産。ビニールハウスで育てられているのは、新潟イチゴのトップブランド「越後姫」。このイチゴ農家の悩みをダイニチが解消したという。
この道60年の清野長栄さんは、日照時間が短い新潟ではイチゴが育ちにくいと悩んでいた。それを解決したのが、ダイニチが開発した「光合成促進機」(14万400円)だ。
イチゴが光合成して成長するには二酸化炭素が必要になる。しかし、閉鎖されたハウス内では二酸化炭素が不足してしまう。この機械は、灯油を燃やして二酸化炭素を出し、光合成を助けるという。
収穫したものを比べてみると通常の3倍に成長。しかも糖度も増して、イチゴの商品価値も上がった。
「非常にイチゴ栽培には助かっています」(清野さん)
ダイニチには、石油ファンヒーター以外にも、国内でトップシェアを取っている商品がいろいろある。「ハイブリッド式加湿器」、スモークマシーンの「ポータースモーク」……。石油ファンヒーターで培ったダイニチの技術は、様々な分野で実を結んでいる。
~村上龍の編集後記~
1970年代末に登場した石油ファンヒーターだが、その後、エアコンの普及などにより、将来性が揺らぎ、大手家電はすべて撤退した。
ダイニチは、売上げ約200億円の中堅企業だが、衰退しつつあった市場にあって、製品を進化させ続け、長年にわたってトップシェアを、誇っている。
潜在需要を見越したのか、あるいはダイニチが需要を喚起、維持させたのか、わからない。ただダイニチは、撤退するわけにはいかなかったのだ。
もの作りの街・三条で誕生したダイニチは、人々に心地よい温かさを提供し続け、縮小する市場を守り抜いた。
<出演者略歴>
吉井久夫(よしい・ひさお)1947年、大阪府生まれ。1969年、芝浦工業大学を卒業後、吉井電気店に入社。1973年、ダイニチ工業入社。1999年、社長就任。
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