新型コロナウイルスの感染拡大は、何事も安易に国任せ、他人任せにして良いのか、ということを改めて世の中に問い質したように個人的には思う。「誰が当選しても日本は変わらない」と言わんばかりの低い投票率の国政選挙が続き、政策に耳を傾け拘るよりも単なる「知名度」や惰性で選び続けた感が強い政治家が、与野党共に何期も続けて永田町に蔓延り、その結果として現在の日本の国家運営がある。新型コロナウイルスの現在の感染状況やその対応策はその一つの結果に過ぎない。賛否が分かれた緊急事態宣言下でのオリンピックやパラリンピックの開催、それも元を辿れば理論上は国民一人一人が信任した政治家達の判断や活動の結果であり、国家運営の諸判断を国民が「信じて託した」結果として受け入れるべきものだ。
もし本当に過半数を超える信任がある人達に国家運営を任せているのなら、賛成派と反対派による世論の分断は起きないのが理屈。少なくとも多数派(与党系)と少数派(野党系)は明確なはずだ。勿論消去法的に選択の余地がなくて投票したという人、或いは棄権したという人にとっては違う見解もあるとは思うが、選挙で全員が意思表示をし、結果は自己責任として跳ね返るというのが民主主義の基本である。
「運用力は組織で強化できるものではない」
こう考えてみると、自分の大切な虎の子で行う資産形成や資産運用という投資活動の本来自ら行うべき日常の投資判断から売買執行手続き、そしてその運用管理を「(他人を)信じて託する」投資信託を選ぶことは、実は国政選挙で国家運営を任せる候補者選びとその投票行為に似ている。似ていると言えば、保有する株式の株主として取締役の選任決議を行う議決権行使も同様だ。何か一つの案件や課題について評決するのではなく、今後発生する諸問題に対して、自分に変わって都度々々適切な判断をしてくれる取締役を選ぶということは、正に投資信託選びと要点は同じだ。候補者が掲げる政策や所属政党が示すマニフェストなどが、投資信託でいうなら目論見書であり、販売用資料ということになろう。