「人的資本」あるいは「人的資本経営」という言葉を、最近よく耳にするようになりました。政府が2023年度に有価証券報告書で人的資本情報の記載を義務付ける方針を示したほか、2021年6月に東京証券取引所が「コーポレートガバナンス・コード」の開示項目に人的資本に関する情報を追加するなど、人的資本は企業経営におけるトレンドの一つとして関心を集めています。
一方で、人的資本という言葉は抽象度が高く、人によってさまざまなとらえ方があります。人的資本を真に企業の成長ドライバーとしていくためにも、その言葉の意味や、その情報開示が社会的に要請されている背景などを正しく理解する必要があります。
本記事では人的資本の定義や注目される背景、人的資本情報開示のメリット、企業価値の向上を実現する人的資本経営のポイントまでを説明していきます。
人的資本とは
そもそも「人的資本」とは何でしょうか?なぜ「資本」という言葉を用いるのでしょうか?まずは、その定義について正しく理解しましょう。
人的資本の定義
「人的資本(Human Capital)」の定義は国際機関や各国の会計基準などによってさまざまで、統一されたものはありません。
経済協力開発機構(OECD)が2001年に発表した定義では、人的資本とは「個人の持って生まれた才能や能力と、教育や訓練を通じて身につける技能や知識を合わせたもの」(*)としています。
*Brian Keeley,Human Capital: How what you know shapes your life,OECD Publishing,2007.
ただし、「実業界においては人的資本の概念をもっと狭く定義する傾向がある」とした上で、「主に企業や特定産業の成功に直接的に関わる労働力の技能や能力と見なされている」と説明しています。
人的資本の概念の歴史
「人的資本」の概念の歴史は古く、18世紀にまでさかのぼります。「経済学の父」と呼ばれるアダム・スミスは、『国富論』において「特別な技能と熟練を必要とする職業のために訓練された人材の教育コストは、それと同等に価値のある資本の利潤によって回収できる」という考えを示しました。
その後、20世紀に入り「人的資本」はセオドア・シュルツやゲーリー・ベッカーなどの経済学者によって、経済学のフレームを用いて体系化されていきます。一例として、ベッカーは「全ての投資の中で一番価値のあるものは、人的資本への投資である」との考えを『人的資本』で示しました。
人的資本と人的資源の違い
企業の人材戦略において広く浸透した用語に「人的資源」があります。「人的資本」は、人的資源と何が異なるのでしょうか。
「資源(Resource)」も「資本(Capital)」も、企業活動を行う上で必要不可欠なものであることに変わりありません。ただ、「資源」は「既に持っているものの価値や総量が変わらない」ことが前提とされており、「限りあるものをいかに効率よく消費するか」という点に重きが置かれています。
それに対して「資本」は、「持っているものは増やせる(価値を高められる)」ことが前提とされており、「いかに持っているものの価値を高めるか」という点に重きが置かれています。
言い換えると、両者には以下のような大きな違いがあります。
人的資源:限りある資源を効率的に配分・運用する「管理(Administration)」志向の概念
人的資本:教育、研修、業務などを通じて人材の価値を高める「価値創造(Value Creation)」志向の概念
このことは、人的資本を理解する上で重要なポイントの一つです。
人的資本経営とは
「人的資本」という言葉に「経営」を組み合わせた、「人的資本経営」という用語があります。経済産業省は、人的資本経営を以下のように定義しています。
人的資本経営とは、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方です。
引用元:経済産業省
つまり、人的資本経営とは、社員に対してスキルアップの機会やリーダーシップを発揮できる環境を提供することで人的資本の価値を高め、企業価値の向上を図ることです。
その際、人事に関する戦略を企業の経営戦略、ひいては存在意義(パーパス)と連動させる必要があります。
人的資本が注目される5つの背景
人的資本が企業経営においてクローズアップされるようになったのはなぜでしょうか?その背景を、大きく5つの観点から整理します。
1.「メンバーシップ型雇用」から「ジョブ型雇用」への転換
日本企業では、終身雇用や定年制を前提とし、年功序列でキャリアステップしていく「メンバーシップ型雇用」といわれる雇用制度が長く採られていました。
長期的な雇用を保障することは、日本企業の強さの源泉でもありました。しかし、近年ではその役職のミッションを遂行するのに必要なキャリアやスキルと、年次によって任命された人材のキャリアやスキルとの間にミスマッチが生じ、企業の成長の阻害要因となっています。
ジョブ型雇用が日本でも注目され始めている
こうした中で、役職を務める上で必要とされるキャリアやスキルを可視化し、それを満たした人材を年次に関係なく登用する「ジョブ型雇用」への移行が大企業でも進められています。
ジョブ型雇用では、「職務記述書(ジョブディスクリプション)」によって職務内容や責任の範囲、求められるスキルなどを明示するため、企業にとって必要な人材像が明確になります。
日本でもジョブ型雇用に目が向けられてきたことから、人材の価値創造を促す人的資本が注目されているという背景があります。
2.労働における価値観の多様化
働き方改革関連法の施行もあり、近年ではリモートワークの普及や副業の解禁など、働き方が多様化しています。従業員一人ひとりの価値観やライフスタイルはさまざまで、それぞれが自身にあった働き方を求めるようになっています。
また、女性や高齢者、障害者、外国人など多様な人材を受け入れ、組織の多様性(ダイバーシティ)を確保することが社会からも要請されています。
従業員の価値観やライフスタイルを受け入れて多様なワークスタイルを用意し、組織のダイバーシティを確保することは、ひいては優秀な人材確保や企業の成長を後押しすることにつながります。
3.企業運営における無形資産の価値の向上
次の図表は、米国に上場する主要500銘柄の株式指数「S&P500」の市場価値に占める有形資産(施設、設備など)の割合の推移を示しています。見ての通り、有形資産の割合が年々低下しており、財務諸表に表れない「無形資産」の割合が相対的に高まっています。
<S&P500」の市場価値に占める無形資産の割合>
このように、近年では企業がイノベーションを生み出し、企業価値を高める源泉が、施設・設備といった有形資産から、知的財産やブランド、人的資本といった無形資産へとシフトしています。
4.ESG投資への関心
近年の企業経営においては、環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の頭文字を取った「ESG」の領域での取り組みが、企業経営のサステナビリティ(持続可能性)の観点から重視されています。これにより、国内外でESG投資への関心が高まっています。
世界の3,800以上の機関が署名する国連責任投資原則(Principles for Responsible Investment:PRI)にも、「ESG の問題を投資分析と意思決定プロセスに組み込む」ことが原則の一つとして盛り込まれています。日本における最大の機関投資家である年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)も、2015年にPRIに署名しています。
ESG投資の「S(Social)」における中心的な要因が人材であり、人的資本への投資を指します。
5.企業をとりまくステークホルダーからのニーズの高まり
投資家をはじめとするステークホルダーもESG領域を含む無形資産を重視する傾向にあり、人的資本に関する情報開示を求める動きが高まっています。
その端緒となったのが、2018年の国際標準化機構(ISO)による人的資本のレポートに関する国際的なガイドライン「ISO30414」策定です。
2020年8月には米国証券取引委員会が人的資本に関する情報開示を義務付ける改正を行い、2021年4月には欧州委員会が非財務情報開示指令の改正案を公表するなど、人的資本の開示を求める動きが世界的に進みました。
日本でもESGに関する取り組みが拡大
世界的な潮流を受け、日本国内では経済産業省が2020年1月に「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」を発足しました。
人材戦略に関する経営陣、取締役、投資家それぞれの役割や、投資家との対話のあり方などについて検討を重ね、同年8月に『持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書(人材版伊藤レポート)』として公表しました。
また、2021年6月には東京証券取引所が上場企業の企業統治(コーポレートガバナンス)におけるガイドラインである『コーポレートガバナンス・コード』を改訂し、人的資本の開示を求める事項を追加しました。
その一例として、次のような項目が盛り込まれています。
・経営戦略に照らして取締役会が備えるべきスキル(知識・経験・能力)と、各取締役のスキルとの対応関係の公表
引用元:日本取引所グループ「改訂コーポレートガバナンス・コードの公表」
・管理職における多様性の確保(女性・外国人・中途採用者の登用)についての考え方と測定可能な自主目標の設定
・多様性の確保に向けた人材育成方針・社内環境整備方針をその実施状況とあわせて公表
企業をとりまくステークホルダー、とりわけ投資家から人的資本の開示を求める声が高まり、各機関もそれに呼応して人的資本情報開示の指針を策定・公表しています。この潮流が、上場企業を中心に、人的資本開示に取り組む直接的なインパクトをもたらしています。
人的資本の開示とは
注目が高まる人的資本ですが、冒頭でもご紹介した通り政府が2023年度の有価証券報告書から企業に人的資本情報の記載を義務化する方針を示しました(*)。具体的にどのような項目を開示することが、投資家をはじめとするステークホルダーから要請されているのでしょうか。
*「非財務情報の有報記載義務、岸田首相『秋ごろ内容示す』」日本経済新聞、2022年7月5日
「ISO30414」で定められている人的資本
人的資本についての国際的なガイドラインである「ISO30414」では、定めるべき人的資本の内容について以下の11項目を定めています。
- コンプライアンスと倫理
- 費用
- 多様性
- リーダーシップ
- 組織文化
- 組織の健康、安全、福利
- 生産性
- 募集、流動性および離職率
- スキルと能力
- 継承計画
- 労働力の可用性
人的資本の主な6つの項目
開示項目 | 主な内容 |
---|---|
人材育成 | ・研修時間 ・研修費用 |
従業員エンゲージメント | ・従業員エンゲージメント |
流動性 | ・離職率 ・定着率 |
ダイバーシティ(多様性) | ・属性別の従業員・経営層の比率 ・男女間の給与の差 |
健康安全 | ・労働災害の発生件数 ・対象となる従業員に関する説明 |
コンプライアンス・労働慣行 | ・人権レビュー等の対象となった事業(所)の総数・割合 |
次に、人的資本に関連する主な開示項目を見てみましょう。ここでは、2022年8月に内閣官房が公表した「人的資本可視化指針」を参考に、国内外の主な評価機関が策定している人的資本開示項目から主要なものをピックアップして紹介します。
1.人材育成
研修・人材開発の実施状況や、それがパフォーマンスにもたらす効果などに関する開示項目です。
- 研修時間
- 研修費用
- パフォーマンスとキャリア開発につき定期的なレビューを受けている従業員の割合
- 研修参加率、複数分野の研修受講率
- リーダーシップの育成
- 研修と人材開発の効果 など
2.従業員エンゲージメント
従業員の満足度に関する開示項目です。
- 従業員エンゲージメント
3.流動性
人材の離職率・定着率などの流動性に関する開示項目です。
- 離職率
- 定着率
- 新規雇用の総数・比率
- 採用・離職コスト
- 人材確保・定着の取組の説明 など
4.ダイバーシティ(多様性)
企業・組織のダイバーシティ(多様性)の確保に関する開示項目です。
- 属性別の従業員・経営層の比率
- 男女間の給与の差
- 正社員・非正規社員等の福利厚生の差
- 最高報酬額支給者が受け取る年間報酬額のシェア等
- 育児休業等の後の復職率・定着率
- 男女別育児休業取得員従業数 など
5.健康安全
従業員の健康や安全管理に関する開示項目です。
- 労働災害の発生件数・割合、死亡数等
- 医療・ヘルスケアサービスの利用促進、その適用範囲の説明
- 安全衛生マネジメントシステム等の導入の有無
- 対象となる従業員に関する説明
- 健康・安全関連取組等の説明
- (労働災害関連の)死亡率 など
6.コンプライアンス・労働慣行
人的資本に対するコンプライアンスの遵守・労働慣行に関する開示項目です。
- 人権レビュー等の対象となった事業(所)の総数・割合
- 深刻な人権問題の件数
- 差別事例の件数・対応措置
- 団体労働協約の対象となる従業員の割合
- 業務停止件数
- コンプライアンスや人権等の研修を受けた従業員割合 など
人的資本開示のメリット3つ
人的資本開示の取り組みは、ともすると「ステークホルダーからの開示要請に対応しなければならないもの」とネガティブに捉えられがちです。しかし、企業が人的資本に関する情報を開示することは、企業にとって大きく3つのメリットをもたらします。
1.投資家・市場の評価の向上
自社の人材のポートフォリオや人材戦略を「見える化」する姿勢を積極的に示すことで、経営の透明性が向上し、市場の評価も高まります。
また、人的資本情報の開示によって、投資家をはじめとするステークホルダーとの対話が生まれ、企業価値の向上につながる有益なフィードバックを得られるというメリットもあります。
2.優秀な人材の採用
人的資本の開示を積極的に行うことは、採用の面でも大きなメリットをもたらします。
新卒採用市場、中途採用市場の双方において、企業のESGへの取り組みが企業選びの判断軸の一つになりつつあります。企業がダイバーシティ、人材育成、健康管理など人的資本に対する取り組みを開示することで、優秀な人材の確保につながることが期待されます。
3.従業員エンゲージメントの向上
社内に向けたメリットとしては、従業員エンゲージメントの向上が挙げられます。
米ギャラップ社の調査「State of the Global Workplace」(2017年)によると、日本の「熱意あふれる社員(engaged)」の割合は6%で、調査対象 139 カ国中 132 位という低水準です。
企業が多様な価値観を受け入れ、従業員の自律的なキャリア形成やスキルアップを後押しする姿勢を見せることで、従業員のエンゲージメント向上をもたらし、離職率の低下などにつなげることが期待されます。
人的資本を効果的に高める4つのポイント
人的資本を高め、企業価値の向上につなげるためのポイントは何でしょうか?ここでは4つのポイントをピックアップして解説します。
1.人的資本への投資に関するコンセンサス形成
まず、人的資本を高める施策を検討・実施する前提として、人的資本への投資を強化することに対して社内のコンセンサスを形成することが出発点となります。
先に述べたように、従来の人的資源では「限りあるものをいかに効率よく消費するか」という観点から、抑制すべきコストとみなされてきました。人的資本への投資によって企業価値を向上することは、人的資源からの大きな転換を意味します。
したがって、人事部門のみならず社内の全部門がその重要性を理解・共有することが、人的資本経営を進める上での出発点となります。
2.経営戦略と人事戦略を連動させる
繰り返しになりますが、人的資本を効果的に高めるためのポイントは、経営戦略と連動した人事戦略を構築して実施することです。
例えば、企業が経営戦略においてデジタルトランスフォーメーション(DX)の強化を打ち出していたとします。にもかかわらず、IT人材の育成や採用といった人事戦略が伴っていなければ、DXを遂行する姿勢を疑われてしまいかねません。
人事戦略における人材育成、採用、多様性確保などの施策が経営戦略の各施策と連動し、そのゴールの達成に資するものでなければなりません。
3.経営戦略に沿った社員のリスキリング
経営戦略と人事戦略をリンクさせることで、今後注力する事業領域の推進に必要なスキルが明確化されます。逆に、縮小していく事業領域において必要とされてきたスキルが、今後は不要となることもあるでしょう。
経営戦略に沿って全社的なスキルの要・不要を棚卸しした上で、社員に対して今後必要とされるスキルの習得を後押しするリスキリングも、人的資本を高める上で重要なアプローチです。
4.HRテクノロジーを活用する
非財務情報である人事情報は定量化がしにくく、機密性や閉鎖性の高さ故に社内で埋もれがちです。しかし、近年ではその人事情報を定量化して社内で共有するためのHRツールが登場しています。
その一例として、HRテックベンチャーのパナリットでは、採用、給与、評価などの人事データを統合・分析し、KPIを可視化するBI(ビジネスインテリジェンス)ツールを提供しています。
組織の成長性や健全性など、100種類もの主要指標を標準装備した「人事の財務諸表」ともいえるもので、大手企業をはじめ多くの企業が導入し、経営戦略と連動した人事戦略の策定に活用しています。
人的資本を高め企業価値を向上させよう
人的資本について、言葉の定義から注目される背景、人的資本開示の項目、人的資本経営のポイントまで解説してきました。
繰り返しますが、人的資本の開示項目に沿って形式的に目標を設定して施策を実行しても、それが経営戦略と連動していなければ絵に描いた餅になってしまいます。
『人材版伊藤レポート』では、「何よりも、各企業の経営陣が率先して、企業理念や存在意義(パーパス)に立ち戻り、目指すべき将来のビジネスモデルや経営戦略からバックキャストして、保有する経営資源との適合性を問う必要がある」と述べられています。
人的資本の観点から自社のビジネスモデルのPDCAサイクルを回しながら、中長期的な企業価値の向上を図っていくことが、企業に求められる人的資本経営の本質といえるでしょう。