状況に対する感情や感覚を表現するために、どのような言葉を当てはめるか、どのように言葉をマッチングさせるか。これこそが「言葉のセンスの正体」と言っていいのかもしれません。
そこで重要になってくるのが、物事の感じ方です。物事に対して何も感じない人、何も見えていない人は、言葉のセンスも何もあったものではありません。
たとえば、何を食べても味の違いがわからない人は、味の表現に苦労します。物理的に味覚が損なわれているのでなければ、感覚を研ぎ澄ますことで、浮かび上がってくる言葉があるはずです。
『プレバト!』でも感覚のいい句が刺激になります。「夏休みの宿題」という題での、フジモンさんの「マンモスの滅んだ理由ソーダ水」は私のお気に入りです。ソーダ水を飲みながら、マンモスについて自由研究している情景が浮かびます。フジモンさんに伺ったら、大変苦労して句作している、とのことでした。
「言葉は差異の体系」と指摘するソシュールの構造言語学
ちょっと難しい物言いになりますが、言葉というのは差異の体系、違いで成り立っています。これを指摘したのが構造主義言語学を提唱したスイスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールでした。
簡単に言うと、言葉というのは1つの意味を持っているのではなく、いくつかの言葉がセットになって、その違いによって深い意味が生まれると言っているのです。
もっと具体的に言うと、雪になじみのない地域の人にとって、雪は雪でしかないと思いがちです。しかし、雪国の人にとっては、雪にもたくさん種類があるのです。太宰治の傑作『津軽』の冒頭の一節 ―― 。
津軽の雪
(『津軽』新潮文庫)
こな雪
つぶ雪
わた雪
みず雪
かた雪
ざらめ雪
こおり雪
(東奥年鑑より)
7つの雪が説明もなく、単語のみ記されますが、その語感でイメージが湧いてきます。新沼謙治さんも『津軽恋女』という歌で同様のフレーズを歌われています。
静岡県出身の私にとって、雪が積もるのは10年に1回くらいのことでした。18歳まで静岡で暮らしていましたが、その間、雪が積もったのは2回ほどで、雪はあくまで雪でしかなかったのです。
そんな私には、雪という言葉に関してセンスを発揮するのは難しいことでした。しかし、こうした太宰治のフレーズに接して、雪にも差異、違いがあることを知りました。さまざまな雪の表現を知ることによって、言葉をセレクトし、センスを発揮することができるわけです。
同じような例に、色の表現があります。赤、青、黄などという単なる色彩の分類ではなく、たとえばうぐいす色というと、鳥のうぐいすのような少し味わい深い緑色、あるいは、うぐいす餅のような、ほんのり淡い緑色などを思い浮かべることもできます。
こうした言葉を知っておくだけでも、言葉選びの引き出しが増え、うまく使えばセンスが違うと高く評価されるかもしれません。