本記事は、齋藤孝氏の著書『教養のある人がしている、言葉選びの作法』(ぱる出版)の中から一部を抜粋・編集しています。
文学作品から学ぶ言葉のセンス
夏目漱石、谷崎潤一郎の羊羹の描写力
これまでいくつかの古典や俳句・詩も含めた文学作品を取り上げ、作家や俳人・詩人の言葉のセンスの素晴らしさに言及してきました。ここでもセンスの光る発信例としていくつかご紹介していきます。
やはり作家の作家たるゆえんはユニークな着眼点、そして美しい描写力にあります。作家の目を通すと、このような表現になるのだという驚きがあります。
たとえば和菓子の羊羹について ―― 。
夏目漱石は『草枕』で次のように描写します。
余は
(『草枕』新潮文庫)凡 ての菓子のうちで尤 も羊羹が好 だ。別段食いたくはないが、あの肌合 が滑らかに、緻密 に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上 げ方は、玉 と蠟石 の雑種の様で、甚 だ見て心持ちがいい。のみならず青磁 の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れた様につやつやして、思わず手を出して撫 でて見たくなる。
こうした漱石先生の羊羹についての描写を受け、谷崎潤一郎はさらに羊羹の色合いについて深く考察します。
かつて漱石先生は「草枕」の中で
(『陰翳礼讃』中公文庫)羊羹 の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉 のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器 に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添 わるように思う。
青い練羊羹の肌合いを一種の美術品のようだと言い、その青みを帯びた練上げ方は玉と蠟石の雑種だという比喩、そして青磁の皿に盛るとさらに際立つという漱石の視点。そうした漱石の羊羹への賛美を受け、羊羹の肌合いや色を瞑想的だとし、漆器の器に入れれば、陰翳を伴い、ひとしお瞑想的で味に深みを添えるという谷崎潤一郎の感性に圧倒されます。また先達の文言を味わいつつ引用し、自分なりの見方を加えるというこの手法は、言葉や文体等のセンスを磨くのに有効です。
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は、陰翳、すなわち陰の素晴らしさを重んじる日本独特の感性について審らかにした画期的なエッセイです。日本のトイレである厠の素晴らしさ、日本の器である漆器の美しさなどを取り上げて、陰や闇が私たち日本人の暮らしにもたらす効用を明らかにしています。
私は高校時代にこの作品を読んで、陰翳をこんなにも絶賛し、1冊の本に書ききってしまう谷崎潤一郎の言葉のセンスに驚かされたことを覚えています。
川端康成、三島由紀夫に学ぶ日本語の美しさ
川端康成の『伊豆の踊子』などは、そのタイトルからしてセンスがいい感じがします。
『伊豆の女芸人』では品もセンスのかけらもありませんが、これが「踊子」となると、若さや純粋さも感じさせます。
冒頭の書き出しも印象的です。伊豆の地形、そして学生と旅芸人である踊子たち一行とが、急な雨による足止めによって出会うシーンが描かれます。
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、
(『伊豆の踊子』新潮文庫)雨脚 が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓 から私を追って来た。
そしてラストシーンでは主人公が、頭の中が洗われる感じで泣くのです。
私は涙を出
委 せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零 れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。
作品全編にわたる表現が、川端康成ならではのセンスにあふれています。
名作『雪国』のあまりにも有名な冒頭の一節も見事です。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
(『雪国』新潮文庫)
「国境」を「こっきょう」と読むか、「くにざかい」と読むか、語感でイメージが変わります。主語がないのも日本語らしくていい。主客未分の世界です。英訳では、トレイン、列車が主語になっていますが、微妙に味わいが失われます。
場面は展開し、「であった」「なった」「止まった」と文末を揃えて、リズムを作り、読者を「雪国」の舞台に引き込んでいきます。
たんに「夜」ではなく、「夜の底」という言葉のセンスにも惚れ惚れします。ストーリー以前に日本語の美しさ、その文体に圧倒されて読んだものです。
そして三島由紀夫の『金閣寺』 ―― 。
金閣はだんだんに深く、堅固に、実在するようになった。その柱の一本一本、
(『金閣寺』新潮文庫)華頭 窓、屋根、頂きの鳳凰なども、手に触れるようにはっきりと目の前に浮んだ。繊細な細部、複雑な全容はお互いに照応し、音楽の一小節を思い出すことから、その全貌が流れ出すように、どの一部分をとりだしてみても、金閣の全貌が鳴りひびいた。
美の象徴として金閣寺は現れますが、その描写の言葉の一つ一つが光って見えます。やはり作家の感性というものは、普通の人間のセンスとは一味違います。
評論、コメント力にも優れた三島由紀夫
変わったところでは『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』という古い本があります。1964年に初めて日本で行われた東京オリンピックについて、佐藤春夫や井上靖、獅子文六、大江健三郎など錚々たる文学者が数多く書いています。
この中でやはり秀逸なのが、三島由紀夫のスポーツ競技に対するコメント力です。
「完全性への夢」というタイトルの文章の一節 ―― 。
体操ほどスポーツと芸術のまさに波打ちぎわにあるものがあろうか? そこではスポーツの海と芸術の陸とが、微妙に交わり合い、犯し合っている。満潮のときスポーツだったものが、干潮のときは芸術となる。そしてあらゆるスポーツのうちで、形(フォーム)が形自体の価値を強めれば強めるほど芸術に近づく。
(『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』講談社文芸文庫。
以下、同作品の引用はすべて同書より)
体操では、形は形それ自体のために重要なのだ。これを裏からいえば、芸術の本質は結局形に帰着するということの、体操はそのみごとな逆証明だ。
形が本質である。速さや強さ、量を競うのではなく、形そのものが目指すべきものだと三島由紀夫は言っています。これは1964年の東京オリンピックの日本の体操選手についてのコメントですが、今でも十分通用する内容です。
私には「美しい体操」を実践した史上最高の体操選手、内村航平選手を讃える文章にも思えます。時代を超えた表現、言葉のセンスがここにあります。
日本女子バレーボール「東洋の魔女」についても次のように表現しています。
彼女が前衛に立つとき、水鳥の群れのなかで一等背の高い水鳥の指揮者のように、敵陣によく目をきかせ、アップに結い上げた髪の乱れも見せず、冷静に敵の穴をねらっている。
水鳥の群れの中のいちばん背の高い水鳥のようにという比喩表現は卓抜で、「バレーボールを見ながらそんなことを感じるのか」と驚いてしまいます。やはり文学者のセンスは尋常ではない。そこが面白いところです。
2021年に開催された東京オリンピックでは、果たしてこうした優れた表現は生まれたでしょうか。1964年の東京オリンピックでは、オリンピックを記録に残すだけでなく、文学にまで高めようとした熱気があったことがよくわかります。
スポーツというのは基本的には肉体表現ですが、これを言葉にするために、文学者の本領が発揮される領域なのだとつくづく感じます。
詩人まど・みちお、俳人・歌人坪内稔典の言葉のセンス
現代詩では、まど・みちおさんそして現代短歌では、俳人・歌人の坪内稔典さん、2人の言葉のセンスを紹介します。
まど・みちおさんと言えば、やはり『やぎさんゆうびん』 ―― 。
しろやぎさんから おてがみ ついた
(『まど・みちお詩集』岩波文庫。以下、『ぞうさん』『つぼ』も同書より引用)
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
─さっきの おてがみ
ごようじ なあに
誰もが口ずさんだことのある、この短い詩。易しい言葉しか使っていないのに、絶対的に面白く笑えます。
そして、これまた誰もが知っている『ぞうさん』 ―― 。
ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ
短い詩が会話になっています。ちょっといじわるに「あなたは鼻が長いわね」と言われているのに、「お母さんも長いのよ」と無邪気に返している、この面白さ。奥深い内容を易しい言葉で表現できるのは、まどさんならではと言えます。
ほかにも、『つぼ』という詩の連作が私は好きです。
『つぼ・Ⅰ』
つぼを 見ていると
しらぬまに
つぼの ぶんまで
いきを している
『つぼ・Ⅱ』
つぼは
ひじょうに しずかに
たっているので
すわっているように
見える
「つぼと一緒に呼吸している」とか、「つぼが座っているように見える」と言った詩人はまどさんが初めてでしょう。
まどさんは104歳で亡くなられましたが、夫婦でちょっとボケてきたことをユーモラスな詩に残しています。
『トンチンカン夫婦』
(『いわずにおれない』集英社be文庫)
満 91歳 のボケじじいの私 と
満84歳のボケばばあの女房 とはこの頃
毎日競争 でトンチンカンをやり合っている
私が片足 に2枚 かさねてはいたまま
もう片足の靴下 が見つからないと騒 ぐと
彼女 は米も入れてない炊飯器 に
スイッチを入れてごはんですようと私をよぶ
おかげでさくばく たる老夫婦 の暮 らしに
笑 いはたえずこれぞ天の恵 みと
図にのって二人ははしゃぎ
明日 はまたどんな珍 しいトンチンカンを
お恵みいただけるかと胸 ふくらませている
厚 かましくも天まで仰 ぎ見て…
ボケた行動を夫婦で「トンチンカンだね」と言って笑ってすます。気楽な音にも聞こえる「トンチンカン」をタイトルに持ってくるところにも、言葉のセンスを感じさせます。
坪内稔典さんもすごくセンスのいい俳句や短歌を作られます。お会いしたこともありますが、作風そのものの飄々とした楽しい方です。
老人はすぐかっとなる庭に来てアゲハがすぐに立ち去るように
(『雲の寄る日 坪内稔典歌集』ながらみ書房)
魚屋のサバとイワシに立っていてしばらくたって買ったのはタコ
内省の視点、日常のふと笑える行動が詠われています。楽しく笑えて、ちょっと深い、そんな現代短歌、現代俳句の世界でお気に入りの歌や句を探して、センスあふれる言葉の世界に浸るのもいいと思います。
自分の文体や視点、スタイルを定める大切さ
言葉のセンスは、やはり文学を通して磨く方法が王道です。古典、俳句や短歌、詩、そして小説といった、さまざまな領域の文学を読み、日本語の美しさ、素晴らしさを味わうことから始めましょう。
引用という手法をオススメしましたが、これを続けていくと文体のセンスも磨かれます。夏目漱石や谷崎潤一郎、三島由紀夫といった文豪には、彼らなりの言葉遣いと文体があります。太宰治には太宰治の文体、坂口安吾には坂口安吾の文体があるのです。
こうした言葉遣いや、文体の一つひとつをスタイルとして真似ていくのです。
滝沢カレンさんも、文体や文章のスタイルを確立しています。擬人法を用いた表現の中に自分の感覚を押し込み、独自な表現で攻め続ける ―― 。これも1つの手法かもしれません。
そして滝沢カレンさんも、「本を読むことがすごく好き」とおっしゃっていました。
読書を通して、センスのいい言葉遣いや文体を採り入れながら、「自分なりの言葉遣い、自分の文体、自分の視点とは何だろう」と模索していくことが重要なのです。
翻訳でもセンスを発揮する谷川俊太郎、村上春樹
詩人の谷川俊太郎さん、作家の村上春樹さんは、それぞれの作品でも卓越した言葉のセンスを発揮されていますが、このお二人に共通しているのは、翻訳での言葉選びの見事さです。
谷川さんは『マザー・グース』やスヌーピーシリーズのコミック『ピーナッツ』の翻訳でも注目されました。印象に残っているのは、ため息の表現である「sigh」を「はぁ」とか「ふぅ」ではなく、「やれやれ」と訳されたこと。中学生だった私は、「ヘー、そんなふうに訳すのか」と驚き、詩人の言葉のセンスに感心したものです。
村上春樹さんも翻訳の達人です。彼が訳したレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』のセリフはことごとくカッコいい。主人公のフィリップ・マーロウのつぶやきがいいのです。
なにをもってしても、彼のコーヒー作りの手順を乱すことはできない。拳銃を手に目を血走らせた男をもってしても。
「好きでも嫌いでもない」と私は言った。「好き嫌いが言えるほど人柄を知らないからね。(中略)さっきも言ったように、私にとってこれはただの仕事だ」
(『ロング・グッドバイ』ハヤカワ・ミステリ文庫)
自分のライフスタイルや仕事に忠実なその姿勢がマーロウの言葉遣いに表れています。作者のレイモンド・チャンドラーの言葉のセンスと、作家で名翻訳家の村上春樹の原文を活かした丁寧な翻訳が相乗効果をもたらしています。ストーリーも面白いのですが、言葉、セリフが立っているのです。これはチャンドラーがアルフレッド・ヒッチコック監督の映画『見知らぬ乗客』などの脚本家だったことも影響しているのでしょう。