本記事は、和田秀樹氏の著書『70歳からのボケない勉強法』(アスコム)の中から一部を抜粋・編集しています。
生活にイレギュラーの要素を取り入れる
中高年が何かを学ぶ上で大切なのは義務感を持たず、学ぶプロセスを楽しむこと、と述べてきました。ところが「学びのスタートライン」にさえ立とうとしない人がいます。
作家の五木寛之さんには、人生をマラソンにたとえたエッセイがあります。そこで五木さんは、沿道で小旗を振って応援する人ではなく、いつまでもマラソンランナーでいたい、と述べていました。
つねに現役でいたいという意欲を象徴しているのでしょう。
実際のマラソンレースで小旗を振る人はともかくとして、物事において、「走ろう=学ぼう」という意欲がないためにもっぱら傍観者になっている。私はそのような人を「ボー観者」と呼んでいます。ボーッと見るだけの人という意味です。
彼らは、間違いなく新現役時代を寂しいものにしてしまうでしょう。
「ボー観者」の基本スタイルは、100%受け身です。
このスタイルの問題点は、「あれ?」「へえー!」と感じても、ほとんどの場合、得られた入力情報に対して思考を巡らせ、そのことを記録したり、他人に発言したりする出力行為がありません。
自分が感知したせっかくの情報もただ頭の中を通過するだけ。脳の中に定着することなく消滅してしまいます。
こうしたスタイルは、「もっと見てみよう」「さらに聞いてみよう」といった新しいことへの積極的なアプローチの芽を摘むことになります。
何かを試そうという感情が弱くなってしまうわけですから、当然、外出(=移動)、人との会話の機会も減ります。足腰の筋肉量も相応に減少してきます。
60代、70代になり、意欲の低下を自覚しても、日常生活に支障がないと高をくくり、「年だから」とそうした現実から目をそらすようになります。
こうした意欲の低下傾向は放ったままにしておけば、どんどん悪化していきます。
ボー観は「勉強」の大きな阻害要因なのです。
生活に「イレギュラー」の要素を取り込む
では、意欲の低下をストップさせるためはどうすればいいのでしょうか。まず、その原因を考えてみましょう。
意欲低下の大きな原因のひとつに「生活ルーティン」の定着が挙げられます。
こうした傾向は、年を重ねるごとに強まります。
毎日、同じ時間に起きて、食事をして、散歩をして、新聞や本を読む、スマホを見る……。いってみれば、こうしたレギュラーメンバーだけしか登場しない日々では「意欲の素」もなかなか生まれません。
イレギュラーの要素を取り込むことで、生活が活性化します。イレギュラーの要素は、少なからず「勉強」を必要とします。結果として、脳の活性化を促すことにもつながるのです。
「意欲の素」には、積極的に「介入」する
イレギュラーの要素を取り込むとはどういうことでしょうか。
それは「試す」ことです。
ある中高年向けの雑誌に、66歳でピアノに再チャレンジした男性の記事が載っていました。その方は4歳から中学生までピアノを習っていましたが、自身の力量に見切りをつけ、高校生でレッスンをやめたそうです。
多忙なサラリーマン生活からやや解放された50歳のとき、ピアノを再び弾いてみようと思ったのですが、困ったのが楽器選びです。本格的にピアノを演奏していたからこそ、アコースティックの「本物のピアノ」でなければ納得できなかったのです。
しかし、「本物のピアノ」は値段が張る上に、マンション暮らしでは音も気になります。そこで電子ピアノを試したそうですが「オモチャみたいでまったく弾く気にならなかった」と述べています。
ピアノ再チャレンジの道は閉ざされたように見えました。
ところが、それから十数年たったある日のことです。ふと立ち寄った楽器売り場で電子ピアノを試し弾きしてたいへん驚いたそうです。
「鍵盤にファーストタッチして、『これは!?』と思いました。たしかに微妙な差はありますが、それでも本物のピアノを弾いている感じがよみがえったのです。ここまで技術が上がったのか、と感動しました」
価格は本物のピアノの10の1以下。こうして、いまは夜もヘッドフォンでピアノを楽しんでいる、と書かれていました。
「電子ピアノなんて」と「ボー観者」でいたら、新たな学びははじまっていなかったはずです。「?」「!」と「意欲の素」が生まれたら、まずは試してみる。これが「脱ボー観者」の第一歩です。
ちなみに「傍観」の反対語は「介入」。五感が察知した「意欲の素」に対して積極的に試す=介入することが、意欲高揚の第一歩なのです。
ここで紹介した例は、ほぼ半世紀後の再チャレンジです。もちろん、まったく新しいことへのチャレンジをイレギュラーのプログラムにすることも、立派な介入であることは言うまでもありません。