「フェルメールとレンブラント展」
オランダの画家フェルメール(1632〜1675年)は、生涯を通して小さなサイズの絵しか描かなかった。それに対し、同じ時代で同じオランダの画家レンブラント(1606〜1669年)の絵は、大型の作品がたくさん存在した。
例えば、レンブラントの「夜警」は、363×437センチの大判で、この「夜警」1枚の面積の中に、フェルメールが描いた全32点の絵が全部入ってしまうほどサイズ差がある。
ではなぜ、フェルメールは小さい絵しか描かなかったのか、その背景を経済の視点からひもといていこう。
フェルメールが小さい絵しか描かなかった理由
まず、フェルメールが生きていた当時のオランダは、どのような経済状態だったのか。1588年、スペイン・ハプスブルグ家の支配にあったオランダが、ネーデルランド連邦共和国として実質上の独立を果たした。この時に台頭してきたのが王侯貴族ではなく、富裕な市民階級であった点は、他のヨーロッパ諸国とは大きく異なる点である。
この時代のオランダは、ヨーロッパの中でも突出して経済が豊かで、東インド会社などを設立して、オランダの黄金時代でもあったと言える。この時期に日本でも長崎の出島において、オランダとの貿易が行われていたことからも分かるように、貿易や植民地政策で巨万の富を築いていたのである。
レンブラントが活動していたのは、オランダの中心地アムステルダム。富裕なスポンサーが集まっている場所だったのである。
レンブラントの「夜警」という作品は、自警団の肖像画で、資金を提供したスポンサーの顔が全員入っており、隊長は当然ながら中心に描かれている。これだけの大きい絵である以上、それなりのお金で依頼を受けたことは容易に想像がつく。
かたや、フェルメールは、オランダの地方都市デルフトで活動をしていた。デルフトも、貿易で栄えた場所で、かなり裕福な資産家もいたと思われるが、アムステルダムとは比較にならないレベルであった。スポンサーも限られており、社長夫人の依頼や、居間に飾る絵の依頼といった範疇が大半であったようで、おのずと絵のサイズは、小さいものにならざるを得なかったことがうかがえる。
17世紀の経済的繁栄をしたオランダという場所で、多くの芸術家が生まれ、文化が栄えたのは必然であり、大きなスポンサーがいるからこそ、レンブラントのような画家が生まれ、大作を残すことができたのである。
一方、文化の栄えたオランダの地方都市デルフトでは、フェルメールのような天才が、小品ながらオーダーを受けて傑作を生み出していたのである。レンブラントの一筆に対して、フェルメールの作品は何日もの時間を費やして描いたものと思われる。
ちなみに、フェルメールの年収は推定で600ギルダーほどとされており、彼は妻の実家に同居していて、子供は10人もいたという。パンを購入するために借金までしていたそうで、かなり厳しい生活だったと想像するに難くない。
フェルメールの作品「水差しを持つ女」が日本でも初めて公開された。水差しと洗面器の組み合わせは「受胎告知」を思わせるもので、清純のシンボルとして描かれたのであった。