(本記事は、渡部清二氏の著書『日経新聞マジ読み投資術』総合法令出版、2018年12月19日刊の中から一部を抜粋・編集しています)
日経新聞は“3つの視点”を持って読み込む
日経新聞は当たる・当たらないを基準にして読むものではない。情報をいかに活用するかを重視すべきだ。
情報を活用するために日経新聞を読むには、どのような心構えが必要なのだろうか。
これには3つの視点がある。
(1)新聞に「何が書いてあるか」を理解する
(2)自分の考えをまとめる
(3)反対側の見方を考える
1つずつ考えてみよう。
まず1つ目、新聞に「何が書いてあるか」を理解する。
これは3つの視点の中でもっともシンプルなものだ。記事に書かれていることをそのまま理解するだけでいい。
このときに「これは事実ではない」「これは当たらない」という判断は必要ない。文中から記事の背景やマーケット規模がわかる数字を読み取り、記事の内容を理解するのだ。
2つ目は、自分の考えだ。
記事を読み、内容を理解した上で「私はこう思います」という意見をはっきりとさせる。
これは会社勤めをしている人の立場で考えるとわかりやすい。
例えば、私がかつて在籍していた証券会社では、「トヨタについて、どう思う?」といったように顧客から特定の企業について意見を聞かれることが多かった。
質問自体はシンプルだが、実はこのときには、2つの視点からの意見を求められている。
1つは、証券会社のハウスオピニオンとしての意見。そしてもう1つが、個人としての意見だ。この両方を伝える必要がある。
これは日経新聞の読み方にも通じる。まず「日経新聞にはこう書いてあります」と記事の内容を理解した上で、「でも私はこう思います」と自分の意見を上乗せする。
これが付加価値になるのだ。
さらに、簡単なことではないが、その上で「でもこういう見方もできる」といったように、反対側の視点からの意見も合わせることができると良いだろう。
このように3つの視点から読むのが理想的な日経新聞の読み方である。
情報は量を追ってはいけない
「日経新聞・読み合わせ会議」は、私に「四季報読破」を勧めた竜沢さんが始めたものである。
後に私が会の主宰を引き継ぐことになるのだが、竜沢さんが主宰をしていた時代には、日経新聞以外にも朝日新聞や読売新聞といった一般紙、株式新聞や証券市場新聞などの業界紙、そして日刊工業新聞や日経流通新聞(現・日経MJ)などの専門紙も読み合わせの対象としていた。
メンバーを一般紙、業界紙、専門紙を担当するチームに分け、各自で新聞を読み込み、読み合わせ会議で情報を共有することで、それぞれの得た情報を一本化していたのだ。
これが「日経新聞・読み合わせ会議」の原型である。
こうした形は、1人で集めるよりも広範囲に渡る情報が一手に集まるため、知識が乏しい人にとっては有効である。
ところがあるとき、私は「情報は量を追ってはいけない」と気づいた。
多くの人は、「情報はあればあるだけ良いものだ」という思い込みをしている。私もその1人だった。
しかし、本当に大事なのは、情報の量ではなく、無数に流れている情報の中から、いかにして本当に活用できる情報を絞りこむかという視点なのである。
この事実に気づいて以来、私が主宰する読み合わせ会議では業界紙や専門紙は取り扱わずに、誰もが手軽に手に入れることができる情報源である日経新聞のみの読み合わせとなった。
ところで、こうした新聞の読み合わせ会議には、やりがちなNGがある。
それは、新聞の片隅に掲載されている小さいけれども面白い記事を見つける、宝探しのような読み合わせだ。
「知らない人が多いけれども、こんな面白い記事が載っていた」という報告は、一種の達成感も得られ、知識欲も刺激するだろう。そうした宝物を見つける力も重要かもしれない。
ただ、それ以上に、誰もが見ている記事に対して、自分自身の見方という付加価値をつけられることの方が株式投資においては役に立つのである。
そのため、日経新聞を読むときには、誰もが見ている記事を見逃してはならない。誰もが見ている記事とは、新聞のトップニュースである一面記事だ。
誰もが見ている記事を見逃してはいけない
元全米ナンバーワンのファンドマネジャーであり、「テンバガー(10倍株)」という言葉を世に知らしめたピーター・リンチは、著書『ピーター・リンチの株で勝つ』(ダイヤモンド社)の中で次のように語っている。
「テンバガー(10倍上がる株)を見つけるには、まず自分の家の近くから始めることだ。裏庭になければ、商店街や、職場である」
リンチ氏は、裏庭や商店街、職場などを例にしながら、「投資のテーマは身近にある」と説明している。リンチ氏の考え方には共感する。
これを日経新聞に合わせて考えれば、身近な場所とは一面の記事にほかならない。
新聞の一面といえば、誰もが目にする記事である。
ところが、そうした誰もが毎日見ている記事に出ているテーマにすら、多くの投資家が気づいていないことが多々あるのだ。
誰もが目の前に見えていることに対して、「これはこう書いてある、でもこう見える」と考えられることが大きな付加価値を生む。そうしたことにも気づかずに、「もう織り込んでしまっている」と考えてしまう人が実に多い。
例えば昨今、電気自動車に関する記事を目にする機会が多いだろう。
そうした話題が先行しているだけに「電気自動車関連は、織り込み済み」と判断してしまう人が多いが、実際はどうだろうか。街中で走っている電気自動車を見ることがあるだろうか。
おそらく多くの人が「ない」もしくは「わからない」と答えるのではないだろうか。
つまり、相場すらまだ始まってもいないのだ。
話はやや脱線するが、そもそも電気自動車の相場など、この先にもないかもしれない。
近年は電気自動車に関する話題が多いが、電気自動車が今のガソリン車のように街中を走り回る時代は来ないのではないかとすら思う。
「自動車がモーターで動くようになり、家電のように扱われるようになる」
こうした言説がもてはやされている中で、日経新聞の社説と私の意見が合致したことがあった。
かつて日本の家電製品と自動車は、世界を席巻するほどの栄華を極めた。ところが、みなさんもご存じのように、日本の家電メーカーは衰退した。
一方、自動車産業は国際的な競争力を残すことになった。家電メーカーが衰退した原因は、デジタル化にある。
家電を支えるテクノロジーがデジタル化したことによって、コピーが可能になった。日本の家電をコピーした製品が続々と登場し、値段が崩れて日本勢は負けてしまったのだ。
しかし、自動車は暗黙知やノウハウの集合体である。そう簡単にコピーをすることなどできない。そのため、日本では家電が衰退し、自動車産業が残った。
記事にはこのように書いてあった。
自動車と家電の最大の違いは、人の命を預けるかどうかにある。
家電はバグを起こしても人命に関わる事故に至る可能性は低いが、自動車がバグを起こしてしまえば、即座に重大な事故を引き起こしかねない。
そのため、どこまで技術が進歩しても、自動車を支えるテクノロジーがデジタル化されることはないと考えられる。
また、別の視点から見ると、電気自動車の製造は環境への負荷が大きいというデメリットもある。
自動車自体は化石燃料を使わなくなるかもしれないが、電気自動車は製造に大量の銅が必要になるため、銅山を開発する必要がある。
ところが、銅山は足尾鉱毒事件で知られる足尾銅山のように、産業発展の代償として100年以上人が住めない地になりかねない。そうした開発を世界規模で行っても良いものだろうか。
こうした環境問題に関する記事も日経新聞には掲載されるが、それよりも大きな扱い、高い頻度で、電気自動車に関する記事は掲載される。
そうした記事に左右されると、本質を見失うことになりかねないのだ。
こうした意味でも、誰もが見ている記事を独自の視点で読み込む必要がある。
日経新聞は誰でもいつでも手に入る。だからこそ、活用しなくてはもったいない。使い切ってなんぼ、なのだ。