スタンダード・オイル、シティグループなど、名だたる企業の創始者が、米国の代表的な財閥であるロックフェラー一族です。英財閥のロスチャイルド家と比較されることもある同家の歴史的背景や成功の秘訣を見ていきます。

石油王ロックフェラーの一生

金融
(画像=Pict Rider/stock.adobe.com)

ロックフェラー財閥の創始者ジョン・D・ロックフェラー(John Davison Rockefeller, Sr,)は、石油産業に革命を起こして財を築きました。その資産額は、現在の価値に換算すると2,530億ドル(約27兆円)に相当し、アメリカ史上最大の大富豪だといわれています。

ジョン・ロックフェラーとは何者?

ジョン・D・ロックフェラーは、1839年、ニューヨーク州リッチフォードに生まれました。6人の子どもたちの2番目で、最初の男の子でした。

父親は、自称「ボタニック・フィジシャン(薬草医)」として怪しげな薬を売り歩く「山師」のようなセールスマンでした。放浪癖があり家をよく空け、一家は貧しい生活をしていました。ジョンは、育てた七面鳥や野菜、キャンディーなどを売ったり、金貸しをしたりして、家計を助けていました。

母親は敬虔なクリスチャンで、聖書の教えに則った生活を送り、子どもたちを育てました。ジョンも幼い頃から聖書に親しみ、毎週日曜日には教会へ行って献身的に奉仕活動を行いました。ジョンは、母親から「労働の大切さと倹約精神」を学んだといいます。

後に、一家はオハイオ州クリーブランドに移ります。ジョンは数学や経理が得意で、高校時代に商科大学のビジネスコースを受講して簿記を学びました。卒業後は穀物などの委託販売会社で経理として働き、忠実な仕事ぶりで高い評価を得ていたといわれています。

1858年、ジョンは友人のモーリス・クラークと共に委託販売会社「クラーク&ロックフェラー社」を設立します。南北戦争の特需もあり、事業は順調でした。

翌1859年、ペンシルべニア州でE・L・ドレークが石油の機械掘りに成功し、石油産業は革命的一歩を踏み出しました。「クラーク&ロックフェラー社」でも、すぐに石油を商品の一部として取り入れました。ここから、ジョンの石油帝国建設が始まります。

ジョンは、急成長する石油産業にさらなる投資を行うため、事業拡大を試みます。しかし、パートナーのクラークと対立してしまいました。そこで、ジョンはクラークの持ち株を買収し、1865年に新しいパートナーであるサム・アンドリュースと「ロックフェラー&アンドリュース社」を設立しました。

ジョンは銀行から資金を借り、クリープランドにある石油の精製を行う工場を購入します。ジョンは、朝早くから工場に行き、すべての製造プロセスを監督しました。化学者を雇って加工効率をあげ、これまで廃棄していた精製工程の副産物を利用する方法を考えるなど、効率よく利益を上げることに注力しました。

ジョンの工場は順調に業績を伸ばし、数年でクリープランド最大の精製能力を持つまでに成長しました。成功が信頼を生み、銀行からの融資額も増えます。ジョンは、同業数社を糾合し、競争業者を次々と傘下に収めていきました。

そして、とうとう、1870年に、資本金100万ドルの「スタンダート・オイル社(Standard Oil of Ohio)」を立ち上げます。

当初は、原油探鉱・生産には手を出さず、輸送部門を独占することで原油生産の支配と製油業者の統合を図りました。その成功の秘訣は、鉄道会社と特別輸送契約を締結し、割引運賃によって他社を駆逐したことにありました。

ジョンは、貪欲に事業の拡大を進めます。1882年、ジョンは「スタンダード・オイル・トラスト」を設立し、原油生産・製油・小売りなど、石油関連企業41社を支配し、市場の90%を占拠しました。しかし、1890年に「シャーマン・反トラスト法」が成立し、スタンダート・オイル社は34社に分割されました。

シャーマン・反トラスト法とは、アメリカの独占禁止法の1つです。独占的大企業に対して、社会的・政治的批判や反発が高まった結果でした。世界的規模の石油関連企業である「シェブロン」「エクソンモービル」なども、このときスタンダート・オイルから分割された会社なのです。

スタンダート・オイル・トラストの解体にともない、株式の清算処理が行われました。それにより、スタンダート・オイル社と分割33社の「格安の端株」が生まれ、スタンダート・オイル社グループの株を専門に扱う仲介業者が現れました。大衆はそれを求め、ウォール街に殺到しました。その結果、関連株価は急騰し、ジョン・ロックフェラーの金融資産は、さらにふくれあがりました。

1897年、ジョンは健康を害し、58歳で引退します。その後、「福祉の増進」を目的にさまざまな組織や機関を設立し、公益のために巨額の資金を提供しました。

世界一の大富豪から世界一の慈善事業家になったジョンは、1937年に静かに息を引き取りました。98歳でした。

石油王、世界一の慈善事業家としての顔を持つ

ジョン・D・ロックフェラーと息子であるジョン・D・ロックフェラー・ジュニアは、事業で得た利益を還元するためいくつもの公益機関を設立しました。代表的なものをご紹介します。

・シカゴ大学(THE UNIVERSITY OF CHICAGO/1890)
シカゴ大学は、さまざまなバックグラウンドを持つ人々に「平等に学ぶ機会」を提供するために設立されました。ジョンは、建設するための土地と、60万ドル(現在の価値2,500万ドル以上/約27億円)もの資金提供をしました。

化学・物理・経済化学などあらゆる部門でのノーベル賞受賞者は90名を越え、ほかの権威ある賞も多くの研究者が受賞しています。また、「あらゆる問題から、完全に自由であること」を信念として掲げており、差別禁止声明(Non-discrimination Statement)を発表しています。

・ロックフェラー医学研究所(The Rockefeller Institute for Medical Research/1901年)
後に、「ロックフェラー大学(THE ROCKEFELLER UNIVERSITY)」と名を変えるこの研究所は、アメリカで最初の生物医学研究施設です。「人類の幸福のための科学(Scientia pro bono humani generis)」をモットーに掲げ、感染症や公衆衛生の研究を行う目的で設立されました。

研究員たちは、抗髄膜炎血清や肺炎球菌ワクチン、アフリカの睡眠病の薬の開発など、多くの功績を挙げました。また、ABO型血液型、がんがウイルスによって引き起こされること、DNAが遺伝子情報の伝達物質であることなど、いくつもの発見をしました。これまでに、ノーベル化学賞、生理学医学賞の受賞者25名を筆頭に、世界的な賞の受賞者を数多く輩出しています。

野口英世も、ロックフェラー医学研究所で梅毒微生物や黄熱病を研究しています。野口英世の没後、各地に功績を讃える銅像が建てられました。上野恩賜公園内の立像には、台座にロックフェラー医学研究所のモットーである「PRO BONO HUMANI GENERIS(人類の幸福のために)」が刻まれています。

研究所には、やがて病院が併設され、特定分野の医療的改善を担う「ロックフェラー衛生委員会(The Rockefeller Sanitary Commission/1909年)」が設立されました。そして、次代の研究者を育む教育機関・大学へと発展したのです。

・一般教育委員会(The General Educational Board(GEB)/1903年)
あらゆる人々が「人種・性別・信仰」の差別なしに教育を受けられるようにと設立された機関です。

教育だけでなく「農業・健康・生活」など多岐にわたる支援活動を行いました。特に、公立高校の設立に尽力し、アメリカ中の多くの高等教育機関や大学や地域などが援助を受けました。また、南北戦争後も長く続いた南北格差、黒人の教育問題などに取り組み、社会改善を目指しました。

各プログラムを達成し、1960年代にプロジェクトは終了を迎えます。ジョンやジュニアが提供した資産はほぼ使い果たされ、総額は約3億2,400万ドル(約350億円)にものぼりました。

・ロックフェラー財団(The Rockefeller Foundation/1913年)
ロックフェラー財団は、「人類の福祉の増進」を目的として創設された民間慈善団体です。「すべての人々が平等に権利を持っている」という理念に則り、世界的規模での活動を行っています。

設立当初は、「医療・公衆衛生」と「医学教育・研究」に対する援助を重点的に行っていました。それから、「国際保健」「医学」「自然科学」「社会科学」「人文科学」の5分野に統合されます。その後も、「芸術」「農業」「衛生・予防医学」「マーケティング」「地域社会活動」など、活動の幅を広げていきました。

その援助先は、日本も例外ではありません。「国立保健医療科学院」は、公衆衛生技術者の養成・訓練施設、ならびに公衆衛生に関する調査研究機関です。1938年、ロックフェラー財団の経済的援助を受け「国立公衆衛生院」として設立されました。

ジョン・D・ロックフェラーは、累計1億8,200万ドル(約190億円)以上の資金提供をしています。私的財産が公益のために生かされるということは、ほかに類を見ない独自の試みでした。

・ロックフェラーセンター(Rockefeller Center/1931-1947完工)
ロックフェラーセンターは、ニューヨーク・マンハッタンにある超高層ビルを含む複合施設です。19もの商業ビル群の中心には、万国旗と黄金のプロメテウス像が立つ広場があります。冬にはアイススケートリンクになり、特大のクリスマスツリーが飾られることでも有名です。

ロックフェラーセンターの建築は、1929年に起こった世界恐慌のまっただなかである1931年に始まりました。アメリカの株価大暴落に端を発した経済恐慌は、世界中に影響を与えました。失業者が急増するなか、ロックフェラーセンターの建設は4万人以上に安定した職を提供できたのです。

建設に関わった人々の感謝の気持ちを表すために、あの有名なクリスマスツリーが飾られたといいます。ロックフェラーセンターは、「都市の中の都市(city within a city)」との構想で創られました。100年近く経った今でも、芸術や流行、娯楽の中心地として賑わっています。

・MoMA ニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art, New York/1929)
ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア、その妻アビゲイル・グリーン・アルドリッチ・ロックフェラーが、設立に貢献しました。

・リバーサイド教会(Riverside Church/1930年)
ジョン・D・ロックフェラーが考案し、建設の援助をしました。ジュニアも支援を続け、その後もロックフェラー家が主要な財政支援者となりました。ほかにも、多くの教会を支援しています。

・グランドティトン国立公園(Grand Teton National Park/1930-1950年)
ジュニアは自然環境の保護に積極的に取り組み、グランドティトン国立公園のために広大な土地を購入し、それを寄贈しました。ほかにも多くの国立・国定公園を設立するための支援をしています。

ロックフェラー一族の成功の系譜

ジョンには4人の娘と1人の息子がいました。息子は、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアとして、父の事業を継いでいます。そして、ほかの兄弟や親族たちも、華々しい人生を送っている人が多いようです。

ウィリアム・ロックフェラー(William Avery Rockefeller Jr./1841-1922)

石油産業に投資を始めた当時、ジョンは弟・ウィリアムとともにニューヨークで会社を立ち上げます。スタンダート・オイル社の設立後、その会社は「スタンダート・オイル・トラスト」の一員として輸送部門を担いました。

ウィリアムは、ジェームズ・スティルマンらともに、テキサスの主要な鉄道会社を掌握していました。スティルマンは、父親から引き継いだいくつもの銀行や不動産を所有していました。その1つが、シティ・バンク・オブ・ニューヨーク(後のナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク)でした。

ウィリアムの娘2人が、スティルマンの息子たちと結婚したことを機に、スティルマン家とロックフェラー家はさらに近づきました。1890年、スティルマンは「ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク」の理事に就任しました。ロックフェラー家の協力を得たこともあり、一気に事業を拡大し、アメリカで最大の銀行に成長しました。

ネルソン・ロックフェラー(Nelson Aldrich Rockefeller/1908-1979)

ジュニアの次男として生まれたネルソンは、第41代アメリカ合衆国副大統領を務めた人物です。

ネルソンは、ダートマス大学卒業後、ロックフェラーセンターの理事、スタンダート・オイル社のベネズエラ子会社役員などを務めていました。

その後、国務次官補などを任命され、米国の地域的政治・軍事統合の推進に尽力します。次に任されたのは、東西対立が激化する中での国際開発諮問委員長でした。この時ネルソンは、トルーマン大統領が唱える「ラテンアメリカに対する地域支援計画『ポイント・フォア計画』」の具体的な開発構想をまとめます。この後、連邦行政機構改革諮問委員長、厚生教育次官、外交問題担当大統領特別顧問などを歴任しました。

1958年ニューヨーク州知事に当選し、4期在職の後、1974年副大統領に選任されました。

デビッド・ロックフェラー(David Rockefeller/1915-2017年)

ジュニアの6番目の子どもであるデビッドは、経済学の博士号を持つ銀行家として知られています。

3年間の陸軍勤務の後、デビットは外務省職員としてチェイス国立銀行に勤めます。ここが、銀行業の始まりでした。チェイス国立銀行はマンハッタン銀行と合併し、チェイスマンハッタン銀行になりました。デビッドは、会長兼CEOとして経営指揮を執り、70ヵ国に支店を持つ大銀行に成長させました。

1981年に現役を退いた後も精力的に世界を飛び回りました。生涯を通じて訪れた国は130ヵ国にものぼり、デビッドのオフィスには政治家や資産家など有力者たち15万人分もの名刺が保管されていました。

デビットも、父や祖父にならって慈善活動に注力しました。なかでも、ニューヨーク近代美術館、ロックフェラー大学、母校であるハーバード大学などに数千万ドルの寄付をしています。

2017年、デビッドは101歳という天寿を全うしました。

ジョン・ロックフェラーが残した至極の名言

「『偉大なもの』のために『良いもの』を諦めることを恐れてはいけない
(Don't be afraid to give up the good for the great.)」

夢や目標、野望に向かって、本気で挑戦することはこわいものです。特に、いまが「まあいいかと思える状態」であるほど、それを壊してまで変化を起こすことに恐怖を感じるのは当然です。

しかし、ジョンは決して諦めず、恐れずに、突き進んでいきました。開拓者であるジョンには、切り拓くことよりも、立ち止まってしまうことのほうが恐ろしかったのかもしれません。

「金持ちになりたい一心から出発しても成功しない。志はもっと大きく持つべきだ
(The man who starts out simply with the idea of getting rich won’t succeed; you must have a larger ambition.)」

ジョンは、お金を稼ごうとして働いていたわけではありませんでした。より良い状況を目指して、自分の頭で考え、構築し、実践することで、「結果的に」お金がついてきたということでしょう。

ジョンはまた、お金に囚われることも嫌っていました。ジョンは、子どものころに地元の農家に金貸しをしていました。貸したお金が利子と共に戻ってくることに感銘を受け、「金銭をしもべのように使おう」と考えたといいます。

「成功の秘訣はあたりまえのことをとびきり上手にすることだ
(The secret to success is to do the common things uncommonly well.)」
ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア

「成功」にたどり着くためには、さまざまな方法があります。なかには、強引な方法や奇抜な方法もあるでしょう。しかし、無理や無茶は長続きしないものです。「あたりまえのこと」をコツコツときちんとこなしていくことが、一番確実なのかもしれません。

ジョン・ロックフェラーに学ぶ成功するための3つの秘訣

ジョンは、子どものころから数学に強く、お金を稼ぐ才能がありました。加えて、「見極める目」や「決断力」をも兼ね備えていたといえるでしょう。同時に、神の教えや母の教育に従順でもありました。

その様子がわかるエピソードが残っています。

ジョン・D・ロックフェラーの成功エピソード1:油田買収の決断力

1885年、オハイオの近くで油田が発見されました。しかし、原油には硫黄成分が混じり、質の悪いものでした。機械は故障し煤煙もひどく、売り物にはなりませんでした。

ところが、ジョンはこの油田を買収する提案をしました。他の経営陣や社員から猛反対にあったものの、ジョンは自らの個人資産を担保にするからと説得し、その油田をすべて買収しました。

ジョンは、精製技術者に「販売できるレベルまで精製して欲しい」と頼み込みました。技術者は試行錯誤の末、硫黄成分の除去に成功し、その技法で特許を取得しました。結果的に、最大規模の油田が確保でき、さらに天然ガスも採取できて、プロジェクトは大成功を納めました。

誰もが反対し、非難するなか、ジョンは、自分の嗅覚を信じました。失敗を恐れずに、人の意見ではなく自分自身の考えで決定を下し、先頭を歩いて行ったのです。

ジョン・D・ロックフェラーは、まさに「パイオニア=開拓者」でした。

ジョン・D・ロックフェラーの成功エピソード2:収入の10%を寄付していた

ジョンは、幼いころから母親にいくつかの「約束」を守るようにと教えられていました。その約束の1つに、次のようなものがあります。

『什一献金を捧げること(収入の10分の1を献金すること)』

ジョンは、どの約束も忠実に守りました。幼いころに母親からもらったおこづかいからも、その10%を献金していました。はじめて勤めたときも、とぼしい給料から6%、10%とできる範囲での献金をしていました。

それは、石油王と呼ばれるようになっても変わりませんでした。ジョンは専属の職員を雇ってまで正確に計算し、収入の10%を献金していたとの記録が残っています。

日本では耳慣れない「什一献金(英語でTithes)」は、「収入の10%を神に返す」というキリスト教の教えの1つです。「旧約聖書(『レビ記』27章30など)」を典拠として、ヨーロッパのキリスト教社会に広まりました。

ジョンは、生涯敬虔なクリスチャンとして生き、富豪となっても「質素倹約」を貫いたといわれています。ジョンにとって、「労働に励むこと」と「神への感謝を忘れないこと」はどちらも守るべき神の教えだったのかもしれません。

ジョン・D・ロックフェラーの成功エピソード3:有能な人物の起用

ジョンと息子であるジョン・D・ロックフェラー・ジュニアは、1914年頃から、広報に関するアドバイザーとしてアイビー・リー氏(Ivy Lee,1877-1934)を起用しました。

リーは「PR活動の創始者・父」として、後世に名を残す人物です。

パブリック・リレーションズ(Public Relations)つまりPR活動は、20世紀初頭のアメリカで生まれました。それまでの広報活動は、世論を味方につけるために「企業が見せたい姿」を一方的に発信するものでした。

しかしリーは、「正確な情報を、わかりやすい言葉」で発信し、一般社会との「双方向コミュニケーション(two-way street)」を重視しました。記者会見やクリッピング、広報誌、社内報など、いまでは一般的に活用されている広報手法を考案し、実践しました。

リーの代表的な仕事の1つに「ペンシルべニア鉄道会社の列車事故」があります。鉄道会社は事実を隠そうとしましたが、リーは正反対の提案をしました。即座にプレスリリースを発行し、情報を開示したのです。これが、世界ではじめてプレスリリースを実用化した事例だといわれています。

リーは、「正確性・信頼性・顧客利益」をモットーに、企業にとってマイナスと思われる情報も積極的に開示をしました。このことを人々は好意的に受け入れ、鉄道会社を救うことに成功したのです。

リーがスタンダート・オイル社で最初に請け負った仕事は、コロラドの炭鉱で起きた大規模なストライキにおけるメディア対応でした。

リーは、問題解決のために「嘘は、暴かれる。真実を述べ、自らの見解を率直に公表すること」と助言しました。途方に暮れていたジョンは、リーの助言に「私は、はじめて率直な助言を聞いた」と感謝の言葉を述べたといわれています。

コロラド争議が収拾してからも、リーはロックフェラー家の専属エージェントとして尽力します。また、リーはジョンの回顧録や自叙伝を通じて、彼の思いやパーソナルな一面を世間に伝えました。このようなPR活動の結果、ジョンやロックフェラー一族のイメージは大幅に回復したのです。

真実はひとつとは限らない

ジョン・D・ロックフェラーは、一代にして巨額な財産を築き大富豪となりました。その成功の秘訣は、失敗を恐れずに決断する勇気を持つこと、神への感謝を忘れないこと、他人の才能を認め助言を受け入れることにあったのではないでしょうか。

買収や市場の独占など強引ともみえる事業展開を行ってきた彼の評価は、功罪相半ば、賛否両論あるかもしれません。ただ、数々の慈善事業によって多くの人々が救われたのは事実です。彼らにとって、ジョンは救いの手を差し伸べてくれたヒーローなのです。

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