「鉄鋼王」として知られるカーネギーは、貧しい幼少時代を経て、大富豪にのぼり詰めました。また事業の成功だけでなく、財閥としてカーネギー工科大学やカーネギー財団、カーネギーホールといった現在にも残る教育・文化、慈善事業団体への貢献も目立ちます。カーネギーがどのような人生を送り、またいまもどのような影響を世界に与え続けているのかをみていきましょう。

目次

  1. 鉄鋼王カーネギーの一生
  2. カーネギー、その成功の秘密
  3. 数多くの文化事業への貢献と世界平和にかける思い
  4. 著名すぎる『カーネギー自伝』
  5. カーネギーの名言に学ぶ
  6. 後世のエグゼクティブに大きな影響を与えた、カーネギーの行動理念

鉄鋼王カーネギーの一生

金融
(画像= beeboys/stock.adobe.com)

「鉄鋼王」の名で知られるアンドリュー・カーネギーは、貧しい移民から全米第2の富豪にまでのぼり詰めた、アメリカン・ドリームの象徴とも呼べる人物です。

スコットランド移民の息子は、次世代の素材「鉄鋼」に着目する

手織物業の職人だったカーネギー一家は、産業革命が向かい風となり困窮、母国スコットランドから米国へ移住しました。自身も12歳で綿紡績工場に就職し、1日12時間労働という過酷な少年時代を過ごします。

移民の息子として一工員からスタートしたカーネギーは、電報配達夫への転職をきっかけに人生が好転します。有能な仕事ぶりですぐに電信技師へと昇進、顧客であったペンシルベニア鉄道のピッツバーグ管区長だったトーマス・A・スコットに評価され、彼の秘書兼電信オペレーターとして引き抜かれることになりました。スコットが副社長に就任すると彼の後を継ぎ、24歳の若さで同社西部地区支配人の地位に就きます。

しかしカーネギーはここで止まらず、耐久力があり加工の柔軟性に優れる「鉄鋼」に価値を見出し、大胆な事業展開を始めます。木製の橋を鉄製に作りかえる事業に始まり、イギリスのベッセマー製鋼法に着目し、鉄を安価で大量生産するプロセスを構想、また各地に点在する製鉄所の経営・生産を統合します。

理想が実現したとき、立ち上げた製鋼会社は巨大企業へと進化し、カーネギーは一躍大富豪になるとともに、「鉄鋼王」の名を欲しいままにしました。

巨万の富を得たカーネギーは、資産額だけでなくその使い方にも注目を浴び、一流の資産家として名を馳せます。コンサートホールを設立し、芸術・文化振興に貢献、大学や千を超える図書館を立ち上げ、数多くの寄付・基金設立を行い、この世を去るまでに総資産の約90%にあたる3億5,000万ドルもの財産を社会貢献のため使用したといわれています。

▽アンドリュー・カーネギー来歴

来歴
1835 スコットランド・ダンファームリンにて生誕
1848 一家がペンシルベニア州に移住。カーネギー少年、12歳で綿紡績工場に就職
1870 高炉建設。ベッセマー製鋼法の実用化を目指す
1874 製鉄所を設立
1880 24時間稼働の実現により約200万ドルの利益を上げる
1881 会社改編、カーネギー・ブラザーズ・カンパニーへ
1882 ヘンリー・C・フリック社からコークス製造会社を買い取る
1883 初の図書館設立。
1886 「勝利に満ちた民主主義」刊行。共和制アメリカを称賛
1889 ニューヨークにて鋼鉄製造プロセスの開発を指揮。「富の福音」刊行、富の分配による社会貢献を提唱
1889 鉄鋼生産量266万3,412トンを記録。フリックを買収
1900 フリック、J・ピアポント・モーガン社がカーネギー製鉄会社を5億ドルで買収。
1919 マサチューセッツの自宅にて逝去

カーネギー、その成功の秘密

チャンスと資金と、ビジネスの知恵を与えたスコットとの出会い

ペンジルベニア鉄道の支配人、後に副社長の任に就くスコットとの出会いが若き日のカーネギーに影響を与えたことはいうまでもありません。スコットは電信技師であったカーネギーに目をつけて引き抜き、月額50ドルという当時の若者にとっては高額な給料を払って秘書を任せました。

これだけでは単に高給取りの労働者と雇用主という関係ですが、カーネギーが投資の世界の門を叩くきっかけを与えたのもスコットです。創業したばかりの企業に資金を提供し収益を得るという手法を教えられたカーネギーは、スコットの指示通りまずはアダムエキスプレス社へ、後に新発明の寝台列車事業へ投資します。

これらの投資資金は、当時カーネギーの母親が自宅を抵当に入れて用意したようです。資金調達方法の是非はさておき、スコットの確かな手腕、そして母親がカーネギー青年にかけた期待、信頼の強さが垣間見えるエピソードです。

また南北戦争の折にはスコットの部下として従事し、やがて勝利をおさめる北軍を支援しています。鉄道・石油産業の需要拡大を見越して投資も怠りませんでした。戦争終結のころには資産を築き、ペンシルベニア鉄道の地方支配人というポストも譲り受け、スコットも副社長へと昇進しています。

スコットは、後に新たな事業に乗り出すカーネギーに資金援助もしています。カーネギーとスコットの関係は電信技師と顧客、部下と上司、そして最終的にはビジネスパートナーにまで昇華したのです。スコットのGiveから始まりWin-Winの関係にまでのぼり詰めた彼らは、後にカーネギー自身が語る投資の本質を体現しているといえるでしょう。

努力と勤勉の人、青年カーネギー

カーネギーとスコットを巡り合わせたのは運と解釈できるかもしれませんが、何よりもまず彼の勤勉さが有力者の目に止まったという事実に注目すべきでしょう。電報配達夫として働いていた彼は、過酷な労働の合間にも図書館で借りてきた本を読み、一方で仕事にも手を抜かず、企業のロケーションを含む街の地理や顧客の顔をすべて覚えていたそうです。

目の前の仕事に対し真摯に取り組みつつ、一方で自らの幅を広げる作業を怠らない。この習慣こそが彼の成功を支えたといえるでしょう。

エネルギー革命の波に乗る

カーネギーが少年時代に経験した一家の困窮と、後に彼が全米No.2の資産家となった要因には皮肉にも一致している点があります。

カーネギーの少年時代、一家は織物職人として生計を立てていましたが、やがて産業革命による機械化の波に押され追い詰められていきます。しかし石油によるエネルギー革命が起きた際には、カーネギーは状況を見越して先行投資を行っており、資産を築き上げています。目先の仕事への姿勢だけでなく、この「先見の明」こそが彼を一流の資産家に成長させたのです。

波を読んで乗る、このシンプルなプロセスが成功への近道といえるかもしれません。

史上最高額でのUSスティールへの事業売却

ペンシルベニア鉄道支配人というポストにおさまらず、経営者として製鋼事業へと乗り出したカーネギーは、製鋼法の確立、24時間稼働システムの導入により会社を年4,000万ドルもの利益を上げる大企業へと発展させます。

20世紀に差しかかると彼の持つ工場の生産量は、イギリス全体のそれを上回る規模にまで成長しましたが、カーネギーはさらなる事業拡大・資産形成は望まず、鉄鋼業の独占を図っていた金融王ジョン・モルガンに会社を売却します。売却額は4億8,000万ドルで、これは個人取引として史上最高額にあたります。

数多くの文化事業への貢献と世界平和にかける思い

3,000以上の図書館を設立するカーネギーの本との出会い

1883年、故郷であるスコットランド・ダンファームリンに最初の図書館を立ち上げます。まだ事業が成長しきっていない時期からこのような活動を行っている点から、カーネギーの人徳の高さ、決断の早さがうかがえます。

最終的にカーネギーの手により3,000もの図書館が設立されますが、その裏には彼が若きころから、多忙な間も決して本を手放さなかったという背景があります。

まだ電信技師であったころ、カーネギーは地元の名士であるジェームズ・アンダーソン大佐が開放していた個人図書館で本を借りていました。

「牢獄の壁に窓が開かれ、知識の光が流れ込んできた」

カーネギーは大佐の図書館について後にこのように語っており、教養を身につけることの大切さを諭しています。そして自身が受けた恩を忘れずに後世へ還元するという徳業を自ら実行したのです。

世界有数のコンサートホール「カーネギーホール」の設立

カーネギーは社会貢献の柱として、音楽振興に注力しました。その象徴といえるのが、1891年ニューヨーク・マンハッタン7番街にオープンした「カーネギーホール」です。オープニングコンサートではロシアの著名な作曲家であるチャイコフスキーが招致されました。

現在でも世界有数のコンサートホールとして名高く、各国から著名なアーティストが訪れ、演奏や教育活動の場として使用されています。

工科大学、教育振興財団の設立と全米最大の公的テスト機関「ETS」

教育面では、カーネギー工科大学(現:カーネギーメロン大学)やカーネギー教育振興財団の設立を行っています。大学は現在、世界最高レベルの教育水準を誇る有数の工科大学として知られており、特にコンピューターサイエンスの分野において世界大学ランキング1位を獲得しています。また2018年にはアメリカ初となるAI(人工知能)学士課程を設置しています。

カーネギー教育振興財団は、教育水準向上のための政策研究および学術調査を行う機関として1905年に設立されました。以後現代に至るまで、教育機関と教員の質向上を促進するため、数多くの研究・調査を100年以上にわたり行っています。

財団の主な功績は、進学先選択の指標となる「カーネギー大学分類」の編成や、授業カリキュラムへ初めて単位制を導入した「カーネギー・ユニット」などです。また全米最大の公的テスト機関「ETS」も、カーネギー教育振興財団から派生・独立した組織です。

国際平和基金の創設と、オランダ・ハーグでの平和宮建設

文化・教育振興だけでなく、カーネギーは国際平和維持にも尽力しました。きっかけは1898年に起きた米西戦争です。敗北したスペインの植民地であるフィリピンを、統合しようと画策するアメリカを「民主主義に反する」と猛烈に批判し、作家のマーク・トウェインらとともに反戦運動を展開しました。

それから10年ほど経過し、カーネギーは会社の売却を経て、全米初となる公的平和機関「カーネギー国際平和基金」を設立します。1,000万ドルもの巨額の資産を投じたこの組織は、主に国際関係・国際法の研究・出版を事業としています。世界中で起きる外交上の問題や紛争、人種差別、飢餓などあらゆるテーマを取り扱う機関として議論を展開、世界平和を目指し現在でも活動を続けています。

平和基金の設立から3年後、カーネギーはすぐに次の一手としてオランダ・ハーグに「平和宮」を建設します。1946年、国際紛争の法的解決を目的とし立ち上げられた、国連の司法機関「国際司法裁判所」の前身となった組織です。

「日々、体が弱りゆくようであるが、いつの日か戦争が国際的な平和法廷によって消え去るとの思いはいまなお体に残っている」

これはカーネギーが臨終の間際に残した言葉です。 カーネギーの死から100年以上が経過した現在でも彼の意志は尊重され、国際問題を扱うトップ組織として平和のために世界をリードし続けています。

著名すぎる『カーネギー自伝』

少年時代から実業家・資産家となるまでの経験を詳細に記述した「カーネギー自伝」は、いまも多くの人々に影響を与えています。内容はカーネギーの実業家としての理念、芸術・教養について、人間関係の構築など多岐にわたっており、ビジネスパーソンだけでなく、あらゆる立場の人に考える機会をもたらしてくれる著書です。

カーネギーの性格、人間関係について

「カーネギー自伝」全体を通して伝わってくるのは、彼の明るさと行動力です。カーネギー自身、「賢い人は徹底的に楽天家である」「明るい性格は財産よりもはるかに尊い」と語っており、どんなことも笑いで吹き飛ばすようなポジティブな姿勢を取ることを推奨しています。

一方で、自らの過ち・汚点から逃げ切ることはできないとし、自身の至らない点を真っ直ぐに受け止める謙虚さについても触れています。そのうえで、陽の当たる場所に出るべきであるというのです。

「汝の良心の声のみを恐れ、それに従え」

彼が生涯にわたる金言とした、スコットランドの詩人ロバート・バーンスからの引用がつづられています。

カーネギーは対人関係において、「誰かを嫌いになるのはその人のことをよく知らないからだ」とし、喧嘩や論争になってでも直接会う、話し合いの場を欠かさず設けることを大切にしています。

また自分を成長させる手段として、自分よりものをよく知っている人に会う、自分より優れた人物を見つける力を養うことが重要だとしています。電信技師時代、通信手たちが来る前にこっそりと通信機の扱い方を身につけ、ほかの局の人物に連絡を取っていた彼は、常に新しいことを知り、経験することの重要性を感じていたのです。

ワーグナーに魅了されたカーネギーの教養論

カーネギーは経営について論じる合間に、多岐にわたる文化教養について触れており、自伝でもクラシック音楽、文学、宗教について多くのページが割かれています。

カーネギーホールを建設するほど大の音楽好きであった彼は、文学と音楽・美術の総合芸術であるオペラ劇を特に愛したようです。シェークスピアを題材とした芝居を、台詞を暗記するほど鑑賞し、ドイツオペラの巨匠・ワーグナーの楽劇に魅了され「新たな友を発見し、新しい梯子をのぼり始めた」と語っています。

宗教面ではキリスト教への傾倒が表れています。一方でほかの宗教・文化にも興味を絶やさず、中国で孔子の考えに触れ、インドで仏教とヒンドゥー教の聖典を読み、拝火教徒と親しくなりゾロアスター教の教えについても学んだようです。

このような旅を続けるうちに、さらなる精神的な安定を獲得できたとし、「混乱のなかに秩序がもたらされた」と述べています。ビジネスばかりに目を向けず、教養を得て人としての幅を広げることの重要性が説かれている一場面です。

「質の高い仕事に勝る成功の秘訣はない」実業家として矜持

目先の利益に気をとられ賭博のごとく投機に手を出さず、1つの事に対して誠実さを持ち、質の高い仕事をするよう繰り返し説かれています。認められるまで時間がかかっても、商品の価格がどうなろうとも、質の高い仕事に勝る成功の秘訣はないというのです。

カーネギーの名言に学ぶ

「他人を豊かにできなければ、あなたも豊かにはなれない」

他者の繁栄を願うことが、最終的に自身の豊かさに繋がるとカーネギーはいいました。ペンシルベニア鉄道の要人であったスコットとの度重なるエピソードからも、その思想の根源が読み取れます。

一大事業を成功させ大富豪となった彼は、まだ成長の余地を残したまま会社を売り払い、自身の財産を社会貢献、特に平和事業のために用いる事に専念します。後にこのようなメッセージも残しています。

「金が貴いのは、それを正しく得ることが難しいからである。さらに正しく得たものを正しく使うことが難しいからである」

仕事に対し真摯に取り組んで財を成したカーネギーは、使い方に対しても謙虚な姿勢を持っていました。「金持ちとして死ぬことは不名誉」とまで言い放った彼は、文化・芸術と教育の振興、国際平和維持活動のため議論するばかりでなく、常に具体的な行動を伴って多くの私財を費やし、社会に貢献しました。

後世のエグゼクティブに大きな影響を与えた、カーネギーの行動理念

カーネギーが自らのキャリアを形成するにあたって持っていた理念・実践したことは、多くの人々に影響を与えています。そして現代における一流の資産家のなかにも、彼と同じような行動理念を持つ人物が存在します。

マスターマインド

カーネギーは自身の成功について、この「マスターマインド」と呼ばれる原則に従ったためと語っています。

マスターマインドとは、共通のビジョンを持った複数の有能な人物を自分の周囲に置くことです。各界の一流と呼ばれる人物を調査し続けるアメリカの著名なライフコーチ、スティーブ・シーボルト氏はこのように述べました。

「あなたよりも成功している人たちと付き合うことは、あなたの思考を変え、収入をアップさせる可能性がある」

1つのことに向き合う

仕事をするうえでは多くの分野に手を出さず、1つの事に向き合い極めるべきだとカーネギーは説きます。

キャリアというものは人ぞれぞれですが、彼と似た内容を提唱する人物にはアメリカの投資家ウォーレン・バフェット氏がいます。バフェット氏は自身の講義において「自動車と違い、人間の精神と肉体は乗り換えることのできないものである」と人生の有限性を確認したうえで、自身の集中できる範囲に物事を選択したほうがよいといいます。

投機の危険性

「カーネギー自伝」では、目まぐるしい投機の世界に惑わされることの危険性を説く一節があります。

前述のバフェット氏が師と仰ぐベンジャミン・グレアム氏は「近代証券投資理論の父」と呼ばれる人物ですが、彼の著書でも同じように投機の危険性について書かれています。

グレアム氏は目先の株の値動きに一喜一憂している人々を「投機家」「ミスター・マーケット」と呼んで批判し、本物の投資家は冷静に企業の収益力や財務状態を把握、将来の見通しや理念をしっかりと分析して判断を行うものであると述べています。

社会貢献

新聞王、金融王……カーネギーが大富豪となった同時期、彼と同じように莫大な財産を築いた人物はほかにも多くいます。しかしカーネギーがほかの資産家と違っていた点は「使い方」です。カーネギーは余生を費やし「資産家のあるべき姿」を、身をもって示しました。彼が21世紀になっても評価され続け、「カーネギー自伝」がいまなおベストセラーとなっている理由の1つです。

バフェット氏、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏はいわずと知れた大富豪ですが、彼らも同じく社会貢献のため巨額の資産を慈善活動に投じています。

「他人を豊かにできなければ、あなたも豊かにはなれない」

自らの財産を他者のために用いるこの精神が、大成功を遂げる人物に共通する要素と呼べるのかもしれません。

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