本記事は、夫馬賢治氏の著書『超入門カーボンニュートラル』(講談社)の中から一部を抜粋・編集しています。
日本政府の反応
菅首相の所信表明演説までに何があったのか
日本では2020年10月に菅首相が2050年カーボンニュートラルを突然宣言したことを本書の冒頭で紹介した。しかし、その予兆は、その約8ヵ月前の2020年2月にあった。
コロナ禍が始まる前の2月、日本の首相はまだ安倍晋三氏の時代。このとき、運用資産を合計すると37兆ドル(4100兆円)にもなる631の機関投資家が、安倍首相に一通の共同書簡を送った。内容は、日本が当時掲げていた「2030年度までに温室効果ガス排出量を2013年度比で26%削減する」という目標が低すぎるので、目標を改定し、2050年までにカーボンニュートラルを実現するよう要請したものだった。(※AIGCC(2020)〝投資家グループが日本の温室効果ガス削減目標引き上げを要請:COP26に向けて圧力が高まる〞https://www.aigcc.net/wp-content/uploads/2020/02/170220_Media-Release_Japan-NDC_JAPANESE.pdf )すでに、2050年カーボンニュートラルを迫る機関投資家の声は、日本政府にまで届いていた。
その後、コロナ危機の本格化により、安倍政権はカーボンニュートラルに関しては、何も発表をしないまま9月に退陣した。安倍首相の退陣後に急遽(きゅうきょ)実施された自民党総裁選挙で、菅義偉官房長官が勝利するのだが、そのときの報道では、菅政権の政策の目玉は、感染拡大防止策、打撃を受けた企業や自営業者に対する経済支援、そしてコロナ禍で露呈した日本のデジタル化の遅れを取り戻すための政策になるだろうと考えられていた。
実際に菅首相は、就任初日の9月の記者会見(※首相官邸(2020)〝菅内閣総理大臣記者会見〞http://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2020/0916kaiken.html )で「今、取り組むべき最優先の課題は新型コロナウイルス対策」「経済の再生は引き続き政権の最重要課題」とはっきりと言い切っていた。さらに、国民への給付金支給やワクチン接種を念頭におきつつ「行政のデジタル化のはマイナンバーカードです」「複数の省庁に分かれている関連政策を取りまとめて、強力に進める体制として、デジタル庁を新設いたします」と語っていた。
9月の記者会見では、カーボンニュートラルという言葉は一言もなかった。唯一「ポストコロナ時代にあっても、引き続き環境対策、脱炭素化社会の実現、エネルギーの安定供給もしっかり取り組んでまいります」と、かろうじて「脱炭素化」という言葉はあったが、特段実現の時期も示されておらず、「脱炭素化」に注目したメディアはほとんどいなかった。
しかし、わずか1ヵ月後の10月の所信表明演説で事態は一変する。ここで「2050年カーボンニュートラルを目指す」という言葉が突如として現れ、さらにその発言の直前には「菅政権では、成長戦略の柱に経済と環境の好循環を掲げて、グリーン社会の実現に最大限注力してまいります」とまで言い切り、カーボンニュートラルは最重要政策と位置づけられるまでに格上げされていたのだ。
このように流れを追うと、新政権誕生の9月から所信表明演説のあった10月までの間に、大きな潮の変化があったと考えるのが普通だろう。そもそも所信表明演説とは、国会で新たに就任した新首相が、立法府である国会に対して政権の政策方針を説明する重要な場であり、ほぼ間違いなくテレビで報道される。そのため、新政権の中枢にとって、所信表明演説の内容が国民の共感を呼ぶか、新政権への期待を集められるか、新内閣のカラーを明確に打ち出せるかは、最初の大仕事となる。国会での首相指名から所信表明演説までのわずかな時間で、政権の重要政策を固め、演説する内容を慎重に決定していかなければならない。
菅政権成立から所信表明演説までの1ヵ月の間に、カーボンニュートラルに熱心な人物が複数、菅首相と長時間面会している。
そのうちの一人が、当時、経済産業省参与を務めていた水野弘道・GPIF元理事兼最高投資責任者だ。9月27日に菅首相と36分間、面会している。分刻みでスケジュールが進む首相の時間を30分以上確保できるのは、かなりの重要案件といえる。
水野氏は、日本の公的年金基金であるGPIF理事を2020年3月末まで務め、日本でのESG投資普及の立役者だ。日本の産業界に対し、カーボンニュートラルを目指さなければ国際競争力が落ちていくと警鐘を鳴らし続けていた。ESG投資の普及をすすめる世界最大機関の国連責任投資原則(PRI)の理事も4年半務め、2021年2月にはアントニオ・グテーレス国連事務総長のイノベーティブ・ファイナンス&サステナブル投資担当特使にも就任している。
もう一人が、水野氏と同様に、安倍政権時代から閣僚としてカーボンニュートラルの重要性を訴え続けていた小泉進次郎環境大臣だ。10月14日に26分間、そして所信表明演説の直前の10月22日にも32分間、菅首相と面会している。
さらに、自民党再生可能エネルギー普及拡大議員連盟の事務局長を務める秋本真利衆議院議員も、菅首相の総裁選の公約時に2050年カーボンニュートラルを直談判していた。
また菅首相は、10月14日には世界経済フォーラムのシュワブ会長とも30分間、テレビ会議をしている。すでに説明してきたように、世界経済フォーラムもカーボンニュートラルを積極的に主張し、アクションを起こしている団体のため、ここでも菅首相の経済政策に対して、カーボンニュートラルの提言があったと考えてもおかしくはないだろう。
所信表明演説に向けての政策協議では、産業界からも経済産業省に対しカーボンニュートラルを政策の柱にするよう働きかけたとの報道もある。(※日経エネルギーNext(2020)〝菅首相、2050年カーボンニュートラル宣言の舞台裏〞https://project.nikkeibp.co.jp/energy/atcl/19/feature/00001/00036/ )クライメート・アクション100+や、ネットゼロ・アセットオーナー・アライアンスをはじめ、株主から2050年カーボンニュートラルを要求されていた大企業は、政策支援を受けるためにカーボンニュートラルを標榜するよう、経済産業省に要請していたという。
報道によると、当初、経済産業省は、2020年の米大統領選挙での共和党のトランプ候補と民主党のバイデン候補の戦いに決着のつく同年12月から2021年1月を目処に、2050年カーボンニュートラルを宣言するつもりだった。しかし、所信表明演説という節目のタイミングが、それにより前に来たため、10月の表明になったという。このように考えると、本書冒頭で紹介したように、経団連が12月に発表したカーボンニュートラル提言の中で、所信表明演説よりも前から2050年カーボンニュートラルの準備を進めていたという話は、実際の動きとの辻褄(つじつま)が合う。
グリーン成長戦略
政府は、10月に宣言した2050年カーボンニュートラルを実現するため、2020年12月に『2050年カーボンニュートラルに伴うグリーン成長戦略』という産業転換方針を採択した。採択の場は、成長戦略会議という、菅政権において非常に格の高い会議体だった。議長は内閣官房長官で、副議長は経済再生担当大臣と経済産業大臣。場合によっては各省の大臣が委員として参加する。この会議で決定された事項は、政府の重要方針となり、各省の政策に大きな影響を与える。
『2050年カーボンニュートラルに伴うグリーン成長戦略』では、14もの業種について、2050年までのイノベーションと産業転換の大きな方向性を示したものとなっている。対象の業種は非常に多岐にわたり、世の中にある企業は基本的にすべて影響を受けることになる。
【対象となった14業種】
- 洋上風力産業
- 燃料アンモニア産業
- 水素産業
- 原子力産業
- 自動車・蓄電池産業
- 半導体・情報通信産業
- 船舶産業
- 物流・人流・土木インフラ産業
- 食料・農林水産業
- 航空機産業
- カーボンリサイクル産業
- 住宅・建築物産業/次世代型太陽光産業
- 資源循環関連産業
- ライフスタイル関連産業
2050年までのカーボンニュートラルは、節電程度では到底実現できはしない。必ず大胆な産業転換が必要となる。この産業転換を見事に成し遂げられた企業は今後も輝いていくことができる。反対に、産業転換に失敗したり、変化をおそれて躊躇(ちゅうちょ)したりした企業は、徐々に経営が傾いていく。