日本の対面証券会社で今、大きな3社を挙げると、野村證券、大和証券、SMBC日興証券だろう。しかしかつては「四大証券」と呼ばれてる存在があった。野村證券、大和証券、日興証券の3社と「山一證券」だ。1997年の自主廃業から2017年で20年となる(法人の解散は2005年)。この節目に山一の破たんについて振り返ってみよう。

山一證券とは

創業1897年と歴史ある証券会社、山一證券は長らく日本の四大証券会社の一角を担ってきた。戦後の一時期には、業績は業界トップだったという。法人向け業務が強く、企業の新規上場の際の主幹事証券も数多く担った。「法人の山一」とも称されていたという。

従業員数も7500人、顧客からの預り資産は24兆円にも達した。当時はネット証券もなく、取引は証券会社に行くか、電話でするのが一般的だった。手数料も今のネット取引に比べ高額であり、高度成長期からバブルの頃までは山一證券の売上は右肩上がりとなっていた。

損失補てんが裏目に

「法人の山一」と呼ばれただけに、法人業務に強みを持っていたわけだが、法人に対して一任勘定による営業を盛んに行っていたそうだ。一任勘定とはいわゆるファンドのような形態で、顧客が詳細な注文を出さなくとも、証券会社に取引を一任して売買するものである。

法人からの多額の預かり資産を一任勘定で売買し、多額の収益を上げていた。ただ同時に「握り(ニギリ)」と呼ばれる行為も多かったと、当時を振り返るニュースなどでは解説されている。これは証券会社が顧客の利回りを保証する行為である。

相場が堅調に推移している場合には一任勘定による取引も順調であったが、バブル崩壊後は株価の大幅な下落により、顧客からの預かり資産にも損失が増えていった。本来なら投資の損失は顧客の自己責任になるのだが、山一證券は利回りを保証していたので損失補てんに追われることとなった。

バブル崩壊、自主廃業へ

バブル崩壊後、株価は下落を続け、顧客の損失も莫大な金額となっていった。同業他社でもバブル崩壊の余波を受けていたが、とりわけ山一證券は顧客に法人が多いこともあり、一任勘定による損失補てんが重荷となっていったと見られる。

株価さえ持ち直せば損失補てんの必要もなく、業績も回復するはずである。株価の再上昇に期待をしつつ山一證券は約1300億円もの一任勘定での含み損を飛ばしという行為で隠ぺいを図った。飛ばしとは決算の際に含み損を抱えた資産を一旦他社に簿価で売却し、決算後に買い戻すという手法だ。これにより決算書の見た目上は損失を隠蔽することができた。しかしバブル崩壊後の株価は下落の一途をたどり、飛ばしによって隠ぺいしていた簿外債務もますます膨れ上がっていったわけだ。

このような隠ぺいが長続きするはずもなく、1997年にはこれまでの簿外債務や様々な不正行為が明るみとなりついに自主廃業に追い込まれた。山一證券の破たんはバブル崩壊を象徴する出来事となり、「社員は悪くありません。悪いのはすべて経営陣です」と当時の社長の号泣会見の映像は、時おりテレビで放映されることがあるので、見たことがある人も多いだろう。

簿外債務は2600億円にも上り、負債総額は3兆5000億円と日本の金融史上稀にみる規模の破たんとなった。余談だが当時の社長は破たん3カ月前に就任したばかりで就任当時は2600億円もの簿外債務の存在すら聞かされていなかったという。

かくして戦後の一時期は証券業界トップの座に君臨し、その後も日本四大証券会社の一角を担った山一證券は創業100年で廃業となったのだ。

破たん、その後

破たん後の山一證券には運用資金や株券の返却を求めて顧客が殺到した。日銀も顧客の資産保護のため山一證券に無担保・無制限の特別融資を実施するなどの対応に追われた。最終的に店舗や社員の一部はメリルリンチに引き取られることとなった。

自主廃業を公表後、大半の社員はすぐに再就職したが、最後まで会社に残った社員もいた。彼らは経営破たんの真相を自ら追究しながら、精算業務に奔走した。この時の話が『しんがり 山一證券最後の12』(清武英利著、講談社、2013年)に克明につづられている。同作は14年度講談社ノンフィクション賞も受賞し、15年にはWOWOWでテレビドラマ化もされている。(ZUU online 編集部)

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