株式投信を運用するファンドマネジャーは、どの企業に投資するかを決めるのが仕事だ。しかし、そのファンドマネジャーが企業の決算説明会への出席を断られた時代があるという。今からわずか30年ほど前のことだ。ファンドマネジャーという存在がまだ広く認知されていなかった時代、「顔の見える」ファンドマネジャーを目指して大島和隆氏が取り組んだこととは。(取材・濱田 優 ZUU online編集長/写真・森口新太郎)

おおしま・かずたか
1961年生まれ。85年太陽神戸銀行(現・三井住友銀行)入行、太陽神戸投資顧問、さくら投信(合併により「さくら投信投資顧問」)、合併により三井住友アセットマネジメント。2005年に同社退社、同年バディ・インベストメンツ設立。08年楽天証券入社、楽天証券経済研究所チーフストラテジスト就任。その後、楽天投信投資顧問社長兼チーフ・インベストメント・オフィサーに就任。12年退社、バークレイズ・ウェルス ISS(インベストメント・ソリューション・スペシャリスト)ヘッド。17年5月退社、現在は経験を伝えるための情報提供サイト「ファンドガレージ」主宰。「顔が見えるファンドマネジャー」のパイオニア。著書に『97%の投資信託がダメなこれだけの理由』(ビジネス社)などがある。

(取材は2019年4月上旬に行われました)

特集大島和隆01
(写真=森口新太郎、ZUU online編集部)

父は商社マン、銀行でやりたかったのは世界を飛び回るような仕事

――大島さんといえば日本版金融ビッグバンの時期に、顔の見えるファンドマネジャー、カリスマ・ファンドマネジャーとして活躍され、「さくら日本株オープン」が人気でファンドオブザイヤーにも選ばれたことを記憶しています。現在は独立されているそうですが、当初からファンドマネジャーになることを志していたんでしょうか。

違いますね(笑)。大学を出て1985(昭和60)年に太陽神戸銀行(当時。現・三井住友銀行)に入行して、2年半はいわゆる普通の銀行員をしていました。最初に配属されたのは池袋駅支店で、西武百貨店の横にあって、今はたしか無印良品があるところです。

もともと海外に出て、世界を股にかけて飛び回るような仕事をしたかったんです。人事部には「海外のシンジケート・ローンのリードとかをやりたい」なんてことを言っていましたから。まあ、当時の太陽神戸銀行がそんなことができたかというと……いま振り返ってみれば、夢がかなり現実の先を行っていたなという感じですね。

銀行に入ってから2年半経ったところで選抜試験に合格して、3カ月間、日米会話学院への語学派遣研修も受けさせてもらったので、これで海外勤務要員になって希望通りだと思っていたら、「投資顧問会社出向せよ」といきなり言われて。それがファンドマネジャーになる第一歩といえるでしょうね。

――学生の時に「グローバルな仕事がやりたい」と思ってらしたなら、就職先として銀行以外の選択肢があったのではないでしょうか。お父様が銀行員だったのでしょうか。

いえいえ、父は商社マンだったんですよ。だけど自分はジャングルとか砂漠とか、そういう所に行かされるのはちょっと嫌だなぁ……と思っていて。

――それは就職活動の時点で、「商社は進路として違う」と決めていたということですか?

実際には商社にもエントリーして面接に行ったんですけどね。ただプラントエンジニアリング会社の方が面接中に、(海外の)現地で事故が起こって(犠牲者が出たから)棺(ひつぎ)を手配しなくてはいけないと途中で離席されたことがあって、そのインパクトがとても強かったですね。