本記事は、フランク・マルテラ氏の著書『世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない』(ハーパーコリンズ・ジャパン)の中から一部を抜粋・編集しています
「幸福」という悲しき人生の目標
幸せな人というのは、(私が思うに)自分の幸せ以外の何かに心を留めている人だけである。たとえば、他人の幸せや、人類全体の進歩、あるいは何かの芸術、仕事などを単なる手段としてではなく、究極の目的として追求している人は幸福だろう。自分の幸せ以外のことを心に留めていれば、そのことによって幸せを見つけることができる。 ──ジョン・スチュアート・ミル『ミル自伝』[1873年]
私たちの先祖には、渇望を癒やしてくれるような「大きな物語」があった。ところが現代の私たちはそういう物語を失っている。そして人間を、単に苦痛を避け、快楽を追求する存在だとみなすようにまでなってしまった。かつては、超越的な価値というものがあり、そのために人生を賭けるに値するような目的が存在すると思えたのだが、それが失われた今、空いた隙間を“幸福”が埋めるようになっている。
現代の、特に西欧の社会では、幸福がなによりも優先すべき人生の目的となった。幸福は大きなビジネスを生んでもいる。2000年には、幸福をテーマにした本は50冊ほど出版されただけだったが、わずか8年後、その数は4000冊に近くなった。現在では、“幸福担当役員=CHO(Chief Happiness Officer)”と呼ばれる役職を置いている企業まで存在する。その名のとおり、社員に幸福をもたらすことを仕事とする役員だ。また、ソフトドリンクや香水などを消費者に“幸せを届ける商品”として販売する企業もある。
政府までもが幸福に注目し始めている。世界の156ヵ国を、国民がどの程度幸福かでランクづけした“世界幸福度報告”が最初に発表されたのは2012年である。この報告に注目する人は年々増えている。南アジアの小さな王国であるブータンでは、1970年代以降、GDP(Gross Domestic Product=国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness=国民総幸福量)を増やすことを政府の目標としてきた。
雑誌の記事から、書籍、歌、広告、マーケティング戦略などにいたるすべてが、GNHを増やすという目標達成に寄与するものになっている。現代においては、「今を楽しく生きる」という考えはもはや強迫観念に近いものだと言ってもいいだろう。幸福を追求することは個人の権利というだけでなく、個人の義務であると言う人もいる。
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