本記事は、クレイトン・M・クリステンセン氏(著)、エフォサ・オジョモ氏(著)、カレン・ディロン氏(著)、依田光江氏(訳)の著書『繁栄のパラドクス 絶望を希望に変えるイノベーションの経済学』(ハーパーコリンズ・ ジャパン)の中から一部を抜粋・編集しています
繁栄のパラドクスを知る
私は困難な課題が目のまえにあるとき、課題の本質をつかみやすくする道具として理論をよく利用する。優れた理論があると、ものごとを動かすメカニズムを理解しやすくなる。
空を飛ぼうとした人類の歴史を振り返ってみよう。かつての学者は、空を飛ぶことと、羽根と翼のあることのあいだには強い相関があると考えた。何百年もまえから、人は身体に翼をくくりつけて飛ぼうとしてきた。舞いあがる鳥を見て、あの翼と羽根があれば飛べるにちがいないと考えたのだ。
空を飛ぶ鳥をまねて、これがベストプラクティスだと考えたとおりに翼をくくりつけ、懸命に両腕をバタバタさせて教会の塔から飛び降り……地面に激突した。翼と羽根にはたしかに飛行との相関があるのだが、“空飛ぶ人間”になろうとした彼らは、ある種の生物に飛行能力をもたらす基本的な因果メカニズムを理解していなかった。そこが敗因だった。
翼の形状や羽根の量にも意味はあるものの、人類の飛行を画期的に進歩させたのは翼でも羽根でもなかった。オランダ系スイス人の数学者、ダニエル・ベルヌーイが流体力学の研究をまとめた著書“Hydrodynamica”(流体力学)だ。1738年に出版されたこの本では、のちに「ベルヌーイの定理」として知られることになる理論の骨子を論じており、この理論を空気の流れに当てはめると揚力の概念を説明することができる。ここへきてようやく、焦点が相関(翼と羽根)を離れ、因果メカニズム(揚力)に移ったのだ。現代の飛行技術の始まりは、この理論の誕生にあると言っていい。
しかし、飛行を可能にする要素の理解が進んだだけでは、安全確実に物体を飛ばすには充分でなかった。飛行機が墜落すると、専門家は知恵を絞り合った。「原因としては何が考えられるだろうか?風か?霧か?飛行機の進入角度か?」。ひとつひとつを掘り下げ、専門家はパイロットにどのようなルールを課せば、さまざまに異なる環境のなかでもうまく飛べるかを解明していった。これは優れた理論に欠かせない特質であり、if/then文のかたちで方向性を示すことができる。
ビジネス・スクールの教授である私は、自分が詳しくない業界であっても、特定の課題について質問されることがよくある。そうしたときになんらかの知見を提示できるのは、「何を」ではなく「どんなふうに」その問題を考察すればよいかを教えてくれる理論という道具があるからだ。優れた理論に照らすことは、問題の枠組みを明らかにし、正しい質問をつうじて有効な答えを得るための、最も優れた方法だと言える。理論に照らして考察することは、「何がこれを引き起こすのか、そしてそれはなぜか」というきわめて現実的な問いに集中することである。このアプローチが本書全般の中核をなす。
では、貧しい国々に繁栄をつくりだし、世界全体をより幸せにしようとする試みに理論はどのようにかかわるだろうか?繁栄と相関のある多くのこと──翼と羽根をくくりつけること──はじつに魅惑的に映る。貧しい地域に清潔な水をもたらす井戸に心動かされない人はいないだろう。だが、一見すばらしそうな試みにどれほど投資したとしても、何が持続可能な経済成長をもたらすのかを理解しないかぎり、現実には成長の歩みは遅いままだ。
われわれが、日本やメキシコ、ナイジェリア、シンガポール、韓国、アメリカなど世界各国の多彩な経済の進歩(あるいはその欠如)を精査したところ、タイプの異なるイノベーションが、国の長期的な成長と繁栄に大きく異なる影響を及ぼすことがわかってきた。
シンガポールのように経済発展を最重要視する政府の主導によって繁栄を達成した国もあれば、アメリカのように、はるか昔から民間主導でゆっくりと繁栄に向かって歩きはじめた国もある。どの国も国土の面積や人口規模、文化、リーダーシップ、強みがそれぞれに異なり、こうした要素が国の繁栄の姿に影響を及ぼす。
しかし全体としては、イノベーションへの投資、とくに市場創造型イノベーションへの投資が、ほとんどの国にとって繁栄への確実性の高い道であると言える。本書は、今日繁栄している経済がたどってきた歴史を振り返り、新市場の創造プロセスを説明するわれわれの理論の要点を明らかにする。実際に、この創造プロセスを通して、世界でもとくに貧しかった国が数十億ドルの価値をもつ市場と、莫大な数の雇用を生み出している。
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