本記事は、佐藤耕紀氏の著書『今さらだけど、ちゃんと知っておきたい「経営学」』(同文舘出版)の中から一部を抜粋・編集しています。

現状維持
(画像=PIXTA)

なぜ、ダイエーは衰退した?

組織の惰性と現状維持バイアス

組織がなかなか変革できないことを、比喩的に「組織の惰性」(organizational inertia)といいます。

ボウリングの球を投げると、手を離れたボールは惰性(慣性)で(カーブをかけていなければ)レーンを真っ直ぐに進んでいきます。軽いピンにぶつかったくらいでは、スピードも方向も大きくは変わりません。

自動車もある程度のスピードで走っていると、「急にハンドルを切っても曲がりきれない」「ブレーキをかけてもすぐには止まれない」ということがあります。

組織でもそういうことがあります。とくに成功を重ねて大きくなった組織では、「環境が変わっても以前のやり方を変えられない」「過去の成功体験から抜け出せない」ということがあります。

「価格破壊」をスローガンとして高度成長の時代に躍進し、小売業の売上トップに上りつめたダイエーは、バブル崩壊後は経営不振に陥り、2015年にイオングループの完全子会社になりました。

セブン&アイホールディングスの元会長で「流通の神様」といわれた鈴木敏文さんは、ダイエーの中内㓛元会長について次のように語っています。

中内さんは偉大な経営者で、ものが不足していた時代に日本にスーパーマーケットを導入して、いかにものを充足させるか、いかに安く売るかということに専念した。ただ時代がどんどん変わってきたのに、“安さ”から抜けられなかったんでしょうね(※1)。

経済学者のセイラーは、惰性について次のように書いています。


損失回避性が私たちの発見を説明する要因の1つであることはまちがいないが、それと関連する現象がある。惰性だ。物理学では、静止している物体は、外部から力を加えられない限り、静止状態を続ける。人もこれと同じように行動する。別のものに切り替える十分な理由がない限り、というよりおそらくは切り替える十分な理由があるにもかかわらず、人はすでに持っているものに固執するのである。経済学者のウィリアム・サミュエルソンとリチャード・ゼックハウザーは、こうしたふるまいに「現状維持バイアス(status quo bias)」という名前をつけている。(※2)

変えないのが安全?

進化心理学の観点からいうと、人間を含む多くの動物が「現状維持バイアス」をもつのは、野生の厳しい環境のなかで、それが生存に有利だったからでしょう。

たとえば「いつも通る道」「いつも食べるもの」は、安全が確認されています。ときには必要に迫られて、新しい道や食べ物を探さなければならないこともあるでしょう。しかし、それには危険がともないます。

気まぐれでよく知らない道を選んだために、他の部族や猛獣に襲われて死ぬかもしれません。足を滑らせて転落するかもしれません。見慣れないものを食べたら、フグやトリカブトのような毒があるかもしれません。

進化のなかで人間が適応してきた狩猟・採集時代の環境では、安全が確認されていることを繰り返すのが生存に有利だったのでしょう。官僚制の弊害(8-2~8-4)として批判されることもある「前例踏襲主義」ですが、それは生物の本能に深く刻まれているのかもしれません。

現代先進国の環境は、狩猟・採集時代よりもはるかに安全です。現在の私たちは、惰性や現状維持から脱して、もっと大胆に試行錯誤やチャレンジをすべきかもしれません。

苦痛は喜びの2倍?

損失回避

セイラーの引用文(2-5)のなかで「損失回避」(loss aversion)という言葉が出てきました。これについても説明しておきましょう。

セイラーは「損失から被る苦痛が、同じ規模の利得から得られる喜びを上回る人間心理は、損失回避と呼ばれる」「大まかに言うと、損失の苦痛は利益を得たときの喜びの2倍強く感じられる」(※3)と言います。

たとえば20万円をもらったときの喜びと、10万円を失ったときの苦痛は、主観的にはだいたい同じくらいに感じられるということです。人間は何かを得ることよりも、失うことに対して、2倍くらい敏感に反応するのです。こうした心理は、どのように進化したのでしょうか。

動物の世界で利益というと、代表的なのは食べ物でしょう。野生の世界では保存技術もなく、お金に換えて貯めるということもできませんから、自分や家族で食べられる以上に食料を集めても意味がありません。よくばって食物を探しすぎると、捕食者に見つかって命を落としかねません。

損失は、捕食や怪我や飢餓でしょう。一定以上の損失をこうむると死んでしまうので、損失の回避はまさに死活問題です。「利益の獲得」よりも「損失の回避」を優先するように進化したのは、厳しい環境を生きのびるうえで、その方が有利だったからでしょう。

日本で成果主義がうまくいかない理由

日本では「年功賃金」(seniority-based wages)が多く、「成果主義」(performancebased wages)があまりうまくいかないことも、損失回避の考え方で説明できるかもしれません。

給与総額を一定として成果主義を取り入れると、社員どうしが「ゼロ・サム・ゲーム」(zero-sum game)の状況に置かれます。「ゼロ・サム」というのは、誰かのプラスと誰かのマイナスの合計(sum)がゼロになることです。自分がプラスを得るには、そのぶん誰かをマイナスにしなければなりません。

たとえば地球上の土地が一定なのに、領土の奪い合いをすれば、これはゼロ・サム・ゲームです。ある国が領土を増やせば、他国の領土がそのぶん減ります。誰かに損失を負わせなければ利益を得ることができないので、ゼロ・サムの争いは熾烈になります。できれば、そういう競争は避けたいものです。

さて、損失回避からいえば、10万円給料が増えた人のモチベーションの上昇幅よりも、10万円給料が減った人のモチベーションの下落幅の方が大きいことになります。そうすると、成果主義で給料の差をつければつけるほど、社員のモチベーションの総計は下がります。そうした状況で成果主義がうまくいかないのは、簡単な算数でわかるのではないでしょうか。

ゼロ・サム・ゲームの成果主義では、他人の給料が減らないかぎり、自分の給料は上がりません。そうすると、他人の足を引っ張る行動も誘発されるでしょう。成果主義がそういうインセンティブ(1-3)を与えるのです。

アメリカなどでは解雇も転職も容易ですから、モチベーションを失った社員は会社を辞めて新天地を探すことになります。モチベーションの上がった社員にだけ働き続けてもらい、希望に燃える新入社員を採用できるわけです。

動物はつねに「損失回避」をするわけではありません。1-9でお話ししたように、多くの動物のオスは、繁殖に関しては果敢な行動をとります。繁殖を争うオスどうしの闘争は、ときには命の損失もいとわない苛烈なものです。多くの動物は、生存にかかわる場面では損失回避的です。しかし繁殖にかかわる場面では、オスは損失をいとわず、利益を追求します。これは人間にも当てはまるようです(※4)。


  • (※1)週刊朝日、2014年10月10日号、https://dot.asahi.com/wa/2014100300044.html
  • (※2)リチャード・セイラー著、遠藤真美訳『行動経済学の逆襲』(早川書房、2016年)、pp.223-224
  • (※3)リチャード・セイラー著、遠藤真美訳『行動経済学の逆襲』(早川書房、2016年)、p.62
  • (※4)Yexin, Jessica, Douglas T. Kenrick, Vladas Griskevicius and Steven L. Neuberg, "Economic Decision Biases and Fundamental Motivations: How Mating and Self-Protection Alter Loss Aversion," Journal of Personality and Social Psychology, 102-3, 2012, pp.550-561.

今さらだけど、ちゃんと知っておきたい「経営学」
佐藤 耕紀
防衛大学校 公共政策学科 准教授
1968年生まれ、北海道旭川市出身。旭川東高校を卒業後、学部、大学院ともに北海道大学(経営学博士)。防衛大学校で20年以上にわたり教鞭をとる。経営学にあまり興味がない学生を相手に、なんとか話を聞いてもらう努力を重ね、とにかくわかりやすく伝える授業にこだわっている。就職、結婚、子育て、といった人生のイベントをひととおり終え、生活者としての経験をふまえて、仕事にも人生にも役立つ経営学を探求している。趣味はクラシック音楽と海外旅行。これまでに経営学の共著が6冊ある。

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