本記事は、大下英治氏の著書『論語と経営 SBI北尾吉孝 上 激闘篇』(エムディエヌコーポレーション)の中から一部を抜粋・編集しています。

ステップアップ
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別れの条件――「月に1回メシを食ってくれ」

ソフトバンクはADSL事業で顧客獲得に力を入れた結果、平成13年(2001年)度から平成16年(2004年)度まで四期連続で赤字を出した。

平成13年(2001年)度が887億円の赤字、平成14年(2002年)度が999億円の赤字、平成15年(2003年)度が1,070億円の赤字、平成16年(2004年)度が598億円の赤字であった。

折悪しく、Yahoo! BB の顧客情報漏えいも発覚した。あおぞら銀行を3年以内に売却したという経緯もある。あまりにもチャレンジングなソフトバンクの子会社でいたら、金融の企業生態系をつくりあげるべく、銀行、生保、損保に進出しようとしても、管轄省庁である金融庁が、免許をおろしてくれない可能性は高い。公開企業として独自の資金調達もできなかったり、条件が不利になることもある。

様子を見守っていた北尾は、これ以上続けると危険だ、というギリギリのタイミングで、孫正義に連絡をした。

「孫さん、このままだとソフトバンクが危ない。いま残っている26%のSBI株を、全部売って良いですよ。すでにもうゴールドマン・サックスに話はつけてある。これが最後の手段です」

SBI株売却が最終手段だということを、孫も承知していた。が、北尾に言い出しにくかったのだろう。

平成18年(2006年)8月、ソフトバンクは子会社を通じて保有していたSBIホールディングス株26.7%を売却。売却総額は約1,360億円になった。

この株の売却により、ソフトバンクは生き延びることができた。同時にSBIホールディングスは、ソフトバンクの持分法適用関連会社から外れた。ソフトバンクから、独立したのである。

北尾は思った。

〈この7年間で僕ができることはすべてやり尽くし、ソフトバンクの道筋をつけた〉

北尾は、孫に、ソフトバンクグループの傘下にあってはファイナンス事業の発展は続けられないことを正直に語った。

すべてを聞き終わった孫は、北尾が思ってもみなかった言葉を吐いた。

「申し訳ないな、北やん、苦労をかけて」

その言葉は、なかなか言えるものではない。さすが、一介のソフトウェア卸会社からここまでソフトバンクを成長させた孫である。その器の大きさを、北尾はあらためて思い知った。

SBIホールディングスが独立した経緯について、孫が今回あらためて語る。

「当時は、ネットバブルが弾けたあとに、平成13年(2001年)からYahoo! BB を始めて、数年は大赤字が続き、我々も会社としての体力、財力が一番衰えていた時でした。日本で一番大きな会社に戦いを挑むということは本当に無謀なことでしたから。でも、僕は日本の情報革命のためにはやるべきだと決断しました。自分の会社のためという次元を超えて、決めたわけです。ですが、その決断は、本来経営者として考えた場合、一番やってはいけないことなんです。経営者は何よりも会社を守らないといけません。

でも僕は、何十年に1回か、日本のため、そして、自分の生き様のために、そういう決断をしなきゃいけないこともあるんだと正当化して、挑戦しました。『Yahoo! BB』に挑戦してからは4年間も1,000億規模の赤字を続けました。苦しい戦いではありますが、僕なりに充実はしていました」

一方で、当時の北尾は、多くの投資家の資産を預かり、運用し、彼らの利益を守っていく立場であった。

「どれだけSBI証券が頑張っても、親会社の本体が大赤字だったわけですから。分離独立して事業と顧客を守らないといけないと考えて、北やん自身、苦しい選択を迫られたわけです。一番どん底の時は、ソフトバンクの時価総額が20兆円から2,000億円まで落ちました。1年間で、100分の1です。時価総額2,000億円の会社が年間1,000億円規模の赤字を出していたわけですから、よく生き延びたなと思います。そういう時期の話ですから、北やんから独立の話があった時には、僕は迷わずに『顧客を守ることを優先しないといけない』ということで、納得して受け入れました」

孫は、その代わり、1つだけ条件を出してきた。

「北やん、1カ月に1回、必ず一緒にメシを食ってくれないか。それで、おれの相談に乗ってくれないか」

それ以来、北尾吉孝と孫正義の月に1度の会食は、数年もコンスタントに続けられた。そのうちにお互い多忙となってなかなか日程が合わなくなり、出張も重なる中で以前ほど頻繁には会えなくなってしまった。だが、孫と北尾は現在も時折、会食をし、さまざまな話をする深い親交がある。

孫は、北尾という人物をどのように見ているのか。

孫が語る。

「北やんは、やっぱり大局観があります。物事を見る大局観、そして、緻密な分析能力、この2つを備える稀有な経営者です。緻密な人は大局を見られない場合も多いけれど、北やんは違います。最初に大きく大局を捉えて、それを緻密に分析する。守りが強い人は攻めが弱い人が多いけれど、北やんは守りも攻めも非常に強い。そういう意味では凄い人物だと思います」

北尾の大局観は、いつ身につけたことなのか。野村證券時代か、それともソフトバンク時代なのか。

孫がさらに語る。

「北やんの子どものころからの環境や、学び続けてきたことなども含めて、彼の天性によるものなんだと思います。もちろん社会に出て、野村證券時代に、優れた経営陣から、学んだことも多かったでしょう。僕自身も、彼に多くのことを学ばせてもらいましたから」

孫は、北尾がソフトバンクに在籍していた時代、北尾から金融界をはじめ、多くのことを学んだという。

「北やんがいなかったら今日のソフトバンクはない」

男性,ビジネスマン
(画像=PIXTA)

孫正義は、後のSBIホールディングスの創業20周年記念のスピーチで「北やんがいなかったら今日のソフトバンクはない」と語った。

北尾吉孝は、ADSL事業で見せた孫の大胆なビジネス手法に舌を巻いていた。

〈あの豪腕ぶりは、僕よりも孫さんの方がはるかに上だ〉

孫のスケールの大きさ、交渉力、度胸、さまざまなものを吸収する力。そうした面ではかなわない。

北尾は素直にそう認めた。

〈ただ、孫さんは〝人徳〟という部分では、もっともっと磨く必要がある〉

北尾の秘書は長年務めてくれているが、孫の秘書は次から次へと変わっていた。あれだけ頻繁に変わるのには、それなりの理由があるのだろう。

実の父親が借金取りに追われている時に見せた、孫のドライさ。病気の自分の代打として社長に据えた大森康彦おおもりやすひこから生まれた猜疑心。

その猜疑心は、正直言って時に北尾にも向けられた。北尾は孫におもねるのではなく、本当の意味でソフトバンクのため、孫のためだけを考えて、いろいろ発言してきた。役員会でも8割方反対意見を述べた。噛んで含めるように説明しても北尾の真意や先を見通した意見が伝わらない時は、「こんなつまらない役員会出てられるか!」と言い残して退室したこともある。日ごろは穏やかな北尾も、本来の気性は激しい。特にソフトバンクにいた頃はまだ北尾も40代と若かったから、遠慮せずズバズバと口にした。

結果はいつも北尾の指摘したとおりになった。すると孫はいつまでも意地を張らず、最後は理解を示してくれた。

2人きりになると、素直に心の内を明かしてくれた。

「あれだけ役員会で満座の中でけちょんけちょんに言われると、俺もムッとくることあるよ。だけど考えてみると、北やんは俺のため、ソフトバンクのために言ってくれてるんだよな」

北尾は思った。

〈こんな風に言ってくれるのは、本当にありがたい〉

だが、それでも孫には大森康彦の影がつきまとっていた。どうやら孫の目に、北尾と大森が重なる瞬間があるらしい。

ある日、孫が、不意に口走った。

「大蔵大臣が、総理大臣より上になっちゃったら、おかしくなるよね」

常務である北尾が、社長である孫より上に立ってビジネスを仕切っている、ということなのだろう。

孫のこの言葉を聞いた時、北尾は思った。

〈もうこの人とは、たもとを分かつべきだ〉

いくら北尾が孫やソフトバンクのことを考えてビジネスを進めても、孫の猜疑心は消えることはない。

北尾のもとには、北尾を支えてくれる人たちが次から次へと集まってくれた。その付き合いは自然と長くなる。

それは、北尾が「理知」より「情知」を大切にしているからだった。これも論語の中で学んできたことだが、やはり人間は感情の動物であり、それを度外視することはできない。仕事だからと理で割り切った画然たる知ではダメということである。

北尾が「情」を選択したことでマイナスの結果になったことは、これまで数多くあった。が、人間関係や人付き合いの面から見ると常にプラスである。

ある人が言った。

「いや、いつもニコニコしている孫さんよりも、北尾さんのほうが怖いように見えるけど、最終的に長く付き合っていきたいと思うのは北尾さんなんだ。つまり、北尾さんのほうがずっと優しいということだ」

もちろん孫も人の情を理解している。が、自分自身の姿を自分で確認するためには鏡が必要なように、心の奥底に潜む本当の自分の姿は、他人という鏡を通してしか確認できない。仏教の禅宗に見性けんしょうという言葉があり、人の本来備わっている本性を見極めることを意味する。その先にあるのは悟り、成仏である。孫の場合、生い立ちや過去の体験に起因するものがまだ根深く残っており、悟りへの道はまだ半ばのようだった。

なお、平成13年(2001年)6月からソフトバンクグループの社外取締役を務めているファーストリテイリングの柳井正やないただしは、北尾が去ることを非常に惜しんでくれた。

「北尾さんがいなくなったら、ソフトバンクはもうガタガタになっちゃうよ」

その柳井も令和元年(2019年)12月31日付でソフトバンク社外取締役を退任した。柳井は北尾に言った。

「事業家としての孫さんは好きだけど、投資家の孫さんは好きになれない」

柳井には柳井なりの考えがあったのだろう。柳井は自分のグループでも投資には手を付けず、事業に専念し続けている。

野村の客層50代以上、SBIは20~30代

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商号のSBIは、元々ソフトバンクグループの金融関連企業として設立されたため「Softbank Investment」の略であったが、独立してからは「Strategic Business Innovator」の略に変更した。

SBIホールディングスの独立は、グループ会社の株価にも、悪影響をあたえることはなかった。

外から見ても、自然の成り行きとして見られていたのではないか。良い意味で「分離」ができた。

事業持株会社であるSBIホールディングスの下には、SBI証券や住信SBIネット銀行が並列的にぶらさがっている。

野村證券時代から北尾についている川島克哉は、SBIホールディングスの役員にも名を連ねていた。月に1度開かれる役員会では、月次報告を受けたりする一方で、グループ全体を見渡した話題が繰り広げられる。

「川島のところの銀行と、井土(太良)いづちたろうのところの証券で、この仕事をうまくやったらいいんじゃないか」

ネット銀行とは関係のない案件も、役員会で聞くこともある。だが、そのような話を通じて、情報共有、伝達の場として機能している。新たなビジネスを考えるヒントを得る場合もある。

北尾は、野村證券を、古い時代の企業と見ている。

野村證券の主だった客層は、50代以上である。SBI証券のおもな顧客層である20代、30代が、一度、SBI証券で口座を開設すれば、わざわざ手数料の高い野村證券に口座を開設するわけがない。

野村證券は、年齢層の高い顧客を抱えたまま、30年後には50代の顧客が80代となっていく。

野村證券の場合、いまや悩ましい立場にいる。ネット証券にも本格参加をしたいかもしれないが、多くの社員を抱えた状態で、収益が激減することになってしまうからである。

しかも、これまでのまま従来の方法で取引をしていれば、顧客から指摘されてしまうかもしれない。

「同じ取引なのに、どうして、ネットは手数料が何十分の一でできるんだ」

野村證券は、葛藤にさいなまれることになるかもしれない。

哀しいかな、野村證券の社長はサラリーマン社長であるがゆえに、どうしても視点が短期的になってしまう。目の前の利益が優先される。日本の経営者のよさは、長期的にものを考えられるところだとかつては言われていた。しかし、今は、そうではない。

SBIホールディングスのメインターゲットは、SBI証券を見てもわかるように、顧客の約6割を20代から40代で占める。資産形成期に向かうこの世代は、インターネットに対する抵抗感がない。それは、将来的に、強みとなる。

ただし、一人ひとりが動かす投資金額は、従来どおりの取引をしている個人投資家のほうが大きい。

また、リスクが高く説明を要する商品では、ネットでの販売は不向きである。

北尾は、ことあるごとに口にしている。

「ネットとリアルを融合しなくてはならない」

北尾の基本的な考えである「顧客中心主義」を貫くためにも、リアルとネットの両方をグループで持ったほうがよい。

しかも、SBI証券は将来、証券会社でのトップを目指す。他のネット証券企業は所詮、ネット証券の中でどの位置にいるかしか考えていない。

従来の取引方法で投資する投資家と、ネット取引をする投資家、いずれも狙える企業は少ない。

住信SBIネット銀行設立へ

北尾吉孝は、かつて所属していた野村證券という会社をほとんど意識することはなかった。それよりも、野村を辞めて北尾について来てくれた人たちに、自分たちの決断を後悔してほしくない思いでいっぱいだった。縁あって同じ会社に奉職し、北尾が辞めたことで一緒についてきてくれた人は、60人にも達していた。

〈彼らのために、より良い仕事、職場環境、報酬を用意しなければならない〉

野村證券より良い職場。そういう意味では、野村を意識していた。

北尾は、事業拡大のために、素晴らしいパートナーと次々と手を組んだ。

例えば、SBIホールディングスは、ネット銀行設立のためのパートナーを選ぶのに、いくつかの銀行と交渉を進めた。だが、交渉はなかなか進まなかった。

交渉相手の財政状況が見た目よりもよくないとか、交渉相手の出している条件では利益が上がらないとか、どの銀行も、一長一短で、条件が整わなかった。SBIホールディングスのほうから断っていた。

そんな折、北尾は住友信託銀行の経営陣が、ネット銀行に興味をもっているとの情報を得た。SBIホールディングス社員の1人が、住友信託銀行につとめる知人を通じて、住友信託銀行の経営陣に打診したのである。

北尾としても、住友信託銀行と聞いたときに、直感めいたものが働いた。住友信託銀行は、意思決定が早く、買収も素早くおこなう〝ユニークな銀行〟というのが、北尾が抱いていた印象であった。

「話を進めよう」

さまざまな試行錯誤のうえで、現場からの声を尊重した形である。

ただし、交渉の場に、いきなり北尾が出ていくことはなかった。まずは、たがいの現場社員たちに話をさせた。あくまでもボトムアップの形をとって、あるレベルまで達したときに初めて森田豊もりたゆたか社長との交渉の場に出た。

森田社長と会ってからは、ネット銀行設立準備会社を設立するまで、たいして時間はかからなかった。

印象どおり、さすがに意思決定が早い銀行であった。

信託銀行は、往々にして、顧客の年齢層が高い。住友信託銀行としても、SBIホールディングスとの提携を通じて、より若い層の顧客を取り込みたいとの狙いがあった。

平成18年(2006年)4月には、住友信託銀行とSBI住信ネットバンク設立準備調査会社を設立した。出資比率は両社50%で資本金は40億円。平成19年(2007年)9月18日に銀行営業免許を取得、9月24日から営業を開始した。

論語と経営 SBI北尾吉孝 上 激闘篇
大下 英治
作家。1944年広島県に生まれる。広島大学文学部仏文学科卒業。大宅壮一マスコミ塾第七期生。1970年、『週刊文春』特派記者いわゆる“トップ屋"として活躍。圧倒的な取材力から数々のスクープをものにする。月刊『文藝春秋』に発表した「三越の女帝・竹久みちの野望と金脈」が大反響を呼び、三越・岡田社長退陣のきっかけとなった。1983年、『週刊文春』を離れ作家として独立。政治、経済、芸能、闇社会まで幅広いジャンルにわたり旺盛な執筆活動を続ける。『小説電通』(三一書房)でデビュー後、『実録 田中角栄と鉄の軍団』(講談社)、『美空ひばり 時代を歌う 』(新潮社)、『昭和闇の支配者』(だいわ文庫)〈全六巻〉、自叙伝『トップ屋魂』(解説:花田紀凱)、『孫正義 世界20億人覇権の野望』、『小沢一郎の最終戦争』(以上ベストセラーズ)、『田中角栄秘録』、『児玉誉士夫闇秘録』、『日本共産党の深層』、『公明党の深層』、『内閣官房長官秘録』、『小泉純一郎・進次郎秘録』、『自由民主党の深層』(以上イースト新書)、『安倍官邸「権力」の正体』(角川新書)、『電通の深層』(イースト・プレス)、『幹事長秘録』(毎日新聞出版)、近著に、『ふたりの怪物 二階俊博と菅義偉』、『野中広務 権力闘争全史』、『小池百合子の大義と共感』、『自民党幹事長 二階俊博伝』(以上エムディエヌコーポレーション)、『内閣官房長官』、『内閣総理大臣』(MdN新書)など著書は480冊以上に及ぶ。

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