この記事は2023年2月6日に「第一生命経済研究所」で公開された「本格的な賃上げには外圧が必要」を一部編集し、転載したものです。
(※)本稿は、週刊エコノミスト(2月7日号)への寄稿を基に作成。
1.マクロ環境が整わない中でも外圧により進む賃上げ
このところ、春闘の本格交渉を控え、賃上げ報道が相次いでいる。中でも衝撃的だったのが、某アパレル企業が、年収で最大40%の範囲で国内従業員の報酬改定を実施し、国内人件費を15%増加させることを発表したことである。
基本的に賃上げは、①企業業績、②労働需給、③インフレ率、の三つの要素から決まるとされており、これまで国内のマクロ環境が整わない限り、なかなか大幅な賃上げの実現は難しいとされてきた。しかし、今回の大幅賃上げの背景には、海外に比べて報酬水準が低位にとどまっているということがあり、世界水準での競争力と成長力を強化するためとのことである。
そもそも、日本では労働需給がある程度ひっ迫しても、従来の日本的雇用慣行であるメンバーシップ型雇用の割合が高いことから、労働市場の流動性が低く、海外のように賃金が上がりにくいということが指摘されてきた。しかし、今回のケースに基づけば、グローバルな競争にさらされる企業では、外圧という要素も賃上げを左右する無視できない存在になってきている。
2.TSMC熊本工場での人材確保
こうした外圧による賃上げは、世界最大手の半導体受注メーカーTSMC進出で賑わう熊本周辺でも起きている。というのも、TSMC熊本工場が採用する23年春の大卒初任給は28万円と熊本県の相場よりも4割程度高い金額となり、中途採用の年収も厚遇されることが打ち出されたためである。
こうした動きにより、熊本県内はおろか近隣県でも人材の争奪戦が激化しており、マクロ環境の変化以上の賃上げを余儀なくされているとのことである。また、教育現場でも熊本大学での半導体人材育成学科の新設や、九州内高専での半導体教育の拡充が進んでいる。
そして無視できないのが、TSMCの新工場では約1,700人が働く予定となっていることから、近隣では住居が足りない、商業施設が足りない、教育施設が足りないとのことで、直接的な賃上げ圧力のみならず、元来賃上げに最も重要な要素とされてきたマクロ環境にも好影響が及んでいることである。そもそも、県内総生産額が6兆円台の熊本県に、TSMC関連だけで1兆円規模の投資が入るため、劇的にマクロ環境が好転するのも頷けよう。
3.他業界も外圧で待遇改善
元来、こうした外圧に伴う賃金上昇は外資系企業の進出により金融業界で起こってきたことである。ただこちらのケースは、どちらかというと一律ベースアップというよりも、ジョブ型雇用の人材引き抜きを防ぐために待遇を改善するという側面からマクロ賃金引き上げに貢献してきた。
こうした中で岸田政権は、賃上げ企業への税制優遇や、人への投資に伴う労働移動の円滑化を通じて賃上げに結びつけようとしている。しかし、これまで紹介した事例を勘案すれば、いずれにしてもマクロ環境の長期停滞が続く上に、日本的雇用慣行により労働分配率が高まりにくい中で最も賃上げに貢献してきたのは、企業業績でも労働需給でもインフレでもなく外圧といっても過言ではないだろう。
こうした状況を勘案すれば、岸田政権が進める人への投資や成長分野への労働移動もさることながら、むしろ経済安全保障の強化にも貢献する有力な外資系企業の積極的な誘致や生産拠点の国内回帰を積極的に進めた方が、教育現場の改革も含めて日本の特に地方で働く労働者の待遇の底上げにつながる可能性が高いものと期待される。